仏 陀 と キ リ ス ト

小田垣雅也

 

 「いと高きところ」というのは、空間的というよりも、結局、「罪人にして同時に義人」的な、ルター、アウグスティヌス、パウロに遡る信即不信の二重性の場のことではないか。また、地には平和の平和も、現今の国際関係としての平和論ではなくて、心の平穏さ、自然さではないか、と思う。クリスマスにあたり、そのことを考えてみたい。

 殺仏殺祖ということがよくいわれている。仏を殺し、師祖を殺すのが悟りだという意味である。もちろんこの場合の「殺す」は、自我の行為として相手を殺すという殺人の薦め、ニーチェ流の「殺神」ではなくて、仏祖の悟りは、仏祖そのものの介在が必要ない境地をもとめることだという意味であろう。バルト的キリスト中心主義とは反対である。だから仏陀の悟りに倣うことを当面の目的とした修行には、仏陀や師祖の無化が必要なのである。それが殺仏殺祖である。その意味では、むしろこれは脱仏脱祖であろう。仏や師祖を、悟りの対象として必要としている間は、その仏や師祖の悟りが無の悟りである場合、その悟りは本物ではないという意味である。しかしこれは、イエスの十字架も同じではないかと思う。殺キリスト殺祖がイエスの十字架である。脱イエス脱祖である。
 十字架の意味は、それが古典的キリスト教教義のように、人間のためにイエスが神に払った代償、刑罰代償説のようなものなのではなくて、十字架の必要性がなくなること、それが十字架の意味であり、つまり殺キリストの意味ではないか、ということだ。十字架は人間が罪を悔い改め、神がそれを認め、人間が神に対して恩に着るべき対象ではなくて、十字架の意味は、十字架の必要性がなくなること、そのように十字架が透明になることだ、という意味のことを言ったのはポール・ティリッヒであった。十字架が「必要とされている間」は、十字架の意図は成し遂げられていない、というのである。これは殺仏殺祖のキリスト教版であろう。

 よく引かれる例だが、成功した夫婦の例がある。夫婦がお互い同士、相手を本当に必要としている場合、相手は殊更に意識されていない。意識としては無化されている。その場合、相手は愛の対象ですらなくて、そこにいて当然のもの、生物にとって空気が必要なように、少なくとも対象としては意識する必要のないものになるだろう。これは「結婚は恋愛の墓場だ」などという下世話な話ではない。「殺相手」ないし「脱相手」である。そのような場合は少ないにしても、それに近い夫婦関係というものはある。相手が死ぬと、月足らずにしてもう一方も死ぬということはよく聞く話だ。

 然しこの場合重要なことは、殺仏殺祖して信仰の対象としての仏陀が無化される場合、そこに暗示されているものは絶対無だ、ということではあるまいか。仏が殺仏され、つまり無化され、言い換えれば脱仏化されて、それにともなって、その仏に倣おうと、仏の現実を求めていた自分も無化される場合(それが仏に倣うということだが)、その自己が求める対象は、仏のように無なのだから、ただあるものは、無、空だということになる。この場合マイスター・エックハルトの、信仰にとって最も邪魔なものは、信仰を求めるその心だ、という言い方を思い起こすのもよいだろう。それは万物流転の、有であることに対向しての、対象としての無ではなく、その水準での有―無のどちらでもない無、つまり絶対無だということだ。
 同様に、イエスが十字架の上で自己を無化されたときも、それは刑罰代償説のような法的物件ではなくて、自分を代償としてさしだすという意図をもったその自己の無化、つまり脱イエスも含めて、その自己を無化するということであろう。それがイエスの本当の自己無化、脱自化ということではあるまいか。それが十字架の本意であろう。刑罰代償説はイエスの自己無化ではない。むしろそれはイエスの自己主張である。それは決して、幼児イエスが意味していることではない。しかし十字架が刑罰代償説のように法的物件、つまり自己無化という対象ではなくなる場合、あらゆる対象性は脱却されるから、代償する相手の存在も失われるという意味で、神は「代償を求める人格」ではなくて、絶対無になるほかはない。人類のための代償としての自己無化には、まだ対象性、無に較べて有の次元面が残っているのである。それは自己無化という形での自己主張になる。繰り返すが、これは幼児イエスのあり方ではないだろう。

 神の死の神学というものがある。わたしが四〇年まえアメリカに留学していたころ流行していた学派で、神の言葉中心主義を主張していたバルト神学の人々は、この神学に敵対的であった。わたしは、といえば、むしろこの神学に肯定的であったのである。その議論には種々の混乱があったが、その混乱の原因は、ニーチェの「殺神」と「殺仏殺祖」の本意つまり「脱仏脱祖」の「脱神」をとり違えていたからだ、と思われる。三〇年以上前に、イギリスのエリザベス女王が京都の南禅寺を訪れ、「無」と書かれた掛け軸を見て、その字の意味を質問されたとき、案内していた柴山全慶和尚が即座に「それに相当する英語はありません。あえて言えばGodでしょう」と応えたとされている。神は絶対無と「あえて言えば」同じなのである。つまり神も対象ではないのである。神の死の神学の祖先はニーチェではなくて、ボンヘッファーなのである(ボンヘッファーについては後述する)。これは、信や悟りの真意は対象化・言語化できないということを含んでいる。同じ「殺神」の神学といっても、ニーチェとボンヘッファーは違う。区別をしないと混乱する。
 まずニーチェだが、ニーチェが近代神学を拒否したのは、それが「対象としての神」を信ずる神学であったからであると言えるだろう。天国に君臨する対象としての神は、人間を支配し、伝統的に神に対して人間を「奴隷の道徳」で縛り、生を弱体化させ、彼岸の天国という妄想にあこがれさせて、この現実世界に逃避的にさせるからである。対象としての神は、人間をそのような状態に陥れる。それに対してニーチェは、君主は人間なのだと言う。しかし神に対するとらわれから人間の心を解き放つことは不可能である。だからこそ、この教会のようなものもある。だからそのような神は「殺神」しなければならぬ、とニーチェは言う。これがニーチェの「殺神」の思想である。
 それは対象としての神の「殺神」である。しかし人間がこの世界で神なしに生きていくことは、生きる目的を見失うことであり、それはできないから、人間は目的や意味などのない神なき歴史を受け入れなければならない。これがニーチェの永劫回帰のニヒリズムである。これは根本的に「反近代」、文字通りの意味で「殺神」の思想である。「これが人生か。よろしい。もう一度」とニーチェは言う。
 それに対して、ボンヘッファーの神はどうか。ボンフェッファーはアウシュヴィッツの現実に直面して、ヒットラー暗殺計画に参加し、捉えられてドイツ敗戦の二週間前に処刑された。そのボンヘッファーは「宗教なきキリスト教」ということを言った。それは「殺仏殺祖」よりも、「脱仏脱祖」の事情を意味していたのではないかと思われる。彼は信仰の対象としての神は「仮説」であり、この世の中の事情を処理するに当たっては、そのような「仮説」された神の助けを借りることをやめなければならぬ、と言った。ボンヘッファーは「成人に達した世界」ということを言うが、この「宗教なきキリスト教」が「成人に達した」ということの意味であるという。ボンヘッファーは次のように言う。アウシュヴィッツの現実を前にしては「『たとえ神がいなくとも』ということを認めることなしに、誠実であることはできない。そしてまさにそのことを認めることは――神の前においてである。・・・神という仮説なしにぼくたちをこの世に生かしてくれる神は、ぼくたちがたえずその前に立っている神である。ぼくたちは神なくして、神のまえに、神とともに生きている。」
 ここにあるものは、伝統的な、対象としての神からの決別であろう。わたしが繰り返し主張している信即不信の二重性ということも、ボンヘッファーのこのような思想と同道している。つまり、神は在か不在かという分別知を超えているのである。わたしたちは「神なくして、神のまえに、神と共に」生きているのである。ボンヘッファーとニーチェ的「殺神」の思想との違いは明瞭であろう。ボンヘッファーには「脱神学」「殺仏殺祖」が示唆されている。

 神の死の神学は、脱構築の神学の解釈学であるといわれている。脱構築の神学というのは、フランスのジャック・デリダなどの脱構築論を神学に応用したものである。説明はいろいろありうるが、要するに、事柄の本質は「前言語的」なものだということである。だから神の本意は繰り返し、「脱言語化」されねばならぬと、脱構築の神学は言う。その視点から、神の死の神学は、言語化された神、特に近代神学の「対象としての神」に反対したのであり、これは脱構築の神学を示唆していると言えるだろう。それはボンヘッファーの神学の応用であるといえる。

 このような神に、人間はどうしたら到れるか。わたしはロマンティシズムと、ネオ・ロマンティシズムを区別している。啓蒙時代のロマンティシズムは理性や意志に反対し、情緒こそが真実であるという。しかしこの水準でのロマンティシズムは、いかにも理性的・意思的な知識、いわゆる分別知ではないが、しかし情緒の対象を必要としていることは事実であろう。言い換えれば、このロマンティシズムは、なお対象論理的水準を抜けきっていないのである。それは矛盾した言い方だが、情緒による合理主義的「殺神」の思想である。それに対してネオ・ロマンティシズムは、一切の対象性を超脱し、その意味でこそ反理性的・超知識的である。そして注意したいことは、絶対無は、この意味で情緒的なものであろうということだ。それは対象論理が届かないという意味でネオ・ロマンティシズムなのである。
 実際、西田幾多郎は『善の研究』の中で、人間の精神についての古典的な区別、知・情・意の区別をこえた、人間存在を一にした、独立自全的に理解するとしたら、それは、主観―客観構図でとらえられるような「対象」ではなくて、情の問題であろうと言っている。絶対無は、人間の理性的把握の対象ではなくて、それは「われわれの情意より成り立ったものである。・・・もしこの現実界からわれわれの情意を除きさったならば、もはや具体的な事実ではなく、単に抽象的概念になる」と。それに続けてこうも言っている。「この点より見て、学者より芸術家のほうが、実在の真実に達している。」これは宗教家についても言えるであろう。このように、ネオ・ロマンティシズム的思考は、遠く「殺仏殺祖」や「イエスの十字架」の本意を指し示しているのである。

 今日はクリスマスだから申し上げたいが、これは子供の無邪気さにも通じているところがある。子供の無邪気さは感動的だが、それはもともと刑罰代償説などを超えて、その意味で脱キリスト教化しているからではあるまいか。そのことに思いを潜めることが、クリスマスの意味だと思う。子供は爬虫類の子供ですら可愛い。その水準に降りて初めて、仏教とキリスト教の対話も可能になると思われる。いと高きところにいます神には栄光、人には平和である。実際、子供の世界に、宗教的分け隔てなどない。

 

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