独 断 的 文 化 論

小田垣雅也

 

 井の頭公園は吉祥寺への往き帰りにしばしば通るが、それは大概、午後遅くか夕方である。数日前、妻に誘われて、午前中、猫を連れて、井の頭公園へ散歩にでかけた。そして同じ公園でも、午前中と午後とでは、雰囲気が全く違うことを発見した。十月上旬の晴れた午前中であったせいか、校外授業とおぼしき小学生の集団や、幼稚園か保育園の幼児たちが、集団で遊んでいたりした。池の端にはベンチが並んでいるが、そこで若い女性が(実際は幼稚園児の母親と言っていたが)、紅葉の下で、池の方を向いて、フルートを吹いたりしていた。通りかかった老人が彼女に声をかけ、あれこれ構図をつけて、その女性の写真を撮ったりした。紅葉と、池と、フルートを吹く若い女・・・、これはよい写真になるかもしれないな、とわたしはそのとき思った。

 以前住んでいた小金井市にも、小金井公園と野川公園という二つの大公園がある。当時は娘も幼かったので、わたしはほぼ毎週、そのどちらかへ娘を連れだした。ときたま井の頭公園に来ることもあったが、そのようなとき、井の頭公園が小さく、みすぼらしく見えた。実際、小金井公園、野川公園に較べると、井の頭公園の面積は五分の一か、十分の一位ではなかろうか。前二者は、要するに芝生の生えた原っぱ、または本当の原っぱと雑木林である。それに較べて井の頭公園には、池、ボート、噴水、動物園に水族館、長崎の平和記念像で有名な北村西望の彫刻館まである。原っぱはない。週末になると、道の両側に若者たちが敷物を敷いて勝手な店を開業し、自分で描いた絵や、手作りのブローチの類や、その他もろもろのものを、遊び半分で売っている。わたしの妻は、抱いていた猫の縁で、その中の猫好きの女の人と友達になった。

 

 わたしはそのとき周囲の見慣れた風景を眺めながら、文化というものについて考えた。わたしと妻と猫が坐っていたベンチはいわゆる「寄贈ベンチ」で、「むかし結婚前の彼と一緒にこの公園に来て幸福だった」とか、「孫と一緒に度々遊んだ日々を記念して・・・」というような寄贈文が、金属板に刻まれて、一つ々々のベンチの背もたれに嵌め込まれている。寄贈者の名前はあったり、なかったりする。その人々がこのベンチを寄付したのである。それは何となく文化というものを考えさせる雰囲気をもっていた。小金井公園や野川公園には、このようなベンチはない。したがってフルートを吹く若い女性もいないようだ。公園自体が、もっと野性的、少なくとも自然に近い。

 「井の頭」という名前は、知っている人も多いと思うが、徳川家康がこの地に鷹狩りにきて、ここに湧き出ていた清水で茶をたてて一服したところ、それが非常に美味だったので、「この湧水は井の頭だ」と言ったという故事に由来しているそうだ。その言い伝えがある湧水は、いまも池の裏にあって、こんこんと水が湧き、それが池に流れ入り、その池が神田川の源流になって御茶ノ水駅の下の川になり、隅田川に合流している。これは半分言い伝えだろうが、それにしてもこの故事によれば、井の頭公園には四〇〇年近い歴史があるわけだ。小金井公園や野川公園にはそれがない。大体この二つの公園は、西洋の公園を模して設計されているようだ。そのように考えながら見回していると、井の頭公園全体が、何か文化的な雰囲気をもっているように見えてくる。文化には、若者たちの出店にしても、動物園にしても、池のボートにしても、人間の汗と手垢と生活の感覚があり、それにもかかわらず、そこには愛惜すべきもの、記念すべき美しいものが含まれている。フルートを吹く女性や、記念のベンチ、北村西望の雄渾な彫刻群などが、そのことを物語っている。

 

 宗教と文化は互いに矛盾しているのである。古代イスラエルの砂漠の宗教が、カナーンの地の農耕文化に触れて堕落し、または堕落したと考えられ、それに警告を発したのがイスラエルの預言者たちで、その預言者たちによってユダヤ教が形成された。だからユダヤ教は本来、反文化的である。ユダヤ教の神は「わたしをおいてほかに神があってはならない」と言う神である(出エジプト記二〇章三節)。それは本性「妬む神」であり、その神が与えた「十戒」を守るという倫理性が(文化ではなくて)、ユダヤ教の根本原則になっている。元来カルチャーはカルチベイト(耕す)から派生した語であり、文化の基礎である農業、アグリカルチャーは、「土の文化」である。砂漠の宗教であるユダヤ教に、文化は無縁なのである。これはイエスの時代でも同様である。イエスその人は、そのような倫理的指向のユダヤ教に反対して、神は悪人にも善人にも雨を降らせ、太陽を昇らせるような神であると説いた(マタイ伝五章四五節)。しかし現在のイエス伝は、イエスにとって、神は善人も悪人もいわば一視同仁に愛し、その意味で倫理を超越している神を説いていたのだという理解を、いわば一つの規準にしているようなところがある。そして規準とは守られるべきものであり、本性、倫理的性格のものである。それに加えて、イエスの原像を正確に再建することが神学の任務であるとするような、学問の方法そのものとして倫理的であるようなところがある。このような学問の方法論上の倫理性を取り除いては、現代の新約学は成り立たない。この学問の性格としての倫理性は、一九世紀以降の「イエス伝学」の特徴であるといってよいが、それは新約聖書学に限らず、近代の科学的学問は、このような意味での倫理的本性によって発達した。正誤を厳しく区別することによって、近代文明(文化ではない)は発展したのである。

 わたしは以前、ヤロスラフ・ペリカンというアメリカの教会史家の『イエス像の二千年』という本を翻訳したことがある(講談社学術文庫、一九九八年、絶版。原題は『文化史の中のイエス』、新地書房、一九九一年)。ペリカンという人は、二〇世紀初頭の有名な教理史家アドルフ・ハルナックを凌ぐ大教会史家だとわたしは思うが、その歴史観は「変化の中での継続性」ということであると言えるだろう。つまり歴史は啓蒙主義的歴史観が考えたように、一元的・合理的に発展していくものではなく、各時代はそれぞれ独立し、時とともに変化を繰り返しながら、その変化の中で継続しているようなもの、その意味ではロマンティシズム的なものだ(こういう言葉をペリカンは使っていないが)と言う。つまり各時代がそれぞれの時代性、地域性を持ちながら、しかも深い次元で継続しているようなものが歴史というものだと言う。だからハルナック流の合理的発展史観のように、後から付け加わったものを、資料批判によって取り除くことが歴史学なのではない。

 わたしは今から三〇年以上前、アメリカ留学からの帰途、ローマのサン・ピエトロ寺院へ最初に行ったとき、その絢爛華麗さに打たれ、「この場所に連れてきて、一番そぐわないのはナザレのイエスだろうな」と思ったことがある。そしてそれはキリスト教、とくにイエスの宗教の堕落だと考えた。カナーンの農耕文化に触れてそれを堕落だと糾弾したイスラエルの預言者たちのように、である。しかしその後何回かヨーロッパを旅行し、各地の大寺院を訪れているうちに、その感想を少しづつ訂正せざるをえないような気分になった。たしかにナザレの建具屋イエスはこの絢爛豪華な寺院には馴染まない。しかしだからといって、これらの大寺院が、キリスト教の堕落の固まりだと言えるのだろうか。否定するにしてはそれがあまりにも巨大でありすぎるという感想もあるが、それと同時に、それを否定することは西洋文化そのものの否定にならないか、と反省したのである。いまにして思うが、これはペリカンが言うように、キリスト教の「変化の中での継続性」の問題に気付いたのだと思う。イエスが弊衣破履を身につけ、虐げられている人々の味方であったことは間違いないだろうが、その生き方に倣うことが大事であると同時に、各時代と、各地域が、それ独自の仕方でそれぞれの信仰を表現したとしても、それを直ちに堕落であると断定するわけにはいかないのではないかと思ったのだ。そして文化とは、元来そういう地域性、時代性の中で生まれるものではないかと思ったのである。

 たしかにそれらの寺院は、ある意味では人間の手垢にまみれている。微細で華麗な人工の極みであるような中世の寺院文化は、人間の手と汗の結晶であり、その意味で人間の手垢にまみれている。それらの寺院のあるものは、完成するのに何世紀もかかっているという。しかしそういう人工性の中に、聖なるもの、荘厳なるもの、美しいものが宿っていることも否定できないように思われた。それが文化だ、とわたしは思った。

 

 文化は人間が作り出したものであり、人間を超えたもの、たとえば神の規準によるものではない。だから地域的、時代的だ。しかし、だからこそそれは人間にとって必然的であり、その意味で普遍的でもあるのだと思う。それに対して倫理の根幹は善悪の規準である。それを犯すことは許されない。それは自分が普遍的価値であることを、神の名によって要求する。しかし人間が普遍的価値を神の名によって要求すると、それは偏狂になり、その意味で地域的になると思う。そのことは、現代イラクでのアメリカ的キリスト教とイスラムの争いを見れば明らかであろう。人間は倫理や規準なしには生きられないが、倫理だけになってはいけないのである。それは「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と創世記に書いてあるとおりだ(一章三一節)。井の頭公園の「文化」性を眺めながら、わたしはそのことをぼんやり考えていた。(05X16)

 

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