本 当 と 嘘

小田垣雅也

 

  上野でやっている『フィレンツェ――芸術都市の誕生』というのを観てきた。フィレンツェへはつい半年前に行ったばかりだが、フィレンツェの全貌を知るには、展覧会の方が便利なところがある。今月はクリスマスだが、そんなこともあって、数点ある『聖母子』の絵や彫刻をある種の感慨をもって観ていた。そして自分の生活の「本当と嘘」ということなどについて考えた。この聖母子像の安らかさは何か。幼児はやはり母の胸に抱かれているときが、安らかで、そこに「本当の」生もあるのではないか。母なるものは大自然の肯定ではないかとも思う。 先月の説教でも触れたが、わたしは今、鬱と神経症に悩んでいる。何をするにしても気分に湧くものがなく、生きている目標がなくなったようで、何をしていて良いのか分からない。またそれと根本的には同根のものだと思うが、離人症とかその他の神経症に痛めつけられている。夜も、睡眠薬を飲んでも、朝早く目が覚めてしまう。それで、森田正馬の本をよく読む。
  森田は「思想の矛盾」ということを言う。思想の矛盾とは、自分がかくあるべしという規範と自分の現実が相反し、それによって不快、不安、さらには恐怖に陥ることである。理想と現実はいつも一致しない。これはこのように言うだけだと当たり前のことのように思えるが、そうではない。たとえば不眠症の場合、眠るというのが「かくあるべし」という規範である。人間は夜は眠らなければならない。さもないと、翌日の活動に差し支える。しかし現実には眠れない。眠れない現実にとらわれて眠ろうと努力すればするほど、かえって目がさえてしまう。これは誰にでもあることだろう。だからさらに眠ろうとし、眠ろうと努力すればするほど、眠れないという現実は確認され、確認されることで増殖してしまう。だからさらに眠ろうと努力する。するとさらに眠れないという現実は増殖するのである。その循環が延々と続く。この悪循環を森田は「精神交互作用」と言っている。この状態を森田は「一波をもって一波を消さんと欲す。千波万漂こもごも起こる」と言う。この状態が「思想の矛盾」と森田がいう事情である。
  また、わたしにはいろいろな強迫観念があるが、その一つに戸締り恐怖とでも言うべき強迫観念がある。家を空けて外出する時など、戸締り、火のもとの確認を何回もしないと気がすまない。確実に鍵をかけ、ガスの栓を締めても、不安になってまた確認せずにいられないのである。急いでいる時などは特にそうで、このわたしの強迫症状に、家人はもう諦めている。これも戸締りという規範と、不安の現実が交互に作用して、際限がなくなるのである。それでわたしは、三回確認することにしている。三と言う数字に、わたしは子供のころからある種のとらわれをもって持っている。
  森田療法の基礎は、このような強迫症状の苦しみや不安を含めて、その精神交互作用を破壊することだが、それはまずその自分の現実を「あるがまま」に認めることだという。それを否定ないし拒否することではない。「あるがまま」に認めないと人間は「精神交互作用」に陥り、「千波万漂こもごも起こる」状態になる。不安や恐怖の現実を「あるがまま」に認め、その現実を現実として認めたとき、または諦めたとき、その不安や恐怖はそれとしてそこにありながら、少なくともそれを否とする規範は意味を失うことになる。したがって思想の矛盾もなくなる。煩悶即解脱である。この経過は難しいが、しかし精神交互作用を脱するにはそれしか道はない。そしてこのことは、元来自我があるから起こることだ。強迫観念は、元来、几帳面で自我の強い人に起こるそうだ。それは母親に抱かれた幼児の自然さとは別の世界である。どちらが本当で、どちらが嘘の生だろうか。聖母子像にわたしが感じた一種の憧れはそのことだ。そこには「本当の」生があるように思われる。これまでわたしもしばしば口にしてきたが、「理」と「事」という区別がある。「理」とはこういうことだ。精神交互作用を破壊するには自分の現実を――たとえば眠れないという現実を――「あるがままに」認めること、そのときにのみ眠らなければならないという「規範」は意味を失い、結果として眠れるようになるだろうということ、これは「理」としては全く正しい。煩悶即解脱であり、わたしがつねづね言っている「二重性的」人間の現実ということも同じである。しかし「理」として理解することは、その理解を対象として、分別知によって確認することであり、その「理」が理解の「対象」である以上、それは自分から離れたところにある。それは自分自身の「現実」ではない。それは正しいものでありながら、現実ではないのである。その「理」が自分自身の現実となったとき、その「理」は「事」、自分の現実になる。そのときは「理」そのものが無用になり、「理」と「事」の間の精神交互作用は突破されていよう。信とか悟り、覚というのはこの事情のことではないのか。
  こういうことがあった。一一月の初めに、京都・奈良の紅葉を家内と見にいった。神護寺の紅葉などは見事であった(わたしは赤緑色盲だが)。帰りのバスの中でふと気がついたのだが、旅行に夢中になって、わたしは自分の強迫観念をスッカリ忘れていたのである。「自分がそれを忘れている」ということすら忘れていた完全な忘却であった。「理」はそのとき無用になっている。佛教では「理」を悪知、「事」を良知というようだ。しかしわたしがそのことに気付いたとき、それはすでに「事」の事態から滑り落ちて、「理」の世界に陥っている。
  作務とか作業療法、ないし仕事ということの意味も、それによって、この良知としての現実を手に入れる工夫という面があると思われる。わたしたちが目前の作業に集中し、没頭しているとき、「理」などは念頭にないだろう。そのとき、神経症による煩悶と苦悩が消えているわけではない。それを「そのまま」「あるがまま」にしておきながら、作業に没頭する。作業とは元来そういうものだ。いたずらに自分の不快、不安にかかわってそれを嘆く「気分本位的」、内向的傾向を離脱し、気分のいかんにかかわらず、なすべきことはなす、という自分を「事実本位的」、外向的態度にむけること、それによって関係存在としての人間の生を生きることである。人間は関係存在としてのみ、人間なのである。白状するが、わたしが今この文章を書いているのも、その試みだ。文章を書くことは、わたしにとって、一種の作業療法なのである。
  これはかなりの意志が必要な、難しいことだが、やってみるほかはないだろう。考えてみると、エックハルトが「信仰にとってもっとも邪魔なものは信仰をもとめるその心だ」と言い、ルターが「罪人にして同時に義人」、また親鸞が「地獄は一定棲家ぞかし」と言い、道元が「自己をならふというは、自己をわするるなり」と言って、その方途として打坐と作務を言っていることなども、まさにそのことだろう。その背後には、どれほどの苦しみと煩悶があったことか。宗教とは元来そういうものであるかもしれぬ。人生は遊びではないとつくづく思う。他の誰でもない自分の現実を「あるがまま」に認め、その現実をそのままに傍において――それを打ち消そうと正面に据えると、千波万漂交々いたるのだから――自分の生の目標に向かって努力を続けること、そのとき精神は外界の変化に応じて流動し始め、その結果として神経症の不安、恐怖は消滅していく。それが悟りだろう。
  森田は「心は万鏡にしたがって転じ、転ずるところ実によく幽なり。流れにしたがって性を認得すれば、無喜また無憂なり」としばしば言う。第一に神経症の症状も、いつまでもは続かない。それが寛解することがある。これは、わたしのわずかな体験でもある。それならばその心の流動に身をまかせていればよいのである。これは容易いことだ。しかし第二に、その心の流動に身を任せているときは、神経症の症状があるからといって憂へたり、なくなったからといって喜んだりすることもなくなるだろう。心は万境にしたがって転ずるのだから。そしてその結果として、神経症そのものから離脱するのかもしれぬ。それが「あるがまま」だ。なかなかそのことに徹底できないが。今日の話はクリスマスに相応しくないかもしれない。去年のクリスマスに、わたしは「乳飲み子イエス」という題で、乳飲み子というものは、大人とちがって、自分の神の子性を主張したりしないのではないかと言った。だからクリスマスは、人々がクリスマスの意義を忘れて、単に賑わい、睦みあい、仲良くしあえば、神の独り子などという神学はどうでもよいのではないか、ということを言った。それが乳飲み子イエスの意味ではないかと。今日の聖書の神話的部分は別として、いと高きところにある神の栄光とか、地にある平和、御心にかなう人というのは、結局このような「あるがまま」の、いたずらに自分が立てた規範にとらわれない、自由な人、ということではあるまいか。それが「嘘ではない本当の」生活ではないか。聖母子像は、そのことを語っているように見るのである。(04Z11)          
  

 

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