ダ  ン  ス
小田垣雅也

 

 オランダ辺のヨーロッパの中心とは言いかねるところで、比較的若い男女が交互に立ち、みな内側を向いて二、三〇人が円形になり、体は烈しくは動かさず、腕を相互に組んで、脚を前に出したり後ろに出すだけの、ダンスを踊っていた。それがとても魅力的で、調子がよく、わたしは見とれていた。
 そして、「ダンスとは『すべてを』感ずることだ」と思った。つまり脚を通して、すべてを感ずること、つまり「一部ではない大地そのもの、自然そのもの」を感ずることがダンスだと思った。これは男対女が一組の、西洋のいわゆる社交ダンスには見られないものである。社交ダンスはお互いが話しあったり微笑んだりしている。あれは閉鎖的だ。またヨーロッパの他の場所にある伝統的なダンスともちがう。それに比較して、こちらのはしずかだ。
 日本にもダンスはある。いわゆる盆踊りである。それを見たことがあるとかないとかという話ではなくて、わたし自身が壬生町(栃木県。そこに疎開していた)とか、武蔵小金井とかで見様見真似で手振り足振りしたことがある。しかし日本の盆踊りの基本は、ユーモアというより「ふざけ」であろう。だからついていける。また何となく薄笑っている。または何となく、周りから笑いを期待した気持ちになっている。これは有名な徳島の盆踊りを見ていてもよくわかるだろう。あれは「ふざけ」である。
 その理由として日本は、文化として自意識過剰なのではあるまいか。日本の文化が自意識過剰である否かは別として(これはこれで独立した論文が必要だが)、日本の文化と較べて、西洋の文化はすぐ真面目になる。西洋文化は基本的に、個として真面目である。薄笑いということがない。これはアメリカに行ってすぐ気がついたことであった。ゼミの発表のときなど、日本の風習では、その発表する学生は「頭を掻きながら・・・」という風情があるのが普通だが、アメリカの学生は大真面目である。これはそこに育った文化の違いであろう。そのアメリカの学生たちを見ていて、わたしはある種の違和感を覚えたのであった。そして「彼らは存在論的に、本当に真面目なのだな」と思った。そのときは、それは文化の違いさ、と思っただけだったが。

 対話とは異質の者同士の間でのみありうる。それを京都大学の武藤一雄博士は「無いことにおいて有る」と言った。異質の者同士でなかったら、すぐそれは「馴れ合い」になり、モノローグになってしまう。いわゆる近代自我の意味は、この「大真面目な」文化か、「薄笑いの」文化か、で重大な影響があると思う。近代で周囲または自然から、人間が始めて独立した。そのどちらがいいというのではない。
 ヨーロッパの街角などに「人間」が飾りとして、よく彫刻の像になっているが、わたしはむかしそのことに注意を向けたことがある。東京の街にはそういうことがない。上野の西郷さんの銅像ぐらいだろう。これも要するに近代自我のなさせる業であろう。そして、近代自我に直面する者として、西洋人は「全体なる大地」とか「自然」とか、「街角の人間の確認」とか、その「真面目さ」、とかがある。
 西洋人のダンスは、その佇まいをよく見ているかぎり、街角の人間の彫刻とか、セミナーでの発表の場合のように、その対話によって、大真面目に自己が表現されているのではないか。それが成功しているかどうかは別として。少なくとも東洋人のように、自我の自覚の少ない、自意識過剰の文化ではそれはなかった。それは自我がハッキリしていた。そう思って見直してみると、その上でのダンスはいかにも調子がいい。それがダンスというものであろう。

 人間は「すべて」ではないから、個的である。だから「自分」と「周囲の自然との間」に対話もある。ダイアローグである。すぐに「個的」に真面目になって、それとの「全体としての周囲」との間の緊張に、初めて西洋のダンスがある。あのダンスのように。その質的違いの様子が、あのオランダだかどこだかのダンスに現れていた。個と全体、人間と普遍、個人と自然との違いが、そこには現われていた。だから本質的に調子もよかったのだと思う。それは、日本文化のように「ふざけて」はいなかったのである。日本人特有の「薄笑い」とはそういうことであろう。
 西洋のダンスは、「個」と、周りの「自然」との間の「対話」(ダイアローグ)によって、「一つの世界」を築くのである。そうしてのみ、「全体」が現われる。もちろん個でも全体でもないものは無いから、「全体」は一つの状態として、現われ切ることはない。個にとって全体は決して現われ切ることはない。「全体」は個にとって、そういう表れかたをしているのである。あのダンスも、そういうあり方をしていた。
 神秘はこの「個と全体の違い」を、存在論的に現しているものだ。そこには緊張がある。個と全体は、互いに別種のものだからだ。それは主観―客観構図における客観主義のように、「全体」が「全体」という名の一つの対象としてあるのではない。そこでの全体は、主観ー客観構図における客観は、主観に対向した客観として、一つの対象になっている。それはそのように、完結した、その意味で平和な論理としてあるのではない。その場合、それは「本質的に」調子よくなる。そのことを、あのダンスは、その調子よさによって、そして未完の緊張によって、現していた。

 その緊張によって、「すべて」とか「全体」とかを現しているのがダンスだ。それは大袈裟な言葉を使えば、「個」と「全体」が足ないし身体全体を通して、鬩(せめ)ぎあっているものであろう。それがダンスだろう。それはそのダンスによって成功しているとか、成功していないとかいうものではない。緊張とはそういうものだ。「中間的」である。しかしそうしてこそ「全体」を表現しているのがダンスだ。これは一寸信仰に似ている。わたしは信仰とは、論理的認識を超えた、この緊張のことだと思う。
 パウロに「アレオパゴスの説教」という(使徒言行録一七章)有名な説教がある。このことは鈴木大拙博士も言及しているが、そこでのパウロの説教は、神とは要するに「知られざる神」だということである。「我らは神の中に生き、動き、存在する」(二八節)ということである。知られざる神は、それを、人間が、知ってしまっては、おしまいなのである。信仰とは、決して人間の認識の対象として、閉鎖的なものではないらしい。それは人間の認識の対象としたら、二重性的なものである。人間の文化は、あのオランダのダンスにしても、二重性的な、オープンなものであるらしい。文化はみなそうだ。それは個と全体の競合によって成り立っている。論理的な決着はない。そのことを考え付いて、わたしは安堵したのであった。
 あのオランダだかどこだかのダンスを、もう一度見たい。

 

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