ユ ー モ ア
小田垣雅也

 

 「ヘブライ人への手紙」一一章一三節にはこうある。アブラハム以降、信仰を抱いて死んだ人々は、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 この人たちは信仰によって生きていたにもかかわらず、完結した生を生きたのではなかった。約束されたものはついに手に入らず、その生は未完結であった。それにもかかわらず、この人々は「喜びの声をあげている。」そしてこのような事態をユーモアとして捉えるか、または人生はついに悲劇であると考えるかで、その人の生の豊かさは決まってくると思われる。未完結でありながら完結を求めて喜びの声をあげているという人生は、「やさしくて、おかしくて、哀しくて」(太宰治)、ユーモラスな状況ではあるまいか。
 聖書の中にユーモアはない。聖書の中のイエスは、いつも憂いに満ちた顔をしている。これは聖書が、二代目によって書かれたものだからだとわたしは思う。二代目は何事によらず、事柄を深刻にしてしまう。しかしイエスは、本当はユーモアに富んだ人ではなかったか。イエスがペトロに対して、「あなたはペトロ(岩)だ」と言ったとか(アラム語ではペトロも岩もケファー)、人間を空の鳥や野の花にくらべてみたり、またイエスのいろいろな譬話などを読んでいると、イエスはむしろユーモアに富んだ人柄であったように、わたしには思える。
 少なくともイエスは、人間の実相が、いろいろな局面で、罪の中にこそ救いが現れること、罪と救いは表裏の関係にあること、そこにこそ人間の哀しみと、そしてまた喜び、やさしさとおかしみ、人間が生きるペーソスが生まれることを知っていた人であるように思われる。罪の中の救いとは、泣き笑いの生であり、ユーモアと理解することができよう。少なくともそのように考えると、イエスの生の経緯がよく分かる。イエスの死と復活そのものが、そのような神のユーモアの表現なのではないか。ユーモアとしてでなければ、イエスの復活は単なる神話になってしまう。

 昨日もテレビで、斜塔を中心にしたピサの大寺院の話をやっていたが、大体、西洋の大寺院のケバケバしさは、あれは、見方を変えれば、宗教というものが本来持っているユーモアの表現であると考えるとよく理解できる。いくら飾りたてても、宗教の真理そのものにいたることはできないのである。人為的に飾り立てれば飾り立てるほど、宗教の本意は遠のいてしまう。宗教とは、本来そういうものではないか。その意味で、それはユーモラスなものではなかろうか。
 以前、ロシア正教の祭壇用の聖書というものを見たことがあるが、これ以上もう隙間がないくらいの装飾は、人間の巧まざるユーモアではないか、と思った。大真面目だから、結果として宗教はユーモアなのである。そうでなければ、あの装飾過剰はバカバカしすぎる。あれを作った人も、そのことを、つまり宗教の本質的ユーモアさを、無意識に知っていたのではなかろうか。わたしは宗教の背後に、どうしてもユーモアを感じ取ってしまう。そうするといろいろ合点がいくのである。

 わたしはこの夏、内田百閒の『阿呆列車』を読んですごした。そのユーモアさ加減に、途中で止められなくなり、『第二阿呆列車』『第三阿呆列車』を本屋で買ってきて読み、対談集『深夜の初会』を読み、本屋に文庫本で『正・続百鬼園随筆』があるので(読んだことがあるが)、それも買ってきて読んだ。書名をあげた第一から第三までの三冊に関して言えば、よくもまあ同じテーマを、飽きもせずに、そして読むのも飽きさせもせずに、読ませるものだと、ほとほと感服した。
 ユーモアは、大真面目だからこそユーモラスでありうるのである。それについて、『第三阿呆列車』につけられた阿川弘之氏の解説にはこうある。「これらの事を、百間先生は他人を笑わす為に言っているのではない。先生はいつでも大真面目で本気であるにちがいない。私は百間先生に面識がないけれども、阿呆列車を読んでいると、どうしても大真面目で渋い顔をしている著者の顔しかうかんで来ないのである。笑いはその結果であって、そしてそれが、ほんとうの意味のユーモアというものであろう。」
 これは大真面目さと渋い顔に裏打ちされた笑いなのである。泣き笑いの二重性、ついでに言えば罪と許しの二重性、と言えようか。それがユーモアと、人間としての優しさだ。百間は不平を述べた後、たとえば、行く先々での駅での新聞やテレビの記者のインタビューに出会うと、気が進まないことを述べた後、「それもまた記者の用事ならばやむをえない」ということをよく言う。
 だから百間氏には、人間に対する肯定と落ち着きがある。もしそれがないと、百間ないし百間の人間関係は、駄洒落かチャンバラかになってしまうだろう。「やむをえない」という言い方も本気なのである。そうでなければ、それはユーモアとは遠くなるだけだ。百間は、いわば落ち着いて面倒がっている。百間は本気で渋い顔をしている。もともとそれに耐える体力がなければ、ものぐさはできない、と百間自身もどこかで言っていた。だからこそ、そこにはユーモアがある。

 わたしはと言えば、人生に対する肯定と落ち着きが少ないように思われる。特に今年の夏のように猛暑日が連続すると、自分の「居場所」がなくなったように感じて、疲れ果てて不眠症になったりしている。そして以前の説教で何回も採りあげたように、自分の「老い」について考えたりしている。テレビや雑誌で、老いとか介護の特集をよくやっている。あるいは近年、それらがこちらで目につくようになったのかもしれない。
 それによると、どんなに立派な人生であっても、命の意味、なぜ生があるのかとは、結局はわからないものであるらしい。養老孟司・玄侑宗久の対談『脳と魂』(ちくま文庫)で、養老は、命とは結局一種のシステムだ、と云っているし、新進の分子生物学者福岡伸一氏は『生物と無生物のあいだ』という本の最後にこう書いている。「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである」(講談社現代新書)。生命とは一つのシステムであり、それを理解することはできずに、それを「ただ記述すること」ができるだけのものであるのかもしれない。それを分子生物学の水準でも言えるものであるとすると、人の生命は、結局は意味がないのだというニヒリズムに陥ることは理解できる。テレビで深刻な介護の話などを見ていると、つくづくそう思う。

 しかし信仰とは、そのようなニヒリズムを超えたものである、とも言いうるのではないか。そして、そこに現れる生活法がユーモアというものではないか、とも思う。友人のH君から、この夏、メールがとどいた。それによると八月の末に、旅行で韓国の慶州へ行ったそうである。そして、かの有名な仏国寺に行ったよし。その学問所に「面白いこと」が書いてあったそうである。それによると、あらゆる経を学び、それについて講釈することは可能だが、それを最後までトコトン突き詰めていくと、「人の言葉で仏の真理を言い表すことは、不可能だと悟るところに出る、この境地を『言語道断』と言うそうです」とある。
 わたしはそれを読んで、言語道断とはそういう意味であったかと、が目が開かれた思いがした。しかしよく考えてみると、「最後までトコトン突き詰めていく」ことは、おそらく深度の問題ではなくて、深度や蓄積の涯に、別の次元にうつること、つまり質の問題ではないかと思う。どこまでも深く、論理的に、問題を探求していくのではなしに、それは精々二重性の問題だから、別の見地に立つことが大事なのではあるまいか。
 養老とか、福岡はこの点で不十分なのだと思う。両方とも科学者であるが、科学は問題を、この場合生命の問題を、論理的に追求していく。しかしその結果が、生命そのものの意味不明につらなっている。主観―客観構図によっては、生命はついに知的に把握できないものではないか。ここでは生命と科学が、質の相違として、違った問題として「言語道断」に、考えられていないのである。

 最初にあげた「ヘブライ人への手紙」にもどると、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいのものであることを公に言い表したのです」とあるが、「約束されたものを手に入れませんでしたが」はいわば量的な問題設定、それはいわば科学の問題であろう。それは蓄積の問題だ。それに対して、「それを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」というくだりは、質の問題、意識の交替の問題であろう。この二重性は、ユーモアではないかと思う。そして人間の本質的やさしさは、ユーモアと同道しているのではなかろうか。

 付け加えておきたいことがある。この、量と質、科学と生命の問題は、人間の認識にとっては、決してクリア・カットな状況になることはない、ということである。それが意識を超えるということ、「言語道断」の本意であろう。クリア・カットな状況とは、意識の世界でのみありうる。わたしたちは、少なくともわたしは、毎日、くだらないことに苦しみながら生きているが、信仰とは、その苦しみを晴らすものではないだろうということだ。わたしたちは毎日の生活を、苦しみながら、クリア・カットにではなしに、送りつづけていくほかはないのかもしれない。そして科学的知識の「蓄積」と、意識の「交替」、この両者が人生のユーモアを生むらしい。

 内田百閒に関して言えば、百閒がそんなに深刻に、自分のユーモアさ加減を考えていたとも思えないが、もともとユーモアとはそういうものであるかもしれぬ。百閒は本性、人間として優しいところがあるのである。自分の優しさに照れているところがある。

 

 

 
 

 

<< 説教目次へ戻る

 

 

 
inserted by FC2 system