(中越地震04x29)

 新 潟 中 越 地 震

小田垣雅也

 

  新潟の中越地震の被災者は本当に気の毒だ。これから冬の豪雪にもなるのだろうし、早急に仮設住宅に収容できるといい。先日(一〇月二七日)朝日の朝刊の一面に、「帰れる日いつ」と題された写真が出ており、そこに、座布団の上に端座した老婆が、きりっとした顔をして前方を見ている写真があった。その老婆の心中、察するにあまりあって、しばらく目が離せなかった。「小学校の体育館に避難したお年寄り。背筋をのばしたまま座布団に坐りつづけていた=二六日午後一時三〇分、新潟県小千谷で」と解説にある。

  人間にとって基本的に大事なものは、自分がここに居る、または居た、という証拠だろうと思う。自分が自分であるアイデンティティだ。地震はそれを崩壊させてしまった。それに較べれば、山が動いて海に移り、海の水が沸きかえる(詩篇四六の二~四。今日の聖書)ような天変地異、今度の中越地震のような大事変も、大事変だけなら、ただ恐ろしいだけで、それは自分のアイデンティティが抹消されてしまうような不条理ではない。天変地異の恐怖と、自分の存在そのものが抹消されてしまうような不条理とは、やはり区別して考えるべきだろうと思う。九年前の阪神大震災とのきも、つくづく思ったのはそのことであった。もしあの地震が東京で起きてわが身を襲い、これまでの自分の著書、ノート、蔵書一切を失った時、つまり自分が存在したことの証拠が無くなったとき、わたしは自分の生きる力を失うだろうと、そのとき思った。

  人間は自分のアイデンティティなしには生きていられない。これは著書や思想などという大仰なもののことを言っているのではない。写真の老婆も、庭で野菜を作っていたとか、花を育てていたとか、孫と遊んでいたとかしたのであろう。それは彼女が生きている証拠であり、それが彼女のアイデンティティであったのである。それは生甲斐などという大袈裟なものではなくて、いわば彼女が生きていた痕跡である。その痕跡が一朝にして消し去られた。わたしはこれまで、趣味に生きる老人などというものを軽蔑していたきらいがある。しかし趣味というものの大切さを、今回はじめて理解したような気がしている。趣味とは要するに、自分のアイデンティティの問題なのだ。それは自分の心がその趣味の対象に、つまり外に、向かっているということである。そして精神は外に向かっている時にのみ健全である。わたしはしばしば鬱に悩むが、鬱の特徴は精神が内に、つまり自分に向かい、そこに固着してしまうことである。鬱や強迫観念の心配事は大概くだらないことである。自分の意識が二重になるとか、心に湧いてくるものがないとか、理由のない不安に悩まされて朝早く目が覚めてしまうとかである。それは神経上の問題で、身体的理由によるものではないから、そんなものは気にしなければ良い。しかし気にしなければ良いと思えば思うほど、気にするな々々という形でそれに固着してしまう。それがくり返し延々とつづく。心が内に向かうとはそういうことだ。だから心が内に向かうのは、自分が萎縮し自己を見失うことなのである。何かに熱中して心が外に向かうと、鬱症状は消えてしまう。

  趣味のある人は丈夫だと思う。わたしの妻は、猫と、友人から貰った金魚とめだかに熱中しているのである。少なくとも毎日、それらに気をとられている。そしてまた、いつも何かをやっている。それはピアノであったり、編物であったり、庭仕事であったりする。それらはことさらな意味があると言えるほどのものではないが、しかし何かをやっているということは、そのものに心が向かっているということで、基本的に心が安定しているということだ。人間は「人の間」で、関係の中でこそ、安定する。心が外に向かっているときに、である。自閉症では、自分が存在したという証拠ないし痕跡が外に残らない。わたしが一番熱中できるのは文章を書くことだ。いまこの文章を書いているように、である。文章を書いているとき、心はその文章のテーマに向かって集中している。そして自著がわたしの痕跡であり、証拠であると思う。だからそれが失われることは、不条理に直面したようで、恐ろしい。わたしは今年、二月に北海道と、六月にイタリアへ旅行したが、まだ本になっていない書きかけの原稿が万一失われのが恐ろしくて、その原稿をフロッピーにコピーして、それを旅行に持参したりした。

 

  今年の夏は異常に暑かった。暑くて散歩にも出られず、わたしが丁度、ある著書(『一緒なのにひとり』)を完成させたこともあって、俗に言う「空の巣症候群」、つまり、さしあたっての生きる目標を失って、何もすることがなくなり、一夏を索漠たる気分で過ごしていた。そして妻のように、趣味を持っている人の強さを羨んだ。趣味のような、いわば自分の生の証拠が何もなく、自分のアイデンティティを見失った気分であった。朝起きて、どうしていいか分からない。いくらか鬱状態だったのだと思うが、問題は自分のアイデンティティ、それも最終的な生のアイデンティティとは何か、ということであろう。

  道路を走っていて地震によるがけ崩れが起き、それに巻き込また車の中から、二七日の午後二時四〇分に、二才の幼児皆川優太クンが救出された。中越地震が起きたのは二三日午後五時五六分だから、九二時間ぶり、実に四日目である。わたしたちは、危険な救助にあたったレスキュー隊員たちを賞賛せざるをえなかった。彼らは抱き上げた優太クンを自分のコートでくるんだりしていた。しかし冷静になって考えてみると、優太クンが生き延びたのは、彼が二才の幼児であったからという面があるとわたしには思われる。もっと成人していてものを考えるようになり、いわば自分のアイデンティティ云々のことを思って、自分がここで死ぬかもしれぬ、救助の可能性も少ない、などということを考えるようであったら、それだけで絶望して、とても九二時間、四昼夜は生き通せまい。幼児はアイデンティティや、生の痕跡や証拠には無関心、その意味で存在そのものが天然自然に生きている。それが、優太クンが生き延びていた理由ではないだろうか。

  だから問題は、人間の最終的なアイデンティティとは何かいうことだろう。わたしには趣味がない。耳も悪くてテレビもあまり見ない。暑くて散歩もできないとなると、やることがなくなって、虚空に直面したような気がしてくるのである。いわゆるアイデンティティ・ロスの状況である。取ってつけたような神や宗教に頼ることなどはわたしにはできない。たしかに、金魚を飼ったり草花を植えたり、孫と遊んだりという生の痕跡は、また本を書いたり絵を描いたりという生の証拠も、アイデンティティには違いないが、それはまだ甘いというべきであろう。それらは地震が来れば崩れる。それらがないと、やることがなくなって「空の巣症候群」になり、虚空に直面したような気分になる。その意味でのアイデンティティであることはそのとおりなのだが、しかしまだ甘い。

  今年の夏のアイデンティティ・ロスが長引いてわたしは鬱状態になり、先日、精神科の医者のところへ相談に行った。そしてさしあたっての問題である離人神経症的症状や鬱のことを話した。その医者の診断は、鬱と離人神経症は別のものであること、たとえば自分が自分のやっていることを絶えず意識している結果である――とわたしは思うが――離人神経症も、そのような自意識は誰にでもあること、それが問題になるのは当方が神経質であるからであること。普通の人はいわばズボラだから、それを気にしないだけだ、とその医者は言った。だからわたしの状態は正常の範囲内にあると。わたしの離人神経症は事実としてあるのだが、それが正常の範囲内であるのなら、それと共生するほかないなと、そのときわたしは思ったのである。離人症と共生し、それと二重性的に生きることで、離人現象を気にすまいというその固着から、離れることができるような気がしてきた。

  以前読んだ森田正馬博士の『神経質の本態と療法』を引っ張り出して読んでいたら、強迫観念(離人症のような)からは、それから逃げようと努力しても駄目で、患者に、純粋にその苦痛を苦痛として味わわせ、その結果、それに対する反抗の姿勢を没却すれば、すでに強迫観念はなくなっている、という趣旨のことが書いてあった。強迫観念とその治癒の二重性である。苦痛を認めることで、その苦痛が気にならなくなる。大人の治癒とはそういうことだろう。イエスは幼子のことを言った。しかし大人は優太クンのような幼子の天然自然さになることはできない。そのできないということを、むしろ積極的に受け入れることが、大人の天然自然さではないか。苦痛との共生である。それが、苦痛が消滅するということの意味ではないのか。

 

  最深のアイデンティティとは、単に趣味のあるなしに依存した問題ではなく、もちろん地震で崩れるようなものでもないだろう。また幼児のように、本性、天然自然に生きることもわたしたちにはできない以上、わたしたちの最深のアイデンティティとは、生の苦痛を認め、それを受け入れること、それによって森田博士が言うように、その苦痛を解脱すること、そのことから生まれるのではないかと思う。それは今の場合、離人症との共生の生だ。共生すれば苦痛も忘れるなどという期待も捨てることである。それは共生ではない。すると結果として、苦痛も苦痛ではなくなるのである。これはいわば放念ということ、信や覚、悟りの境地に通じていよう。

  趣味の対象などに依存したアイデンティティは、まだ本当のアイデンティティとはいえまい。写真のお婆さんも、焦ったりうろたえたりした気配はなく、凛としていた。いろいろなものを失ったことは事実でありながら、苦しみ悲しみは、苦しみ悲しみのまま、それを認め、受け入れている。そこに彼女のアイデンティティがあるように見えた。もしその本当のアイデンティティの境地を得た場合、わたしの心も本物になると思うのだが・・・。(04Y11)

 

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