クリスマス(二〇〇五年)

小田垣雅也

 

 たしか二年前のクリスマスに、わたしは「乳飲み子イエス――クリスマス考」と題した説教をしたことがある(拙著『一緒なのにひとり』二〇〇四年に、同じ題で収録)。その趣旨は、年々、社会習俗としてのクリスマスは盛んだが、クリスマスは乳飲み子イエスの誕生を祝う日であるべきこと、しかしそのクリスマスの本意が、社会習俗の中に埋没して、乳飲み子イエスの意味が忘れ去られていること、しかしそれでも結構ではないかということである。その理由は、乳飲み子とは、自分の宗教的意味を要求したり、自己を主張したりはしないし、自分が社会現象としてのクリスマスの中に埋没しても異議を唱えたりはしないからである。しかしそれが乳飲み子ということのあり方ではないか、と。そしてその自己無化によって、人々をひととき親切にさせ、楽しくさせれば、そこに乳飲み子イエスの誕生を祝うクリスマスの意義はあるのではないかというものであった。

 この感想は今も変わっていない。先日も吉祥寺駅前の広場にクリスマス向けの大仕掛けな電飾が取り付けられているのをみて、この説教のことを思い出した。そして乳飲み子のこの生まれたままの自己無化は、割に大事なことではないかと思った。乳飲み子が可愛いのは、この本性的、そして存在論的自己無化によるのではなかろうか。近頃わたしは年をとって、ものの感じ方が保守的になったせいか、社会現象としての(つまり神学的・宗教的ではない)クリスマスに肯定的になっている。あるいはこのような乳飲み子に対する感じ方が無意識のうちに、まず背後にあるから、クリスマスが歴史上、年々歳々にわたって祝われているのかもしれないと思ったりしたのである。よく知られているように、元来、クリスマスが一二月二五日に定められたのは、ローマの司教リーべリウスのとき、三五四年で、これはローマの冬至祭に合わせて決められたものである。社会習俗としてのクリスマスとお祭りは、本来なじまないものではないのである。

 

 この幼児の自己無化と、神ということを、考えてみよう。キリスト教の神秘主義と、東洋とくに佛教の神秘主義とを比較してみた場合、どちらも人間を無化して神と合一することを目的としている点では同じだが、両者には根本的な違いがある。これはトマス・マートン(一九六八年没)という現代のトラピスト修道僧が十字架のヨハネ(一五四二〜九一)と呼ばれるスペインの神秘家の言葉として引いている例だが、西洋の神秘主義は、人間と神との関係を、窓のガラスになぞらえる。神は窓から射し入る光である。だからガラスが自我のさまざまな欲望によって曇らされている場合、たとえそれが神を求めるというような良いものであっても、神の光はその自我によって邪魔され、部屋の中に少ししか射し込まない。修道院や修道僧の修行の意味は、このガラスの曇りを取り除くことであると言う。

 これは正当な理解だが、しかしその場合、神の光を受けるのは、ガラスの曇りをとり去った、部屋の中にいる自分であることは間違いない。つまりガラスを曇らせている自我のいろいろな欲望を無にした自我である。だからそこに、神を求める、いわば純粋な自我があることが前提されていることは、間違いない。西洋の思想が人間中心主義的であり、有の思想であると言われるのはこのような事情であろう。西洋の神秘主義は、有の思想の神秘主義である。

 それに対して佛教の神秘主義では、これは西田幾多郎の『働くものから見るものへ』の中の文章にもでてくるが、自己の欲求は窓のガラスではなくて鏡にたとえられている。鏡は物を映す。目の前の物を何でも映すのが鏡であって、物を映さない鏡はない。だから鏡は、それ自体としては、言わば存在していないと言える。その意味で、鏡そのものはいわば無である。人間も無となり、周囲の変化にしたがって変化することによって、周囲との摩擦を避け、自由に生きられるという。いわば無相の自己である。人間が「人の間」としてこそ人間であり、それ自体として、「自分は自分のみによって自分である」ようなあり方としては存在せず、いわば関係存在として、「無自性」として生きているのは、このように、鏡にたとえられるのである。

 しかしこの場合問題は、自己が無相のものである以上、その自己が信ずべき、ないし合一化されるべき、「対象」としての神も、少なくとも自分の信仰の対象としては、無になるということだ。自己が無になる場合、その自己の対象も無くなるからである。これは神が有るか無いかという、自我を規準にした判断から無縁になるということだ。対象論理的判断を超えたものとしては、神は有るかもしれないし、無いかもしれない。無とは元来、そういう次元のものである。しかしこのことを逆に言えば、神は人間の思考の「対象」であることを脱却して、本当に人間と合一されているということでもある。それは無において可能なのである。東洋の神秘思想が無の神秘主義であると言われるのはこのような事情であろう。そのことを、乳飲み子イエスのいわば自己無化が、暗示しているように思える。

 

 わたしは、夜、眠れないことがよくある。そのような時、わたしは眠ろうとして、睡眠薬を飲んでみたり、パンなどを食べて血液を消化器系のほうにまわして脳の活動を鎮めようとしてみたり、あらゆる努力をするが、するとますます眠れなくなる。その場合、眠ろう々々と努力する自我はますます強力になって、かえって眠れなくなる。これは誰にでもある心理の悪循環であろう。わたしはそのようなとき、いわば「自我病」に罹っているのだ。ここでは自分は無相化されていないのである。こういう言い方が心理学上許されるかどうか分からないが、眠りに入るためには、自我が無になること、少なくとも眠ろうとする自我が無になることが必要である。自我は、いわば鏡になることが必要なのである。眠れなければ、眠れないという事実を、自然に映している鏡である。窓ガラスの内部にひそむ自我ではない。実際、翌朝、眠ったあとで考え直してみると、寝入るとき、自我そのものは忘却している。いま眠る、と自覚している眠りはない。忘却していない限り、眠りはこない。自我が無になるとき、眠りは訪れる。

 

 もともと、天然自然になろうと努力することほど、天然自然な生に反したことはない。乳飲み子の自然さになろうと努力することほど、乳飲み子の自然さに反したことはないのである。そのような努力は、ますますその人を、乳飲み子の自然さから反対の方向へ押しやる。わたしは以前から宗教的修行というものに反感をもっている。修行の大切さを、とくに密教系の宗教は強調するが、修行や努力によって到達される悟りというものはないのではないか。修行や努力には、その修行や努力をする自我が強力に前提されているからだ。もしそれによって到達される信や覚があるとしたら、それは自我の努力に恃んだ、鼻持ちならぬ宗教的エリート趣味になるだろう。実際、そういう「高僧」はときどきいるが。わたしは庶民も嫌いだが、エリートはなおさら嫌いだ。普通の、自然な人間がいい。乳飲み子の天然自然さは、修行や努力によってなれるものではない。

 

 以上の説明はその通りでありながら、今日のクリスマスの説教で言いたいことはそのことではない。乳飲み子イエスになぞらえて自我を無にする、というような宗教的努力の強調ではなくて、わたしたちはクリスマスにあたり、この年末の祭事を素直に楽しみ、人々とともに喜べばよいのではないかと思うのだ。わたしたちは自分の自我を無にし、本当に愛他的博愛主義になることはできない。博愛主義の背後には、常に「良いことをした」という勘違いや、その意味での自我主義が付いて廻っていよう。修行によっても、わたしたちはせいぜい西洋の神秘主義の窓ガラスのように、ガラスを透明にすることができるだけで、その奥の自我をも無にして、乳飲み子イエスに倣うことはできない。鏡のたとえのように、自我を無にすることは、わたしには、たぶん、無理なようだ。しかしそれはその通りでありながら、そのことに几帳面に苦しむかわりに、わたしたちはひととき、クリスマスを喜び、乳飲み子イエスに思いをはせ、貧しい人々に奉げ物をし、周囲を楽しくすることはできるだろう。自我主義者のままで、である。しかしそれが、生まれたばかりのイエスを中心にしたクリスマスの意味ではないか。

 わたしは近頃、たぶん年令のせいもあって、事柄を難しく考えることが億劫になってきた。今年もクリスマスを迎えるが、幼児イエスは人間の原点だ、自分を無にして、乳飲み子イエスに倣うのがクリスマスの意義だと言って力むかわりに、もっと素直にクリスマスを祝えばよいのではないか、と思うようになった。自分の中の自我に、相変わらず苦しみながら、である。むしろ自分の弱さを認め、この弱さが自分にとっての自然なことなのだということに気付くことが、少なくともわたしたちにとっての天然自然さではないか、と思うのである。乳飲み子イエスは、遠くそのことを暗示しているようにも思える。(05Y23)

 

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