イ チ ロ ー

小田垣雅也

 

わたしは野球のホームランというのは、あまり好きになれないのである。ホームランはたしかにスカッとするが、ホームランには試合のそれまでの必然性を中断してしまうような、ある種のあっけなさがあって、それが気に入らない。ホームランは力があれば誰にでも――というわけでもないのだろうが――打てる。ベーブ・ルースもジョー・ディマジオも、最近のサミー・ソーサも、みな筋骨たくましい巨漢である。だからわたしは、松井秀喜選手は特に好きでも、嫌いでもない。しかしイチロー選手は大好きだ。野球選手でわたしの贔屓は、野茂英雄投手と、イチローである。野茂がたしか九年まえ、初めてアメリカ大リーグに出て行ったとき、アメリカのある選手が、「日本での地位も名声も金も捨てて、自分の可能性を試すために、一人で大リーグに乗り込んできた野茂には脱帽するね」と言っているのを新聞で読んで、わたしは「そうだそうだ」と思ったものだ。スポーツ選手の美学は、そのチャレンジ精神だろう。

そのイチローが、アメリカ大リーガー、ジョージ・シスラー(一八九三〜一九七三)が樹立した、二五七本のヒットを八四年ぶりに破って、今期二六二本のヒットを放った。まさに日本中が沸いた快哉事であった。力まかせのホームラン打者に較べて、イチローの打撃技術は緻密で華麗である。内野安打にしても、たとえばワンバウンドさせて投手の頭上を越えれば、自分の俊足で、間一髪、一塁セーフになれる、ということまで読んでバッター・ボックスに入るそうだ。今年野球殿堂入りをはたしたマリナーズのポール・モリター打撃コーチは「イチローはじつに多くの安打ゾーンを持っている。人がいないところに打てるんだ」と言っている。また「たとえ前のめりになろうとも、のけ反ろうとも、いつもグリップの位置が素晴らしい。これが一番いいところなのだ」とも。それによって、どんな体制になっても、ボールに対して常にバットが最短距離で軌道をえがくのだそうである。イチロー自身も、「中前安打ならいつでも打てる」と明言している(一〇月二日朝日新聞夕刊)。これは繰り返した研鑚が吐かせる言葉だろう。

野球選手にかぎらず、ショウマンは華麗な技術をもっていなければならない。イチローほどショウマンシップに心がけ、野球の道具を大切にし、毎日の体調に気をつけている選手はいないそうだ。イチローの華麗な技術は、そのような細心な配慮に裏打ちされているのである。今日の聖書、マルコによる福音書四章二〜九節「種を蒔く人のたとえ」で言えば、石地に落ちたり、茨の中に落ちたりした種は、たとえ花は咲いても、実を結ばない。華麗な技術は細心な配慮に裏打ちされてのみ技術の実を結ぶのだ。華麗な花だけでは、それは石地の上に落ちた一時的な花に過ぎぬだろう。それは綺麗だが長続きしない。

しかしその研鑚は、楽しみながらでなければ長続きしないだろう。メジャーリーグに移った当時、イチローは次のように言っている。「毎日が本当に楽しいし、毎日何かを学んでいます。」「それはもちろん大変ですよ。毎日が新しいことの連続だし、あらゆることを学ばなくてはならない訳ですからね。でも、ぼくはそれがとても気に入っています」(D・シールズ編『イチローUSA語録』集英社新書、二〇〇一年、一五四頁)。天才とは楽しんで努力する人のことだということは、モーツアルトも、将棋の羽生善冶名人も言っていることである。

 

しかし、今日の聖書にあるような、三〇倍、六〇倍、一〇〇倍の実を結ぶ「良い土地」とは何だろうか。それは緻密の上にも緻密で、綿密な準備のことなのか。そおうではないだろう。そうではなくて、それはむしろ、その準備を生かすイチローの「自然さ」こそが「良い土地」なのではなかろうか。しかしその「自然さ」とは何だろうか。

イチローが二五六本を安打して、シスラーとタイになるもう一本が期待されていたとき、総立ちの観衆の前で、イチローは投手の投げたワン・バウンドの悪球に手を出して三振したりしている。平静さ、自然さを欠いていたのである。それなら、総立ちの観衆の声援の前でも動じないでいることが、自然さなのだろうか。たぶん、そうではない。イチローはその次のマリナーズのホーム・グラウンドでの試合で、二五七本目のヒットを放ってシスラーの記録と並んだ。そして二五八本目が期待されたとき、「イチロー・コール」がすさまじかったという。そのとき、「ずっと続くイチロー・コールに戸惑っているように見えた」という記者の質問に答えて、イチローは次のように答えている。「どうリアクションしていいかは確かに難しい。だから自分の感情にまかせた。素直な気持であそこにいました」。

自然さというのは、観衆の大声援にもかかわらず、そんなものはないかのごとく平静に振舞うことではないらしいのである。そのことにとらわれると、ワン・バウンドの悪球に手を出したりする。もし大観衆のイチロー・コールの前でも平静でいられるとしたら、それは人間ではなくて、人間の感情を捨象したロボットの無感動ということになろう。ロボットの無感動が自然さなのか。そうではあるまい。むしろ、自然さとは、大観衆の声援に動じているその自分をこそ、自然に受け入れることであるのかもしれぬではないか。イチローが、そのときの「自分の感情にまかせ、素直な気持であそこにいました」と言っているようにである。その時、気持の動揺は動揺のままでありながら、余裕をもってその動揺を受け入れている。しかしそれが、人間にとっての自然さということなのではなかろうか。さらにイチローはこう言う。「やってる間に、プレッシャーから解き放たれるのは不可能。背負ってプレーするしかない。でも、ドキドキ、ワクワクとか、プレッシャーが僕にとってはたまらない。これが勝負の世界にいる者のだいご味。それがない選手ではつまらない」と(朝日新聞10月3日、朝刊)。

すると、プレッシャーはプレッシャーでありながら、それを楽しむことすらできるものであることになる。そのプレッシャーと楽しみを二重にもつことが、本当の「自然さ」であるかもしれぬ。プレッシャーを無視し、それを無視するという意味でプレッシャーにとらわれていることは、自然さではないのである。自分が大観衆の声援にとらわれているのなら――それは人間として当然だ――、そのとらわれている自分を受け入れることが自然であり、その自然さこそが本当の自由なのではなかろうかわたしは思うのだ。その場合にのみ、わたしたちは一次的なプレッシャーからも解放され、自然になれる。そのことを、このイチローの言葉は暗示しているのではなかろうか。三〇倍、六〇倍、一〇〇倍もの実を結ぶ「良い土地」とは、このような、プレッシャーとそれを楽しむという二重性の事情のことではないか。それが、それまで研鑚してきた技術を生かす。ロボットの冷血さが自然さではない。だからそれは「良い土地」ではないだろう。

 

大観衆からのプレッシャーを無視しようとすればするほど、その努力の対象として、プレッシャーは増大するものだ。名優とか名選手というのは、プレッシャーを受けながら、逆にそれを楽しむこと、それによってむしろ自分のエネルギーを蓄え、自分の力を十分に発揮できる人のことではなかろうか。とすると、イチローはその緻密で華麗な芸と、観衆からのプレッシャーを受け入れ、それを自分のエネルギーに変える技量において、たしかに名選手の資格があるようだ。

この際、信仰の話などはどうでもよいが、信仰というものも、神を信じるという一次的なプレッシャーを自分に強いることではないのではないかとわたしは思う。努力や準備だけでは、イチローも名選手にはなれぬように、だ。それは道端や石地におちた種のようなものだ。信仰の場合、神を信ずるというプレッシャーがなければ信仰とは言えまいが、それをプレッシャーであると感ずることが人間そのもののあり方であることを思い、さらにそれを楽しむことのできる、緊張と余裕のある境地に至ること、それが信仰のありかたではないかとわたしは思うのである。

 

後日譚になるが、イチローは国民栄誉賞を贈ろうという政府の内示に対して、二回にわたってそれを辞退している。それを受賞すると、「モチベーションがなくなるから」というのがその理由であるそうだ。それは単に、貰ってしまったらそれに安んじてしまうということではなくて、プレッシャーと余裕という二重性の緊張を維持していたいということ、それがなくなると自分の芸がなまる、というイチローの職人気質が言わせた言葉であろう。よきかな、とわたしは思った。(04X05)

 

 

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