読 書 に つ い て
(ルカ伝一七の三三)
小田垣雅也

 わたしには、この夏はことのほか暑かった。わたしも年齢(とし)が年齢だから(この一二月三〇日で、わたしは満八〇才になる)、夏の暑熱がこたえたのだろう。それに、早朝、妻と井の頭公園の池を一周しているし、夏日の日中は出歩かない。今年の夏は冷夏だそうで、それで野菜が高くなったりしている。帰ってから、野菜、果物、ヨーグルト、蜂蜜をミキサーにかけて、その液体を飲む。これは妻が作ってくれる。それにもかかわらず、今年の暑さには、わたしは参った。
 夏日の昼さがり、一人で在宅していると、これはわたしが半分聾であるせいだと思うが、孤独と焦燥感で、落ち着かなくなる。テレビも何を言っているのか聞き取れない。それでわたしは、軽い内容の本を読む。読書がいちばんわたしを熱中させ、落ち着く気分にさせるようだ。読書も一つの用事であって、読書もしないで、道の掃除ばかりしている老人よりもよいと思うが。そしてつらつら思うに、読書の領域には、わたしにとって大別して、三種類あると思う。
 
 第一は、ブルトマンやハイデッガー、バルト、道元や親鸞の世界で、わたしは学生の頃、それらの本を苦労して読んだ。わたしはこれが読書かと思っていたが、それらの本の中に、何かを探しているようなところがあって、それはそのころ書いていた論文のテーマであったり、もっと一般的な人生論的・宗教観的なものであったりした。それはたしかに何かを探していたのであり、「これが読書と言えるかね、これは読書を楽しんでいるのではなくて、仕事だね」と疑ったことが何回もある。しかしそれらの本を読むことに、わたしの読書の時間の大部分を費やした。読書人生というが、こういう人生が、人生の味を知ることだとは到底思えないと考えた。

 第二は、ロマンティシズム関係の詩や小説を読むことである。ロマンティシズムには何か言葉では表現できぬ憧れの世界があるような気がして、それに憧れていた。いまもそうだ。漱石、鴎外やゲーテには、一作ごとに決まったテーマがあり、哲学的文学者だと言われることがあるが、それにしてもそうだろう。わたしは漱石の『三四郎』を、本が(岩波文庫)ボロボロになるまで読んだが、そこに感じと取っていたものは、本郷界隈と素朴な男性三四郎のロマンティシズム、および近代女性の典型である美禰子の自意識であった。自意識の発展が、漱石の根本的テーマであると思う。(ちなみに漱石の墓は、雑司が谷墓地にある)。
 もともと人間には、主観に対して対象的・客観的にものごとを考える気質がある。だから文学とは、デカルトによって主観―客観構図がはじまったヨーロッパ近代に発生した。小説はヨーロッパ近代の特産である。『源氏物語』は奇跡的だと言われることがあるが、それはあの時代(九世紀後半)、まだ主観―客観構図という意識が現れない前に書かかれたものだからだろう。だから『源氏物語』を、近代的合理主義や倫理主義で読んでみても始まらない。合理主義も理性主義もヨーロッパ語では同じラショナリズムである。
 ティリッヒが、ある本の中で(Perspectives on 19th&20th Century Protestant Theology, 1967, Chap.III.)、ロマンティシズムをニコラス・クザーヌス(Nicolas Kusans,1401-64)にまでさかのぼらせている。クザーヌスは「対立の一致」で有名である。一般にロマンティシズムはそれ以後の、合理主義に反対するもの、つまり客観を主観的に観察するもの、とされているが、この評価は、歴史的・思想史的にはある意味では正しい。ティリッヒもその轍を踏んでいるところがある。ロマンティシズムは啓蒙主義の合理主義を、それには捉えきれない、感情の立場から捉えるものだ、されるのである。
 ここでは主観―客観構図は前提されている。その近代合理主義の枠内で、客観主義に反対するものが、近代のロマンティシズムであるとされている。それに対してティリッヒの場合、ロマンティシズムをニコラス・クザーヌスの「対立の一致」にまでさかのぼらせているが、そのことは、この意味での「感情」はむしろ「神秘」であり、啓蒙主義の主観(感情)―客観構図と重なり合うものではない、ということがある。そういう文章を使ったこともある。クザーヌスの「対立の一致」の考え方そのものが、そのことを裏づけていよう。一方啓蒙主義の感情は、その構図を主観―客観構図の内部における主観的なものとして、捉えているのである。しかし感情とは、合理主義的構図の内部の問題ではない。
 たとえばシュライエルマッハーの「感情主義」は「神は世界が其処から出てくるもの」(Woher)であって、いわば主観―客観構図を超えたものだ。クザヌースにまでロマンティシズムをさかのぼらせる理由は、近代の主観―客観構図そのものをこえた次元を指し示すものだ。それがシュライエルマッハーのWoherである。ティリッヒのロマンティシュズム観には、そのことが含まれている。
 つまり、ロマンティシズムの本意である「主観」は、近代主義的主観―客観構図そのものをこえることだ。これについて詳しくは、拙著『現代のキリスト教』二章四節「ロマンティシズムとネオ・ロマンティシズム」の項を参照されたい。むかしそのことを説明しようとして、シュライエルマッハーと反対の立場をとる同時代のイギリスのロマンティシスト、コウルリッジ(Samuel Taylor Colerige, 1772~1834)をとりあげて、苦心して比較したことがあるが(立教大学)、その教室を思い出すといま懐かしい。

 読書の第三の領域としてユーモア文学がある。わたしは今年の夏、内田百閒、阿川弘之、宮脇俊三の鉄道物語を、クスクス笑いながら読んでいた。去年の夏も同じ本を読んだが、ユーモア文学に関する限り、二度読むことが可能である。そのたびに新しいユーモアを感ずる。もっとも、阿川弘之や宮脇俊三を、ユーモア作家にまとめてしまうことに異議はありうるが。
 ユーモア文学は自著を読んでいるときと相通じる。自著を読んで、何がこんなに面白いのかと自問したことがあるが、それは書いてあることの展開が、前もって大体分かっていること、それが自著を読んで面白い理由だろうと思った。ユーモア文学は知的に興奮して読むものではない。わたしの読書は、眠る前にかならず読む。そしてその度に面白い。
 『第三阿呆列車』に付せられた阿川弘之氏の解説を読んでいたら次のように書いてあった。「私は百閒先生に面識が無いけれども、阿呆列車を読んでいると、どうしても大真面目で渋い顔をしている著者の顔しかうかんで来ないのである。笑いはそれの結果であって、そしてそれが、ほんとうの意味のユーモアというものであろう(『第三阿呆列車』新潮文庫、平成十六年、二九二頁)」。わたしはそれを読んで、これは何かを言い当てているなと思った。つまり真実とは、矛盾したものだということである。矛盾のない真実はない。
 こういうことだ。内田百間氏が大真面目なだけであったら、現状に不満なだけの道徳家になって、やたらに怒りっぽい、つまらない人柄になってしまうだろう。世の中にはよくそういう人がいる。しかしそれと矛盾して、百閒氏には、その自分をイナシテいるところ、客観視しているところがある。つまり百閒氏のユーモアには、真面目さが不真面目さの前提であり、不真面目さが真面目さの前提なのである。そこには矛盾がある。そしてそこにのみ、ユーモアという真実が醸し出される。
 これと平行してS・S氏のユーモア随筆集を読んだが(朝日文庫)、これはユーモアを意図してあって、意図したものが、ユーモアではありえない。これはダジャレであり、一向に面白くなかった。つまり真実のユーモアが醸成されるためには、真面目で不真面目なところ、不真面目で真面目であることが必要なのである。
 これは何事につてもそうだろう。真実は唯一絶対なものではない。不真面目なだけであったら、途端にその男はへらへらしただけの男になって、そこからはユーモアは感じられまい。真実は不真面目な要素を内に含んだ真面目なものだ。 

 上記のわたしの読書論の第一から第三の領域に共通している要素があることに、その後、気がついた。先日用事があって(甥の結婚式に出るため)、小田原の先の根府川まで行った。小田原、早川、根府川になる。そしてわたしは、この線路の上を、百閒氏とその相手であるヒマラヤ山系氏が、一献しながら何回も往復したのだろうな、と思って、その記憶がふと快かった。
 これはわたしの書くこと、考えること全体に渉ったことだが、この三領域に通底したことは、わたしの主観―客観構図への毛嫌いということではあるまいか、と思った。哲学と言っても、わたしはカントとくにヘーゲルには、この毛嫌いの要素が大きいと思う。そこには嘘の要素がある。したがって面白くない。カントには主観と客観を超越したものがまだあるが、へーゲルはそれも、正―反―合の弁証法に含まれてしまう。最近のへ―ゲル研究では、いわゆる絶対精神もこの超越の要素を含んだものだという理解が高まっているそうだが、ヘ―ゲルの場合、何事も弁証法で止揚してしまうというのが、大勢だろうと思う。
 このことは、わたしの読書傾向として、主観―客観の構図の枠内にあるものは、受け付けない、ということがある。これは主観―客観構図そのものを受け付けないということではない。それはある。それがなければ、科学は成立しない。しかし客観性とは実は主観的なのである。客観はあくまでも主観に対応したものである。これは本当に考えてみればその通りだ。

 上記の第一の領域では、もともと信仰は、近代的主観―客観構図を超えたものだという理解がある。パウロでは「コリント人への手紙一」の第一章一八~二五節で「世の知恵」と「十字架の言葉」を区別している。パウロにとって対立するどちらも必要なのである。イエスの言葉(として伝えられているもの)「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(ルカ伝十七章三三節)とある。これは明瞭な矛盾であろう。その矛盾の中に、真実の信仰はある。また佛教でも同じである。『歎異抄』十段には「念仏は「無義をもて義とす」とあるし、禅宗(禅宗には限らないが)の教外別伝・不立文字も同じであろう。
 上記の、第二(ロマンティシズム)、第三(ユーモア)の領域も同様である。ロマンティシズムは個の中に全体をみることだし、絶対の中に普遍性を感知することだ。ユーモアは真面目さと不真面目さの矛盾である。

 結局私の読書の領域は、主観―客観構図にたいする毛嫌いとか、その意味で、神秘の世界を指し示していると言えよう。
 わたしは美的宗教ということも、それは結局ユーモアに通じるということを、これまで言ってきたことがある。

 

 

 
 

 

 

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