老 い の 意 味

小田垣雅也

 

 この半年ぐらい「オレは老人性欝だ、々々」と言って家族を悩ませ、それよりも自分自身が苦しみ、精神科のK医師(家内が知り合いの)に一ヶ月に一度ぐらい通っている。たしかに欝特有の(と本に書いてある)不眠症とか、焦燥感に悩まされているのだが、家内によると、そのK医師は、わたしの苦しみが大袈裟だとは言わないにしても、病気と正常の境界線の上にあるみたいなもので、毎回もらってくる抗欝剤も、いつやめてもいいと言うのである。そして「鬱は必ず治る」と言う。また、そのK医師は、これはわたしの個性みたいなもので、避けては通れないし、むしろ尊重すべきものだ、とも言う。たしかに、通常の ( と言っては通常の人に対して失礼だが ) 知の裏側に廻り、本当の知を求めること、たとえば教会で説かれる「通常の」説教には飽き足らずに、その裏側に廻って本当の、率直な信仰とは何かを求めることが、わたしがこれまで書いてきた本や、語ってきた説教(らしきもの)の根本的動機であったと言えるのである。その意味で、これまで書き、語りしてきたことのテーマは、基本的には自分自身である。「わたしは学者ではない。あえて言えば詩人だよ」とこれまで時々言っていたのは、自分の学問的能力を謙遜したわけではなく、わたしが追究しているテーマが、ある特定の対象ではなくて、自分自身だからである。そう言ったら、K医師は「それでは今度は、その自分の老いについて書いてください」と言った。老いというわたしの初めての経験によって ( 老いも死も、誰にとっても始めてだが ) 、わたしは自分のこれまでの生き方の、つまり信仰の、真贋が試されているような気がしている。

 

 わたしはキリスト教徒だから、このような場合、愛とは何かについて考えざるを得ない。そして次のような聖書の文章を思い出す。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と、あらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント一、一三の一〜二)。異言というのは、昔のことだから、信仰上、感極まって発する、意味のない言葉のことである。つまり本当の愛がなければ、自分の発する異言としての言葉や神学は、やかましいどらやシンバルと同じであり、それは無に等しいと言うのである。

 

 わたしが少年の頃、誰でも読んだ本に倉田百三の『愛と認識との出発』と、阿部次郎の『三太郎の日記』があった。その頃は「自我の覚醒」という言葉が青年たちの間で合言葉のようになっており、わたしの自覚的読書は、この両書、とくに前者から始まったと言ってよい。そして『愛と認識との出発』の中で、わたしは普遍愛ということを学んだ。アガペーとエロースの違いを知ったのも、この本の中ではなかったかと思う。アガペーは他者を他者のために愛することであり、エロースとは他者に対する愛といっても、結局はそれは自分の楽しみのために、相手を愛することであると。そして普遍愛というのは、エロースでもアガペーでもなく、人々を普遍的に愛することだという趣旨であったと思う。キリスト教徒の間では、神の愛はアガペーであり、人間の愛は、どんなに相手のことを考えた愛であったとしても、たとえば親の子に対する滅私の愛のようなものであっても、それは結局は自分のために相手を愛することであり、エロースになるという。しかしこのようなアガペーとエロースの違いは人為的仮構であるとわたしは思う。問題はそう区別したアガペーとしての愛も、結局は自我がそう考えているのであり、その限り、それはエロースと選ぶところがないのではないか、という反省がアガペーとエロースの区別にはないことである。本当の愛は、そのようなアガペーとしての愛の「裏側に廻って」、愛を理解することではないか。普遍愛というものも、それが自我による「普遍」愛である限り、それは自我による自我中心的愛であることは避けられまいと思う。

 また、そのころ読まれた本に、ポール・ブールジェの『死』という本がある。その中でショックを受けたのは、次のような趣旨のくだりである。すなわち、親しい人の死、たとえば恋人やわが子の死、に対して感ずる悲しみは、その人が喪われた事実に対する悲しみであるよりも、その人と過ごした自分のそれまでの習慣の喪失に悲しむのである、と。これは人間の愛は、どんなに相手を思った愛であっても、自我を離れられない、ということを言っているのであり、普遍愛なるものも、結局は自己愛だと指摘していることと同じである。この本はわたしが、わたしの父親の死後間もなく読んだせいか、このくだりに胸を衝かれた記憶がある。そして『愛と認識との出発』にしてもこの本にしても、要するに自我がもつ愛が、アガペーや普遍愛ですら、自我中心を離れられないことを指摘しているのではあるまいかと思ったのだ。それが近代自我がもつ愛の限界であろうかと思う。洋の東西を問わず、近代小説の基本的テーマは、この自我と愛との矛盾葛藤ではあるまいかと思う。

 自分が何かを愛するという場合、たとえその愛が「普遍愛」を標榜したものであっても、その愛を実行しようとするのは自分である。だからそれは、結局は普遍愛ではなくて、普遍愛を標榜した自己愛になるという矛盾は避けられないのではないか。わたしは青春時代のこの重いテーマを考えると胸が痛む。この説教のはじめに、わたしが愛や知の「裏側」に廻って、本当の愛や知を求めようとしたと言ったのは、このような事情のことである。本当は、その「裏側に廻る」ことも自我の作業であり、その作業を無限に繰り返す自我をいかに断ち切るかが、信仰というものだが。そしてこの裏側に廻って、本当の知や愛、また信仰を求めることが、わたしの几帳面さであり、個性だというのなら、それはその通りであろう。それがわたしの哲学的ないし宗教的動機である。そしてこのような窮境を脱すること、言い換えれば本当の愛や、本当の自分を求めるのはどのようにして可能であるのか。

 

 このことは、それを求めてこれまでの半生、苦しんだり、その苦しみを書いたりしてきたことだが、それは要するに、人間の関係存在性、縁起性、自他不二、ということと離れられないことだと思う。人間は、厳密に言えば、単純に「裏側に廻って」「本当の自己」なるものに出会うことはできない。人間は縁起の網の目の中で、他者とともにのみ、自己であり、自分であるのだ。「自分は、自分のみによって、自分である」のではない。和辻哲郎が言うように、元来「人」という字は、二本の線がもたれあって「人」という字になるのであり、人間は「人」の「間」でのみ人間である。だからここでは、「自分は自分のみによって自分である」ような自我の死は、本質的な意味を失っている。信仰と言い、悟りと言っても、それはこの事実に気がつくこと以外ではない。この網の目を離れて、それ自体で完結した自己、時代思潮や、常識、通常の知識の「流れに抗して」、生きている自己とは、近代自我の錯覚ではないのか。それは前世紀のような戦争の時代には美徳であったかもしれぬ。また啓蒙主義的自我の自覚によってこそ、人間は中世の蒙昧さから人間をとり戻したことも事実である。それは中学校で(いまの高校か?)習ったとおりだ。

 しかし現代は違う。自己は関係性としてのみ自己だという意味では、人間は――もちろんわたし自身を含めて――、本性的に未完結なものである。むしろ、「人間は未完結である」という行いすました自覚そのものも一つの完結した結論なのだとする人間論のような、哲学的人間論の「裏に廻った」本当の未完結性が未完結ということである。それは普遍愛という哲学でも、アガペーという宗教でもないし、ポール・ブールジェのような、近代自我的ニヒリズムでもない。あえて言えば、それは自我の完結・未完結についての意識的捉われをいわば諦めた、人間としての自然さ、具体性、天然自然さこそが大事といえるのではあるまいか。それが本当の未完結であろう。余談になるが、徳の高い高僧は、佛教でもキリスト教でも、高齢まで生きる人が多い。高齢が必ずしもよいとは言うわけではないが(道元は五三歳で死んだ)、それはその人々の天然自然な生き方による平安がそうさせたのではないかと、時々思うことがある。

 そして老いの意味とは、この天然自然さの体現ではないかと思う。人間は本質的に未完結である。その事実に狼狽しないとらわれのなさが、老いということの意味ではないかと思うのである。天寿とは本来、そういう、とらわれの無さではあるまいか。四〇歳で死んだ人は天寿を全うせず、その人の価値は、八〇歳で死んだ人の価値の半分だ、とは言えぬだろう。現代のニヒリズム華やかなりし頃、人間存在の不条理の典型は、人間がいつかは死ななければならぬことだ、と言われたことがある。実存主義がそう言った。しかし天然自然な、とらわれのなさとは、実存主義のこの不条理をも受け入れてこそ、天然自然なのではないか。死を不条理の典型だとする実存主義にとって、死は理解の外にあり、敵である。実存主義と老いないし死は、たがいに対立している。実存主義は生の哲学だ。死は敵――抗しがたい――敵である。抗しがたい敵に反抗するのが、実存主義的人間論の栄光でもあった。

 

 老いが生きるべきはずの「とらわれのなさ」に較べれば、「普遍愛」も、親しい人の死に対する悲しみも、愛そのものにとっては「騒がしいどらやシンバル」ではないかと思う。どれも自我が主体になっている。その自我は天然自然にはなっていない。その限り、本当の愛を裏切っていると思うのだ。エロースや自我も大事だが、しかし自他不二のとらわれのない愛に気づいてこそ、エロースや自我も、その占めるべき場所を得る。すぐれた青春がそうであるように、である。青春は美しい。そしてその美しさに気がつくことが、そもそも老いというものの慈愛だと――そして本性的皮肉だと――わたしは思うのである。慈愛に満ちた老いた人々を、わたしたちは時々、周囲に見かけることがある。慈愛の対象をもった老いは床しい。その対象は人間であっても、動物であっても、趣味であってもよい。それによって、老いは床しい老いでありうる。自他不二の「他」を見うしなった老いは、自我の死を待つだけの寂寥である。床しい老いを持つことができるか否かには、人間の真贋が問われているところがあるとわたしは思う。 (05925)

 

 

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