居 場 所
小田垣雅也

 

 引用の聖書の箇所は、一方が「安息日(というユダヤ教で第一に優先すべき律法も)人間に優先する、つまり人間の方が安息日という普遍的な律法よりも大切なのだ」というのに対して、他方は「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなくて、それを完成するためだ」と言っている。一方は律法の定めも、普遍に優先されるものだ、と言っているのに対して、律法こそ、その一点一画も廃止されるものではなく、その特殊性こそが大事なのだといっている。その矛盾の中に、イエスの真実はあるのではないか。
 それは同時に、わたし自身の真実なのではなかろうかと思う。信仰における普遍と特殊の関係はどのようなものであるか。

 この間テレビを見ていたら、どこかのヨーロッパの風景をやっていて、時々でてくる看板か何かの言葉も、何語なのか分からなかった。英語はもちろん、ドイツ語でもフランス語でもイタリア語でもない。後で知ったが、それはバスク地方の言葉であった。バスク語というのは、たしかヨーロッパ語とは語源のちがった言葉のはずである。その番組は、何でもバスク地方の、巡礼の話をしたものであった(文字放送はない)。途中から見たので、ヨーロッパの何地方の番組なのか分からなかった。それでいろいろなことを考えた。

 ヨーロッパのどの地方の番組なのか最初分からなかった、ということは、それを見ている自分が何者であるか、分からなかったということでもある。つまりアイデンテイティ・ロスだ。わたしはつくづく標題の大切さということを考えた。標題は、その番組の内容を暗示している。同時にそこには、自分も前提されている。たとえばその番組が「バスク地方の巡礼者」というような題であったら、わたしは自分自身が分からないような感じをもたなかったであろう。

 小・中学生のころ(旧制)、わたしは地理と歴史を習った。その課目がわたしは嫌いではなかったが、それらの課目をわたしたちは「暗記物」と呼んでいた。たぶん、それらの課目は暗記物ではなくて、本質的に「自分がどこから来て、どこに行くのか」とか「世界のどの地方にわたしは属しているのか」というような問題に対する答えを求めており、そのためにこれらの課目が必要だったということだろう。それにしても、それらの課目は暗記物であった。ある先生は、「地理だの歴史は、ある程度覚えないと、話にならないんだよね」、と言っていた。
  それらはもちろん、容易に軍国主義に転化する。山の手線の大塚駅の改札口を出ながら(わたしはその頃大塚に住んでいて、目白の小学校へ通っていた。小学校三年生)、わたしは「自分はなんという幸せな子供だろう」と思ったことを、まざまざと思い出す。「なぜなら、学校の先生によると、自分は万世一系の天皇を頂いた大和民族の赤子であり、その大和民族は世界一であり、日本も天孫降臨が表現しているように、日の本だからだ」と本当に思っていた。キリスト教などというものは、思考の範囲に入ってこなかった。わたしは「政府の役人になれ」という父親の言い分を真に受けて育った。そういうふうに教室で答えたこともある。

 地理と歴史を子供たちに教えたのは、日本国民としての視点を確定しなければ、何も分からないということだと思う。地理や歴史を知らないと、日本人としての自分も失われるのである。小学校では縦軸と横軸、つまり二次元の世界しか教わらなかったが、その両軸によって、平面上の物事の位置は決定される。「しかしこれは、座標軸の上でのことであって、座標軸そのものはどこにあるか、決定できないな」、とそのとき思ったこともたしかだが。つまり、自分のアイデンティティを求めていたのである。迷子になるということは子供にとって非常に恐ろしいことだが、それも子供のアイデンティティ・ロス、その結果一種のパニックに陥るということだろう。わたしも幼児の頃、そういう恐ろしい迷子の経験をしたことがある。
 星の一面に輝いた夜空を眺めていると(少年時代以来、わたしはよくそういうことをしていた)わたしは、なんとなくニヒリズムの端に立っているような気がしてくる。それは一切の座標軸が、時間も空間も含めて、あまり拡大しすぎて、自分の立っている座標そのものが失われてしまうような、危機意識の表れであろう。何億光年だって? 無限大だって?それには何かが徹底的に拒否されるような感じである。

 あまり具体的であるということには嘘があるのである。具体性だけでは、かえって具体性は見失われるのである。宇宙船の内部でのいろいろな実験をみていると、何か狐につままれたような感じになる。宇宙の神秘さ、存在そのものの分かりにくさに較べて、宇宙船の中の人々は具体的でありすぎる。あれは大嘘ではないか。わたしたちの受け取りかたでは、重さがないということ、つまり上下関係が分からないということは、宇宙船の文化では何かが犯されているのではないか、という不安がある。座標軸というようなものを、である。座標軸がないと、人間はすぐに自己喪失に陥る。

 具体性に意味をあたえるものは、全体である。全体の中での自分の位置である。全体との関係のなかにあって、人間は安心する。人間は関係存在だ。しかしその全体は、人間にとって観念ではないのだろうか。人間は本質的に関係存在である。それは個的だ。だから全体性は、個的な一時的な人間にとっては、本質的に了解不能である。それが人間にとって、全体が観念的にのみ在るということだ。
 このことは、宗教も個的であって、したがって相対的でもある、ということを意味する。それはまた、宗教が、それぞれ絶対的な主張をもっているということでもある。それが個的ということの意味だ。宗教は絶対でありながら相対なのである。数日まえの夜、わたしは、地球最北端の駅ナルビクという村の紹介番組を見ていた。それはスカンジナビア半島を縦断する鉄道であった。そしてそこにもキリスト教の教会はあった。ヨーロッパ中、何処に行ってもキリスト教が信仰の中心としてある。「ヨーロッパは信仰だ」と言ったイレール・ベロックの言葉を思いだす。つまり、それらで教えられている絶対神は、たしかに相対に対向した絶対的宗教概念でありながら(そうでなければ、絶対ということの意味がない)、その絶対―相対の対向の水準、その水準での絶対神を超えたものではないか、とわたしは思った。それが個と全体のあり方だろう。そうでなければ、ヨーロッパの最北端の村で、キリスト教が絶対神として信じられているはずがない。
 真の絶対は、絶対―相対の観念的絶対を超えているのである。絶対は相対に対抗したものではない。キリスト教の天地創造神、絶対神の信仰は、吹っ切れた信仰ではない。それはトレルチが発見したとおりだ。

 しばらく前の夜(十月八日、〇〇九年)一一時二〇分ごろ、飼い猫の「愛ちゃん」が死んだ。目の前で死んでいった一つの存在を見て「オレの死も、かくあらんか」と思い、神妙な気分になった。
 その猫そのものは、わたしが何回か国際医療センターに入院したとき、通りがかりに通る小公園あたりに居るノラ猫で、ノラ猫なのに性格が素直で、その素直さのゆえにわたしたち家族の間で話題になっていた。それを一昨年の冬に、それ以前に飼っていた猫(ヌフ・デ・シャ)が死んだ後、しばらくたっていたので、妻がコートの下に抱き、タクシーで連れ帰ったのである。それ以来、我が家にいる。猫なのに、一切怒ったりイライラしたりせずに、要するに素直である。
 家内と娘の猫気違いは相当なもので、何万円もかけて獣医のところへ何回も連れて行き、点滴注射をやり、「オレが医者の費用に五〇〇円しか掛からないのに、猫に何万円もかけている」とよくわたしは言ったものだ。
 その猫が、三人が(妻、娘、わたし)長い間注視している前で死んだのだから、そのときは神妙な気分になった。この猫の命の存在は、ここで終わったかと思った。そして妻が、「オシッコを漏らしちゃうということは、まだ腎臓がはたらいているということだ」といって、猫を励ました。娘は泣いてばかりいた。
 先月の礼拝の後でIさんに「今日は、猫の死への思いが(わたしの)、通奏低音のように、礼拝のときと食事のときを彩っているのを感じつつ、過ごしました」といわれた。たしかにそういうことはあるかもしれない。わたしはこの数日、元気がない。猫の死を目の前で見て、わたしが生と死、存在そのものについて、いろいろショックを受けていることはある。わたしは「自分もこういう風にして、死ぬのだろう」と思った。そして、死後、命は何処にいくのか。無か。

 しかし生と死が、対応しているからこそ、死もあるのだ。死の世界だけでは死はない。人間は関係存在だ。牛や馬に死がないのと同じである。わたしは夜眠れないことがよくある。というよりも、毎夜眠れない。入眠剤を飲むと比較的いいが、なるべく飲まないようにしている。数日前、眠れなくて、いろいろその原因を考えていて、「これは存在するということ、そのものに対する不安だろうね」と思った。存在が、それが消えて無になることは当たり前である。死の不安には、自分が無になること、その意味で生きていることが前提としてある。だから、むしろ死にたいする不安は、生きている証拠なのである。
 「それは性格の問題です」と言った精神科の医者の言葉を思い出す。そして「それは性格の問題です」と言ったその精神科医の言葉に、わたしはある拠り所、「それは性格の問題だ」という人生に対する自信を見出すのである。家の女たちには、眠れないということはないようだ。

 この間、吉行和子が「近頃は楽しいことが何も無くて・・・」ということを言っていた。これは死についての不安と同じものだろう。吉行和子は高木美保と、わたしの贔屓の女優である。昔は吉行も若かった。吉行淳之介の妹だから、年齢はわたしと同じくらいではないか。若い頃は、吉行も楽しいことが沢山あったことだろう。わたしは、ふとそう言う吉行の心理が、痛いほど分かった。年齢を重ねるとは、そういうことだ。それはみな同じだ。

死も楽しいことも、それを感じうるのは人間という関係存在性である。死だけ、楽しいことだけという個別性は、人間にはない。

 

 
 

 

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