A 精 神 科 医 師
小田垣雅也

 

 A医師という人の書いた『うつ病を体験した精神科医の処方せん』という本を読んだ。その八二ページにこう書いてある。「ところでホンネを言うと、あれやこれやの悩みをいっぱい抱えてうつになって苦しんでいる人を、私は尊敬しており、そのような資質を『うつになる能力』と呼んでいる。・・・・それらの結果としてうつ状態になろうとも、そのうつを保持し続けられる人というのは、精神的にとても高い能力をもっており、尊敬に値する」(同書、二〇〇五年)。これは、わたしの最も知りたかった言葉だ。つまり、うつになるのも、人格としての能力の問題だと言うのである。下世話な言い方になるが、馬鹿はうつにはならないから、この言い方は良くわかる。
 どうしてか。わたしは、禅で言う「指月の譬え」と「ケロケツ」(漢字忘れた)を思い出す。このことについては、何回も書いたことがある。「指月の譬え」というのは、指で月を指し示している場合(相手がたとえば赤ん坊だと)、指の先を見てばかりいて、月を見ないという譬えである。また「ケロケツ」といのは、棒に紐で驢馬を繋いでおくと、その驢馬は自由になって草を食べたいから、その棒の周りをぐるぐる廻る。ところが驢馬は、紐で棒に繋がれているから、ますます縛り付けられて自由でなくなるという譬えである。大事なのは「月」であり、「自由に草を食べられること」なのに、努力を重ねれば重ねるほど、当面の目的から遠ざかる、という譬えである。
 これはわたしには良くわかるのだ。そしてそれは、ものごとを厳密に考える人ほど、そうだと思う。厳密に考えない人は、「指月の譬え」でも指と月は区別されないだろうし、「ケロケツ」の矛盾も、棒をぐるぐる廻っていれば結果はどうなるか、位は分かるだろう。わたしは、眠ろうとすれば「指月の譬え」や「ケロケツ」の以前に、眠ろうとすればすぐ眠れる人や、その意味で頭の動きが健全な人ほどそのようになると思う。その眠れないという現実を離れようとすればするほど、それに引きつけられてしまうのだ。むかしエックハルトは、「信仰にとってもっとも邪魔なものは、信仰を求めるその心だ」と言った。厳密に考える人ほどそうなのである。だからこの医者はうつになるのは、その人の、「うつになる能力」だ、などという言葉も使っている。

 わたしはそのような場合、森田療法(森田正馬氏の本。全集がある)の本をよく読む。実際、何かに没頭してその症状を忘れているときは(赤ん坊にとって、月を見ているとき、ないしは驢馬にとって、周りの草をたべているとき)、それらの症状は無い。だから気になる症状を忘れていれば良い。入眠は、入眠を忘れるということだ。しかし「忘れていればよい」と意図しているかぎり、忘れられないのである。「忘れなければならぬ対象」として、それはますます「強迫」の度を加え、不安は増大する。眠ろうとすればするほど、眠れない。いわゆる森田の言う「精神交互作用の悪循環」である。つまり信を得たいとすればするほど、不信の現実は増大するという(エックハルト)。
 だから最終的な窮境として、その症状の存在を、つまり眠れないという現実を、承認しなければならない事態になる。不眠症という現実を承認するのである。眠れないという現実は、ある。しかしその辛さを承認する他に道はない。だからこの承認は一種の「絶望」であり、あらゆる論理や道理から「見放され」「放念」することである。しかしそうしてのみ、不眠という現実から解放される。その理屈は分かっていながら、理屈どおりには行かない。それが人間の煩悩だ。

 わたしはそんなことばかり考えている。「大兄の実存の意味がよく分かりました」と、ある友人がわたしの本を読んだとかで、言ってきた。つまりわたしは心の奥の奥、そこでこそ本当に自分以外のものは何もないところに行きたいのである。わたしは嘘がきらいだ。「わたしの心の奥の奥、つまり実存」だが、しかしそれは無理らしい。わたしは友人でも医者でも、その言葉に、いつも「心の奥の奥」から言っているのか、と疑う。その意味では、人を信用したことはない。人の言うことを「それは心の何層目から言っているのか」とすぐ思う。

 わたしの回心の経験を話してみよう(何回も話したが)。わたしは一九五八年の一二月の一0日に、イエスが神のひとり児だ、そして死んで復活したのだ、などということが信じられなくて困っていた。そのときフトと考えた。わたしが最後までそれを信じられないのならば、イエスは死んで、自分の神の子性を否定するほかはない。その承認がイエスの復活の意味だ、と。復活にはイエスの自己否定が予見として含まれている。そのとき、わたしが通っていた図書館の窓から見ていた冬の日が、一瞬、光度を増したように思われた。わたしは、何か「心の奥の奥」が分かったように思われたのである。

 他力信仰と自力信仰というのがある。一般に浄土教とかキリスト教などは他力信仰、禅宗は自力信仰だと言われている。井上洋治氏や親鸞・ 法然などは他力信仰をもっていると言えようし、たとえば禅宗の道元のように、自力信仰として自分の位置を信じられるのは、自力信仰だろう。だから信仰には二つの道がある。他力・自力は、ある一定の地点まではおなじである。それはどちらも、エックハルトの言葉を使えば、「信仰にとって、自分の信仰心ほど、邪魔になるものはない」ということである。他力信仰にとって、その自分の信仰心ほど、邪魔になるものはないという。だからすべてを投げ捨てて、自分の思念を去って、他力本尊にかかわる。専修念仏とか、イエスの信仰心とかは、この理解に立っている。その「一瞬の飛躍」の場合(キルケゴール)、いわばその「一瞬の飛躍」によって、心を転換して天国ないし涅槃を求めるのである。
 それに対して自力信仰とは、他力本尊と言っても、そう思う自分のその心は、自力以外ではない。その意味では、それは自力信仰である。そのような自覚の元に、つまり他力本尊は、本当は自力なのだという自覚のもとに、他力は自力の範囲内にあると主張する。つまり自力を三六〇度翻って、元に戻す。そして涅槃や天国を信じることない。それは、個性(一八〇度)を生かすということであろう。禅で言う「円相」である。

 つまり、エックハルトの「自分の信仰心ほど、信仰にとって邪魔なものはない」という地点で、自力信仰はさらに先へ行こうとし、その結果、円相を描いて元に戻り、具体的日常性に達するのに対して、同じ自覚の元に、他力信仰は順序を逆転し、直接天国とか涅槃を、「一瞬の飛躍」に応じて、元に戻ろうとはしないのである。元の自分に戻るのか、天国とか涅槃を信ずるのかという選択である。
 わたしには、上の意味で、逆転するのか直進するのか、一八〇度の「一瞬の飛躍」で天国ないし涅槃を目指すのか、それとも三六〇度の転換で現実を肯定するのか、分からないところがある。そしてその関係の間に立つのがイエスだろう。たとえば他力信者の井上の信仰とわたしは、同じ二本の別れ道の上に立っていた。一八〇度の一瞬の飛躍か、三六〇度の円相かの別れ道である。そして井上の他力信仰は、その根底に自力があり(つまり、他力信仰をしようという自力)、そのことに、井上を含めて他力信仰論者は気が付いていないな、とわたしは思っていた。わたしの実存、「心の奥の奥」も、そのことだろうとわたしは思う。禅坊主はそのことを知っている人々だろうとも思えるし・・・。彼らにとって自分の「現状」の肯定が悟りなのである。
 この二本の道があることを、わたしは考えた。しかしわたしは、「一瞬」の意味を考える。それは落ち着いて考えてみると、イエスの十字架上での刑死という現実がある。わたしの信仰が、それがキリストだということを拒否し続けたから、イエスは十字架上で、自分が神のひとり児であることを否定するほかはなかった。これは、単なる殉教物語ではない。わたしがそのことを拒否しつづけたからこそ、神のひとり児イエスの刑死という現実がある。これは、自分の自力ということになろうが、わたしは現実には、イエスの神の独り子性を、自力で、肯定したことはない。
わたしの自力は、それを成し遂げるほど強くはない。それは今までに重々わかっていたことであった。そのことに「気が付いた」というのが「一瞬の」意味であろう。これは「他力」信仰のままでは分からない。そしてイエスは復活した。刑死と復活は、少なくともわたしにとって、イエスにとっての一つ単位だったのだ。イエスの刑死という一つの現実があり、一方でイエスの復活というもう一つの現実、つまり二つの別々の現実があったのではない。
 これがわたしの友人の「大兄にとっての実存ということが分かった」と言うことだったのであろう。そのことは、わたしは「自分の自力ということの弱さを――少なくとも自分自身にとっての弱さを――自覚すること」であったと思う。わたしはそのことを「一瞬にして」理解した。一八〇度と三六〇度はこのようにして、橋渡しされたのだと思う。それは自分の自力と他力とを、イエスの刑死と復活という、一単位によっているのである。一八〇度も三六〇度も、それは一つの単位だったのである。

 

 
 

 

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