懐 か し さ

小田垣雅也

 

 先日、半世紀ぶりに、カナカナ、つくつく法師、ニーニー蝉の声が聞こえました。わたしが耳が悪くなって、蝉の声が聞こえなくなったのは、半世紀以上も前です。今年の二月に、コンピュータが内蔵されている補聴器を買いまして、それを両耳につけています。右の耳につけているのは数年前に買ったもので、性能は今回買ったものの方がすぐれています。それは人間の声だけを選択して拡大する機能をもっているのですが(それでも会話で聞こえないところは多くあるが)、このあいだ、たしか八月の下旬に、その補聴器を両耳につけて散歩していたところ――いつもそうするのですが――、カナカナの声がきこえたのです。昔の鳴声と違って、補聴器を通ってキャッチされた声なので、おかしな鳴声であったので、「これがあのカナカナの鳴声か」と、最初わたしは疑いました。しかし注意してみると、それは紛れもなく、あのカナカナの声でした。その後しばらくたって、耳が慣れたせいか、つくつく法師やニーニー蝉の声も明瞭に聞こえるようになったのです。油蝉のジージーという声は聞こえません。そのとき一緒に歩いていた妻に聞いたら、油蝉もすごい声で鳴いているそうでした。しかしカナカナやつくつく法師の鳴声を「再び」聞き取ることができて、わたしは感激しました。そして、失われていた自然が恢復されたように思ったのです。それは限りなく懐かしいものでした。そしてわたしは六月にした説教の「再び」というテーマを思い出しました。

 

 六月の説教を少し敷延してみましょう。その説教で、わたしは次のような話をしました。宗教、レリジョンの「レ」は「再び」という意味であり、また「リジョン」は「結び合わせる」という意味であって、したがってレリジョン、すなわち宗教とは、「再び結び合わせる」ということを意味するということ、そして、神と人間との間の失われていた関係を「再び」結び合わせるのが宗教の本意であろうという、ある人の所説を紹介したのでした。

 しかし神と人間との関係を「再び」結び合わせるという場合、人間は、もともとの状態としては、神と結び合わされて、一緒であったことになります。その関係が断たれ、それが「再び」結び合わされたのです。それが「再び」「レ」ということの意味でしょう。しかしその場合、もともと神と結び合わされていた人間の状態とはいかなるものか。またはその場合の神とは何でしょうか。

 このことは、近代自我の誕生ということに限定して考えてみると、何が問題であるのかがよく分かると思います。いわゆる啓蒙主義によって、近代自我が発見されまして、「自分は自分のみによって自分である」という自律的自我の自覚が生まれました。それ以前の、すぐれた意味での中世は、いわゆる「神律」の時代であり、人々にとって神の存在は前提されていました。その神のもとで生きることは当然の意識でした。つまり中世では、「もともと」人々は神と共に生きていたのです。だから無神論はもとより、無神論対有神論という自覚的構図も中世の人にはありませんでした。自我がなければ、築造に何世紀もかかる聖堂が築かれることも、そもそもそれが発想されることもなかったでしょう。中世の或る意味での不可思議さ、静謐さとはそのような、自我がもともとないことに起因するものだろうと思われます。

 しかし啓蒙主義の発生によって、ひとたび人々が「自分は自分によってのみ自分である」という「自我」にめざめまして、言い換えると、神から切り離されますと、神も人間の省察の対象になります。省察の対象である以上、その神を否定する無神論や、肯定する有神論が生まれます。この無神論と有神論の対立は、近世思想を理解する上での一つの系となります。だから人間と神とを「再び結び合わせる」という、右に言及した宗教的自覚も、近世以後で初めて生まれたものです。中世には神と「再び結び合わされる」という自覚そのものがありません。しかし六月の説教で言いたかったことこのことではなくて、次のことです。すなわち、人間が自律的自我に目覚めてしまった以上、神と人間とを「再び」結び合わせるという自覚は、あくまでも自律的自我の内部での思念でありまして、したがって「再び」「結び合わせる」という自覚そのものが、すでに自我の枠内にあるということです。しかし、だからといって、その自我の枠を捨て去ることは近代的自覚の否定を意味し、近代人、現代人にはできません。だから「再び結び合わせる」という近代自我の枠内での事情が、現代人のわたしたちにとって、本当に、「再び」結び合わせるということである場合、それはその再結合の状態が自我の中に取り込まれて、一つの観念として安定してしまわないで、「再び」「結び合わせる」ということが、繰り返し反復されなければならないだろう、ということであります。それをわたしは六月の説教で言いたかったのです。つまり、わたしたちにとって信仰とは、神と「結び合わされる」と「まだ結び合わされていない」の二重性的なものだということ、言い換えれば、それは主体的、時間的、須臾的なものだということです。そのことを言いたかったのです。

 

 森田正馬博士が考案した神経症の「森田療法」については、わたしはこれまでに散々読んだり書いたりしてきましたが、森田療法では「煩悶即解脱」ということを言っています。煩悶と解脱の二重性で、その二重性が解脱であると言われます。わたしたちの自我に煩悶の対象がある場合、それから逃がれようと努力することは当然ですが、しかしその努力はわたしたちの注意を、それから逃れる対象として、ますますその煩悶を意識し、それに固着される結果になります。だからそのように努力する場合、その煩悶から逃れることは決してできません。それは、杭に繋がれたロバが、自由になろうとして、杭の周りを回れば回るほど、ますますその杭に縛り付けられるようなものであると有名な禅の譬えで言われている通りです。

 この話は、これまで何回もしたことがあるので、これ以上言いませんが、本当の解脱とは、煩悶があるという事実を、「あるがまま」に認め、その煩悶の事実にもかかわらず、それが気にならなくなること、それが解脱であり、その煩悶と解脱の二重性が、煩悶即解脱という、本当の解脱ということのありようだろうということです。その煩悶を「ありのまま」認めることが、解脱であり、その境地が、信仰であり悟りであろうと思うのです。しかし今日の説教のポイントは、そのことを言いたいのではありません。

 そうではなくて、この二重性を承認する場合、わたしがこれまで、そして今も、その「煩悶」の方に気をとられ、その煩悶がそのまま、解脱であるということを等閑にしてはいないか、ということです。煩悶そのものが解脱なのです。わたしは不眠症の気味があるのですが、一昨日の夜も、わたしはほとんど眠れませんでした。眠ろう々々と努力すればするほど、ますます目が冴えて眠れなくなりました。意識は、その眠れないという事実にますます集中するのです。睡眠薬を飲んでもそうでした。昨夜は、今度は就寝する前から「今夜も眠れなかったらどうしよう」と、心配し始める始末でした。睡眠薬を飲んだら、今回は疲れていたせいもあって、すぐ眠れましたが。これは杭に繋がれたロバとおなじ状況です。このようなことはこれまでに何回もあり、それなら、二晩目はかならず眠れるのだから、前夜の不眠などは「気にしないで」「安んじて」就寝すればよいではないか。大げさな言葉を使うようだが、その「安んじて」、「気にしないで」いることが、解脱ということではないのでしょうか。

 つまり、今日の説教で言いたいことは、「煩悶即解脱」の場合、解脱のほうに心の重心を移したらどうか、ということです。煩悶はつきつめないで、いい加減にしておけばよいのです。煩悶は煩悶のままでよいではないですか。それが常態なのです。わたしはこれまで、煩悶の方ばかり気にしていたように思うのです。解脱の方にばかり心の重心を置いてしまうことも「煩悶即解脱」の二重性ではないでしょうが、しかし煩悶の方にばかり気をとられていることも、つまり解脱しよう解脱しようと煩悶していることも、「煩悶即解脱」ではないでしょう。「あるがまま」という境地には、少なくともわたしに関する限り、解脱ということの方に心の重心を移すことではないか。解脱を意図して、解脱の境地に達することなどできはしない、ということも事実でしょうがが、それにもかかわらず、「解脱」のほうに重心を移すことは大事と思われるのです。今このように説教し、「気にしている」ことも、やめるのです。いまのままで良いのです。まだ駄目だと己を責めることをやめることです。ルターの「罪人にして同時に義人」も、同じことを言っているのだと思います。

 

 アッシジの聖フランチェスコには、「兄弟なる太陽の頌歌」という詩があります。それによると、太陽は兄弟ですが、月は姉妹であり、風も兄弟でした。自分の死を前にしてつけ加えられたとされる一節では、死もまた姉妹であるとされています。「姉妹なる死」もまた神からの贈り物なのだというのです。要するに、死が死であることには変わりはないのですが、それにもかかわらず、「あるがまま」、自然(じねん)な生活を受け入れています。イエスが空の鳥や野の花を例に引いて、人間が「思い悩む」ことをいましめ、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言ったのも(マタイ六の二五〜三四)、解脱の方にもこころの重心を移し、すべてを、死すらをも、「あるがまま」に受け入れる生き方の薦めではないでしょうか。そしてもしその境地になったら、それは人間の生にとって、産土の大地と言いますか、非常に懐かしい境地ではないか、と思うのです。

 

 わたしは新著を上梓すると先輩や友人たちに献本するのですが、今度出した『コミュニケーションと宗教』を T 先生にもお送りしたところ、 T 先生から電話があり、「忘れないでいてくれて、ありがとう」と言われました(誰が忘れるものか)。 T 先生は九〇歳を越えておられます。高齢まで生きることが必ずしも望ましいことであるとはかぎりませんが、 T 先生がご高齢まで生きておられるのは、先生の屈託のなさ、「あるがまま」の生の受け入れによるのではなかろうか、とわたしは思うことがあります。いわば生の「懐かしさ」に包まれた人生であったからでしょう。たぶん、不眠症に悩むなどという近代自我の病弊は T 先生にはなかったに違いありません。「忘れないでいてくれて、ありがとう」とは、自分についての煩悶ばかりしている「自我」にはなかなか言えない言葉です。それは「とらわれのない」人にのみ許された言葉であるように思いました。その T 先生の言葉には、わたしも含めて、人間への「懐かしさ」に溢れているように感じたのです。 (06916)

 

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