信 仰 と 不 信 仰

小田垣雅也

 

 無神論(ノンセイズム)と否神論(アセイズム)は厳密に区別すべきであって、そのことは昔、わたしの極く初期に、論文に書いたことがある(拙稿「現代神学における無神論」『教会教育』一九七三年九月号)。否神論(アセイズム)というのは、フォイエルバッハ、ニーチェ、またはマルクス、エンゲルスのような、有神論(セイズム)の神を否定する立場で、普通わたしたちが西洋語的感覚で無神論(アセイズム)という場合、この否神論(アセイズム)も含まれている。その否神論(アセイズム)の否定の対象が、カトリック的有神論(セイズム)、または大部分の近代神学の有神論(セイズム)である。そしてその論文の場合で言えば、「無神論」(ノンセイズム)というのは、有神論(セイズム)―否神論(アセイズム)をこえた、絶対無としての「無」神論ということであろうということを言った。わたしは上記の論文の中で、有神論対否神論は、ヨーロッパ語にすればtheism対atheismであるが、無神論とはnon-theismという訳語が相応しいのではないかと、新語を作って書いたのである。西洋語では、アセイズムとノンセイズムが、混同して使われているところがある。
 今度、ゴベル・マルクスというドイツ人が、国際基督教大学で公募している「宗教哲学――日本の宗教との対話を重点にして」という講座に応募することになり、わたしにその推薦状を書くように依頼してきた。もともとゴベルさんは二〇〇四年四月から二〇〇七年七月まで京都大学に滞在されて、「武藤一雄の宗教哲学と京都学派」というテーマで研究されていた。たしか二〇〇五年の春に、わたしもその関係で会ったことがある。いろいろな点で、われわれの意見は一致した。そのゴベルさんが、上記のわたしの昔の論文を読んでいて、わたしも、アセイズムに対するノンセイズムという言い方は、私製英語ではあるが、便利だと思ったのである。わたしの思考も、その後いろいろ発展したが、中心的なテーマはノンセイズムであり、変わっていないな、とわたしは思った。

 まず手始めに、三浦朱門の『うつを文学的に解きほぐす』(青萌堂、二〇〇八年、九八頁)から引用しておきたい。
 「一九六二年はじめてヨーロッパ旅行をして、イタリアにも行き、バチカンの聖ペテロ大聖堂にも行った。そのバロック建築のけばけばしさに私は幻滅した。近くバチカン公会議が開かれる予定で、大聖堂に全世界からの高位の聖職者を集めるために、その中に足場が組んであった。騒がしく雑然として、私の考えていたカトリックの本山というものから遠かった。
 帰国してそのことを遠藤(周作)に言うと、
 『お前な、それだけはっきりとカトリックに批判的な態度をとれる、ということは、つまりもう信者になっているということだぞ。信者たちはいつも信仰に疑いを持ちながら、その答えを求め続けているんだ』
彼はそうは言わなかったが、『実はオレもそうだ』
と告白したかったのかもしれない。私はそれを機に、洗礼を受けることにした。」

 つまりここで三浦は、信仰対不信仰の水準での不信仰をも承認することが、本当の信仰であることを、見抜いていると思う。つまり、信仰(theism)対不信仰(atheism)の水準での不信仰(atheism)をも承認することが、本来的な意味での信仰(non-theism)の立場であることを見抜いている。これはノンセイズムの立場であって、アセイズムやセイズムの立場ではないだろう。
 右の三浦からの引用に関して言えば、遠藤の言い方には二つの微妙に違った立場があると思われる。すなわち第一は、「それだけはっきりとカトリックに批判的な態度をとるということは、つまりもう信者になっているということだぞ」という言い方であり、第二は「信者たちはいつも信仰に疑いをもちながら、その答えを求め続けているんだ」という表現である。この第一と第二の両者は、意味が微妙に違っていると思う。
 第一の場合、これは初期のバルトの立場であろう。初期のバルトは、キェルケゴールの影響の下に、「稜線上の歩み」ということを言った。人間は信仰によって不信仰の世界を、不信仰によって信仰の世界を意味させるほかはなく、それが人間の信仰であって、したがって人間の信仰は、一箇所にとどまっていることはできない、と言った。この認識は正しいと思う。わたしはこれまで繰り返し、人間は影によって光の世界を、光によって影の存在を暗示するほかはない、といってきた(『現代のキリスト教』講談社学術文庫、一九九六年その他の中でわたしは度々そのことを言った)。
もちろんこのことは、光と影の世界、信仰の世界と不信仰の世界を相対視することではない。信仰は不信仰に対抗していてこそ信仰でありうる。これは信仰対不信仰の世界である。それでなければ、信仰の意味がない。この対向図は、決して曖昧にされてはならないだろう。有神論(セイズム)は有神論であって、決して否神論(アセイズム)ではない。
 つまり、有神論と否神論は、お互いが、自分が在りうるための、マイナスの意味での与件であると言いうる。有神論と否神論の対立そのものがそうだし、光と影の対立がそうだ。光なしには影はないし、影は必ず光を前提している。しかし一方、与件が与件である以上、有神論と否神論は、つまりセイズムとアセイズムは、お互いを必要とし、しかもお互いを否定し合っているのである。むしろ否定する相手として、お互いを必要としている。バルトは「稜線上の歩み」ということを言い、信仰はそれ独自の、安定し独立した場所を持つことはできないと、キェルケゴールの「逆説」と同じことを言っているが、ここでは、さらにもう一歩を進めることが必要であろう。
 バルトが「神の言葉」というのは、その一歩であろうと思われる。本当の信仰は、不信仰に対向したもの、アセイズムとしての否神論に対向したセイズムではない。この対向の場合は、信仰対不信仰の構図は決してなくならない。信仰は必ず不信仰を必要としているし、セイズムは必ずアセイズムを必要としている。光には必ず影があるように、だ。不信仰は信仰の与件であるからだ。遠藤が「それだけはっきりカトリックに批判的な立場をとるということは、もう信者になっているということだぞ」という言葉はそのことを表わしている。
 では遠藤の第二の場合、つまり「信者たちはいつも信仰に疑いを持ちながら、その答えを求め続けているんだ」の場合はどうか。第一の「稜線上の歩み」の場合、または影によって光を暗示するという場合、それはその事実の率直な承認の問題であって、遠藤がここで言うように、「疑い」の問題ではないであろう。実際、信仰は「疑い」だしたらキリがない。このことは本当の信仰、つまりノンセイズムの、言い換えれば絶対無なる神は、信仰対不信仰の構図をも含んだものだということだ。それが本当の信仰であろう。「本当の信仰」には、不信仰も含まれているのである。それは遠藤が言うように、「疑い」の水準にあるもの、その「疑い」を押し戻す本性のものではないと思うがどうだろう。遠藤のこの言葉、「信仰に疑いをもちながら、その答えを求め続けているんだ」には、何となく、信仰は不信仰の否定であるとするような、力学的な要素が含まれている。
 これはいわゆる「身内」の論理ではない。戦時中、官立(国立)大学の学生たちは、「身内意識」から、かえって国の政策に反対の言辞を弄したそうだ。何を喋っても安心だったのであろう。そして遠藤のこの言葉には「信仰には疑いがあって当たり前。それを押し戻すのが、神への信仰だ」的な、「身内」の論理がほの見えるように思われる。

 それに較べて、「私はそれを機に洗礼を受けることにした」という三浦の言い方には、セイズム(有神論)対アセイズム(否神論)を超えた「本当の信仰」、神の存在をめぐっての人間の肯非を超えた意味でのノンセイズム、の契機があるように思われる。これは「神は絶対無である」という立場に隣り合った現実ではないか。絶対無には、有も無も、含まれている。そしてここまで来ると、つまりノンセイズムの立場に立つと、カトリックが有神論で、禅宗が無神論であるという、有対無の相違などはどうでもよくなってくる。ここで言われているものは、「絶対無」としての神であり、絶対無は人間の認識にとっては、有るとは言えない。しかし無いとも言えないのである。
 ルターには「隠れたる神」(dues absconditus)という表現がある。さきほど聖書で読んだ、「ところがいまや、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマの信徒への手紙三章二一~二二)とある。ここで云う律法は、人間の認識と言い換えてもよいだろう。つまり神の義の前には、信者の正対不善、信仰対不信仰などの認識は意味を失っているというのである。それがルターが発見した神の義である。
 しかしその本意は「隠れたる」ではなくて、つまり神が前提され、その神がただ隠れているだけ、ということではなくて、「隠れたる神」であるということではなかろうか。神は人間の認識にとってはつねに「隠れて」いる。そのことは、先ほどのゴベルさんも言っていた。「神」の問題ではなくて、その神が、人間の認識にとっては「隠れたる」神であることが問題なのである。神の存否についての、人間の、認識や理解の問題ではない。その水準でこそ、佛教とキリスト教の対話も可能となるだろう。
 一般的に言って、カルヴァンとかツウィングリのようなプロテスタントの二代目になると、信仰が論理的に一貫されるから、信仰が倫理的・認識論的になる。先月も話したように、わたしはレマン湖の水の透明さを眺めながら、つくづくそのことを考えた。カルヴァンの福音主義は、カトリック教会の権威を否定したが、それに替えて、「神の権威」で、論理的に純粋に一貫しているな、とわたしは考えたのである。二重予定説がその証拠であろう。(二重予定説については、これまでに書いたことがある。要するに神の主権を、論理的に一貫させた教理である。)
 日本のキリスト教が、たとえば無教会派のように、倫理的雰囲気をもっているのは、アメリカの基督教の影響であろう。大体、アメリカのキリスト教は、清教徒のプリマスやジェームスタウンへの殖民のように、カルヴァン的プロテスタントの流れを汲んでいる。酒、タバコを飲まないことが、キリスト教徒の証拠であるかのようになっている。しかしヨーロッパのキリスト教、ことにカトリックでは、そんなことはない。

 人間の認識の上では、信仰でも不信仰でもいいのだと思う。それが、神が絶対他者であり、そもそも人間の認識を超えた神である所以ではないのか。認識的な有神論(セイズム)、または否神論(アセイズム)の上で立ち止まっていてはいけないのである。信仰は、信仰と不信仰の押し合いのことではないだろう。そのことは「絶対無」なる神と別のことではないと思う。人間の認識にとって、神は有対無という、対立を超えたものではないか。それはノンセイズムのことではなかろうか。

 三浦朱門が遠藤周作の言葉によって、不信仰のまま、「これを機会に洗礼を受けた」ように、である。三浦は以上のことを、つまり神は人間の認識を超えているということを、完全に理解している。神は人間の側の、信仰・不信仰の水準をこえているのである。人間の認識にとっては、信仰と不信仰の二重性が本当の信仰なのだということを、である。

 
 

 

 

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