仲 間 と は 誰 か

小田垣雅也

 

 旧約聖書の箴言に「友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」(一八の二四)とありますが、友の振りをする友とはどんな人であり、兄弟よりも親密になる人とはどんな人でしょうか。そんなことについて考えたので、まとめておきたいと思います。

 

 近頃、新聞の社会面の下の方にほぼ毎日でている著名な人々の訃報を、気に留めて見るようになりました。いろいろな分野の人々が出てくるが、その享年がわたし(七六歳)より年上だと、「この人の年齢に達するまでには、自分はあと何年生きなければならないな」と考えたり、わたしより年下だと、自分が得をしているような気分になります。そんな習慣がついたのは、自分の老いとか死が、日程上の問題として、自覚されるようになったためでしょう。自分が現実に老いた証拠です。中学時代の同級生も、半数は、すでに鬼籍に入っています。同期会の委員も癌で死んで、解散になってしまいました。いずれにしろ、このように思うのは、自分の心の卑小さによることでしょう。自分の生死観が確立していれば、隣人の生や死によって、自分の生や死が影響を受けることはないはずだからです。先月も書いたように、わたしは以後、自分の老いとか死とか、また仲間とは誰かというようなことを、自分の説教で、多く扱うようになるはずです。老いをテーマにして、また何か本を一冊まとめてみるのも悪くないと、思い始めています。

 その心の卑小さと同系統の心理ですが、人の苦しみや不幸を見ると当方が、直接はそれと関係ないのに、安堵するという気持ちは、自分の中で、やはり覆いがたくあるのを自覚せざるをえません。人の悲しみや不幸を見て当方が安心するというのは、いかにも品性卑小です。それは「友の振りをする友」の心理であると言えるでしょう。むかしどこかの高等学校(旧制)の寮歌に「友の喜びにわれは舞い、友の悲しみにわれは泣く云々」というのがありまして、ある友人が、友の喜びに自分も喜ぶことはありうるが、友の悲しみに自分も本当に悲しむことなどはできないとこの寮歌を解説しました。友の悲しみは、この競争社会の世知辛い世間では、むしろ自分の喜びになるのだというのが打ち明けたところだろうと、その友人は言ったのです。人間とはそういうものだろうと、わたしはそのとき思った。しかし今にして考えるのに、友の悲しみをひそかに喜ぶ心理は、自分の中にも否定すべからざる心理としてあり、それはいかにも人間的であって、さらに言えば個人主義的であって、友の喜びには本当に喜び、悲しみには本当に悲しむことができるのは、イエスとか仏陀のような、宗教的偉人ではないかと、思うことがあるのです。

 要するに、仲間意識とはどういうことか、ということです。先日もある友人から手紙(返事)が来まして、その中に、「(自分)ひとりじゃなんだな、という気分にもなりました」と書いてありました。その友人はかつて大腸癌を患ったことがあり、それは完治しましたが、そのとき前立腺も癌の移転を恐れて、一部削ったのだそうで、そのような癌体験はやはり「孤独な、ひとりのものなのだな」、と思っていたようなのです。そしてそれは当然なことです。わたしは自分の前立腺癌とか、膀胱癌の再発のことなどを、たまたま手紙に書いたので、その返事が来て、その中にそう書いてあったのです。つまり、その友人はわたしの癌によって、「自分は癌だけど、孤独じゃないんだな」というある種の安堵をもつことができ、わたしは逆に、その友人の癌を知ることによって慰めをえたという構図になっているのです。先ほどの高校の寮歌によれば、ここはお互いに、友の悲しみに自分も悲しんでよいはずのところです。それなのに「友の悲しみに、われは慰められている」のです。

 しかしそのような卑小な気持ちもあることの方が、人間同士の仲間意識ということではあるまいかとひそかにわたしは思うのです。引用した高校の寮歌にあるような近代自我的倫理、すなわち友の喜びには喜び、友の悲しみには悲しむという意識は、このような人間の心理の卑小さを認めず、それで却って何かギスギスしてきて、それは仲間意識ということとはいくらか違うのではないかと思うのです。そこには「友の振りをする友」の要素が交じっていないでしょうか。わたしはイエスや仏陀には、追随者はいても、仲間と呼べるべき人々はいなかったのではないかと思うことがあるのです。

 この間、朝日新聞(二〇〇六年一〇月一日、朝刊)を読んでいたときも、同種の感想をもちました。それは「快眠お助けグッズ」という記事ですが、それによると、現代人は睡眠にいろいろな悩みを持っているのだそうです。二〇〇〇年の厚生労働省の統計によると、朝起きても「熟睡感がない」が二四・二%、「朝早く目覚めてしまう」が二二・〇%、「夜中に何度も目覚める」が一九・五%、「なかなか寝つけない」が一七・〇%、「朝起床がつらい」が一七・〇%、その他が一三・七%だそうです。わたしは昔から不眠症に悩んでおり、とくにこの一年ぐらいはひどいのですが、夜寝るときは寝つけないことが心配で、なかなか就寝できないほどです。とくに「朝早く目覚めてしまう」「夜中に何度も目覚める」「なかなか寝つけない」は、わたしの不眠症の悩みそのものです。だからこの記事を読んだとき、わたしは「自分は独りじゃないんだな」と思い、同じ悩みをなやんでいる人のパーセンテージの高さに「安堵した」気分になりました。それぞれ二〇パーセント近くの人々、五人に一人の人が、わたしが眠れないでいる今宵も、眠れないでいるのだな、と思うと、孤独感から救われたような気分になりました。つまり、人の苦しみの事実によって、こちらは安堵するのです。「友の悲しみにわれは泣き・・・」とは逆です。

 

 仲間意識とはどういうことか、と考えることがあります。近代自我には「仲間」はいないのではないか。先日、大久保にある妻がパートで勤めている病院まで、自転車で往復してみようということになりました。妻が病院に手帳を忘れてきて、それをとりに行きたいのだそうです。妻の病院は神田川のそばにあり、わたしの家は神田川の上流にあるので、神田川沿いをくだっていけばよいわけで、自転車ならそんなに遠くはありません。永福町を通り、堀の内、方南町、中野坂上などを通ります。いわゆる下町――正確に言うと下町ではありませんが――、東京西郊の、たぶん大正時代に拓かれた庶民の町を、大分道に迷いながら走りました。そしてわたしはそのとき、不思議に気楽な気分になっていたのです。道に迷いながら、道端の店屋を覗き込んでも、そのことがごく自然にできる雰囲気に驚いていました。わたしは三鷹に住んでいますが、自宅の周辺では、人の家を覗き込むことは、たとえそれが店屋であっても、遠慮があります。そのように躾けられてもいました。中央線や井の頭線の電車の中の人も、また自宅周辺で散歩で出会う路上の人も、全体として見ると何か個人主義的で、抽象的な感じで、インテリ面をしています。それは「仲間意識」とは遠いようでした。

 都電の荒川線に乗ると、いつも三鷹の家の近辺とは反対の、庶民性を感じます。わたしは子供の頃、山の手線 の大塚駅 の近く、荒川線(当時の王子電車)でいうと向原駅の近くに住んでおり、父母の墓が荒川線の雑司が谷墓地にあるので、今も春秋二回、お彼岸のとき、荒川線に乗ります。そのようなときも、人々の顔が井の頭線の乗客とはまったく違う庶民の顔と雰囲気を持っていることに気がついていました。そしてその庶民の生き方をわたしはこれまで嫌い、青年時代は、個人主義を標榜していました。「自我の覚醒」なるものは、わたしの青年時代の標語でもあったのであります。阿部次郎の『三太郎の日記』とか倉田百三の『愛と認識の出発』は、当時の青年たちの座右の書物でした。しかし近代自我には、先ほどの聖書でいうと、「友の振り」をする要素が交じっていないか。最近、この近代自我同士の友情なるものは少し違うね、と思うようになりました。仲間とは結局、庶民同士のことではないのでしょうか。

 以前、沢村貞子の随筆『老いの楽しみ』を読んでいまして、その「庶民的」知性に感動したことがあります。これは書いたこともあります。貞子は浅草の「芝居者」の家に生まれ、歌舞伎役者になれない女の子は、家の中でも、はじめからに おまけ であったという。貞子自身は家庭教師のアルバイトをしながら、当時の女子教育の最高学府、日本女子大学に入り、築地小劇場の左翼演劇活動に参加して、卒業間近かに検挙されて卒業できなかったような女性でした。つまりその意味でなら、当時の極上のインテリであり、決して庶民ではありませんでした。しかし浅草の庶民とは、決して個人主義的インテリとして、人生の主役にはなろうとしない。もともと浅草の庶民の中には主役はいないのであると言いますます。世話好きだが、お互いの暮らしの中には首を突っ込まない。並みのくらしができればそれで結構だと思っている。しかし「世話好きだが、お互いの暮らしの中には首を突っ込まない」庶民の生活の知恵とは、「世話好きで他人の干渉をしたがる生活」と、それと対抗した「個人主義」との、バランスの上に立っているのではないか。それが沢村貞子に体現されているような、本当の庶民というものではないか、と思います。言い換えれば、友の悲しみに自分は慰められながら、しかし同時に個人主義的矩(のり)をも知っているという生き方が本当の庶民、仲間意識というものではあるまいか、と思うのです。してみるならば、「友の悲しみに慰められる」というわたしの卑小な心理も、そう性急に責められるべきことではないような気もしてきます。わたしたちはこれまで、近代個人主義的倫理で、「友の悲しみにはわれも悲しみ、友の喜びにはわれも舞う」ということばかりにとらわれた生活をしていなかったでしょうか。特に明治時代以降、アメリカのピューリタニズムに影響されたキリスト教を輸入した日本のキリスト教は、そのような個人主義的傾向があったのではないでしょうか。しかしそこには「友の振り」をする要素が含まれており、何かギスギスしていて、それは「仲間意識」ではないような気がします。

 

 話が急に跳ぶようですが、哲学者の鈴木亨氏が、繋辞的世界ということを言っている(鈴木亨『西田幾多郎の世界』一九七七年)。西田幾多郎は絶対矛盾的自己同一に対する一つの説明として、主語的論理と述語的論理の矛盾の上に成り立つのが絶対矛盾的自己同一の立場だと言っています。例えば「桜は植物である」という場合、桜が主語で、植物が述語ですが、主語的論理というのは桜という個物は、植物という一般者に解消されないで、桜固有の特質を持っているからこそ、それが桜だと判断できるのだといいます。たしかにそれはその通りです。植物学がそのことを証明しています。これが主語的論理で、これはアリストテレスの個物主義の立場を踏襲している。それに対してプラトンのイデア論は述語的論理で、桜が桜であると判断されるのは、まず植物という一般者(プラトンの場合、イデア)があり、桜がその中に置かれてこそ、桜として判断されるのだと言います。これもその通りでしょう。つまり主語的論理と述語的論理は互いに矛盾しているのであり、「桜は植物である」という単純な判断も、主語と述語、個物と一般者、の矛盾の上に成り立って判断できるのだというのです。それが絶対矛盾的自己同一の立場であると西田は言っています。鈴木亨氏の繋辞とは、この「である」ですが、「桜は植物である」という判断そのものは、この「である」によってなされるのであり、繋辞の中でこそ、桜は植物であるという判断はなされるというのです。これは、西田哲学では矛盾という状態のままで残されていたものが、繋辞として、精密化されたということでしょう。

 わたしたちの文脈に引き寄せて言えば、この個物主義的・主語的論理が個人主義であり、一般者的・述語的論理が、庶民主義ということになるでしょう。たしかに個人は一般者の中に解消されないからこそ個人なのです。しかし一方、人間一般という視点もあります。人間は人間であって、決して猿ではありません。そして人間の繋辞主義的生き方とは、個人主義と、庶民主義のバランスの上にあるのではないでしょうか。むしろそれが、「世話好きだが、お互いの暮らしの中に首を突っ込まない」本来的意味での庶民の感覚ではないかということです。

 もともと、先ほど例にあげた高校の寮歌に歌われていたような近代自我、人間の喜びや、悲しみ、嫉妬や歓喜に左右されない個人主義者同士の友情は、無理なのだと思います。それは何か「友の振り」をしているところがあります。わたしたちが、自分が人の悲しみには慰められ、友の喜びには嫉妬し(あえて言えば)、自分の死を恐れ、新聞の三面に載っている物故者の年齢に安心したり気にかけたりするのは、それが人間同士の仲間うちということを裏打ちしているのであり、仕方がないことではないだろうかと思い始めています。それが人間同士の仲間意識の前提ではないかと思うのです。近代的個人主義は、人間の実情に合っていないのです。そこでは「友の振り」が、どうしても交じってきます。

 

 今年も間もなくクリスマスですが、クリスマスにあたってのピューリタン的・近代的博愛主義やアガペーもいいですが、このような一段下がった人間論に思いを潜めてみるのも、クリスマスにとって、それなりの意味があることだと思います。 (06X12)

 

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