ご 馳 走 帖


小田垣雅也

 

 何事も、隙があったほうが、技術として完成するのではないかと思った。

 わたしの友人夫妻に、信州でヴィラデストという葡萄酒の醸造所、つまりワイナリーを立ち上げた夫妻がいる(玉村豊男、さえ子)。実はその奥さんの母上が長い間「みずき教会」のスポンサーであった。当年、八十九才になる。その方がその夫妻と一緒に信州で暮らしているし、ワイナリーというものは副業もしないと経済的にたちゆかず、レストランもやっているというので、レストランでの食事かたがた、懸案のお見舞いに伺ったわけだ。
 ヴィラデストそのものは、玉村豊男氏の近著『里山ビジネス』(集英社新書、二〇〇八年六月)という本が、わたしたちが信州へ行ったその日に、朝日新聞で書評にとりあげられていて、わたしたちが信州に泊まった日に、わたしはベッドの上でそれを読んだ。早速とりよせて一読したが、日本の里山で、ワイナリーを立ち上げることが、いかに楽しくも大変なことであるかいうことがよく分かった。
 もともとは、ヴィラデストの辺り一帯は、道はあったが、雑木林の斜面だったそうだ。遠く千曲川と上田盆地、北アルプスの山々の景色が見はるかせる。狐、狸は言うに及ばず、ときには熊も出てくる里山であったよし。そこを友人夫妻で開墾したのだという。それまで友人の車に乗って案内されていたものが、ヴィラデストに近づくと、急に人々がどこからともなく現れて(実は駐車場から)、突如として混雑する、といったあんばいである。現地はバスも通っていない里山だから、ヴィラデストの存在が知られるだけでも大変だっただろう。道案内の立て札はあるが、この地方一帯が、広告禁止地域であるよし。
 ヴィラデストというワインそのものは、先日あった洞爺湖サミットで選ばれ、日本のワインとして、ディナーに供されたそうである。『里山ビジネス』によると、ワイナリーを立ち上げるといっても、いろいろなことが絡んでいて、何か感動的であった。

 わたしはレストラン・ヴィラデストでホロホロ鳥というものを生まれて初めて食したが、ヴィラデストのフランス料理で一番感動的であったのは、ヴィラデストの料理が一種の野生味を残していることであった。これは付け合せの野菜の新鮮さによるのかもしれないが。ヴィラデストには畑もある。野菜は全部、そこで採れたものだそうだ。
 昨日来た別の友人によると、その友人はヨットマンだが、魚は新鮮なだけではダメだそうだ。新鮮な魚が口に入れてこりこりしているのは、あれは魚の死後硬直によるものだそうで、魚のうまみはその硬直が解けたあとなのだそうだ。しかし野菜、とくに冷野菜は、新鮮な間にこそ、野菜そのもののうまみが保存されている。それが一種の野生味と、わたしには思われたのかもしれない。ただ、それだけではなくて、ホロホロ鳥の焼き方も、いろいろなところが焦げている野生的な焼き上がりであった。それが付け合せの野菜の新鮮さとよく合っていた。
抽象的なことを言うようだが、わたしはたとえば料理という技術の場合、一歩欠けたところ、その意味での隙があったほうが、技術として完成しているな、とそのとき悟った気がした。一歩であることが大事で、それが二、三歩だったら家庭料理、または上手な奥さん料理に戻ってしまう。いわゆる惣菜と、レストランの料理の違いは、そういうところにあるだろう。

 吉祥寺にT亭という京料理店がある。一、二度行ったことがある。京都は伝統のある町だから、料理も、淡白にして幽玄なものが多い。南禅寺の豆腐料理などは、その極致であろう。日本の宮廷料理が味の論理を追求していると、あのようなものになるのであろう。T亭の料理は、それはそれとして感動的であったが、食していて、いくらか息苦しい感じがした。この味には一分の隙もないな、とわたしはそのとき考えた。そう言えば、京料理には、冷野菜、サラダの類はないようだ。したがって、新鮮な野菜とか、新鮮な魚、という概念はない。京料理で、誰でも思い起こすのは漬物であろう。漬物の味にも、一分の隙もない。隙だらけの漬物は、食するに値しない。

 これは料理一般の話になるが、世界で一番贅沢な料理哲学をもっているのは、実は日本料理だと思う。五年間のアメリカ滞在の後、ヨーロッパ回りで日本に帰ったとき、ヨーロッパ諸国で、一度はその国の代表的な料理を、ちゃんとしたレストランで食べることにしていた。あとは何を食べていてもよい。そしてつくづく思ったことは、日本料理は「味の論理」をもっている、ということである。日本料理は、野菜でも魚でも、旬とか採れた場所、つまり料理の食材に捉われる。しばしばそれを塩茹でだけで食べるが、塩茹でという概念は西洋料理、中華料理にはない。
 だから日本料理は季節の旬とかその土地に結びついている。これはすき焼きにしてすらそうであろう。すき焼きは伝統的な意味での日本料理とは言えないだろうが、あれは冬の料理である。長ネギがなかったら、すき焼きは成り立たない。旬とか土地に、日本料理ほど敏感に結びついている料理はない。それを好むか好まないか別として、日本料理は素材そのものの味を引き出すことが料理哲学になっているようだ。
だからニューヨークで、西洋人に日本料理をご馳走するときは用心したものだ。日本料理の専門店へ行っても、「これが日本料理か」と思わせるようなものばかりであった。その理由は、日本料理が食材の旬とか、採れた場所とかに結びついているからであろう。それが、日本料理が「味の論理」にもとづいている、ということである。素材の味そのものを味わう。寿司はいまほど流行ってはいなかった。そのころからアメリカの若い女性は太ることを気にしていたが、彼女たちの間でライスを食べようなどということが言われだした。日本の女性が、みな痩せているからだそうだ。日本料理が脂を使わないことも、現今の日本料理流行の底流としてあると思う。

 アメリカには固有の料理はない。アメリカ料理は日本料理のように、「味の論理」によるものではなくて、強いて言えば「栄養の論理」、合理性の論理によるものだろう。Tボーン・ステーキと一般に呼ばれているカウボーイ料理があるが、ニューヨークへ行って疲れたときなど、それを食すると元気がでた。それは草鞋のように大きく、それと一緒にポテトとパンを食べる。あとはコーク。彼らは何にでも、トマト・ケチャップをジャブジャブかける。
 大体、ほうれん草はできたときそれを収穫し、冷凍して四角に凍らせてあり、それを食するときは、くたくたになるまでそれを温め、その上にバターを乗せてたべる。あれがほうれん草か。近頃は日本でも、冬でもトマトや茄子が出回るようになったが、トマトや茄子は夏の食べ物であり、夏になって、それを食するときの感動が忘れがたい種類の野菜である。缶詰にしてもそうだが、四角に冷凍したほうれん草などには、季節感覚は一切ない。生産地は原則として問題にならない。わたしがアメリカにいたころは、夏の夕方は巨大な牛肉のバーべキューが学生たちの間で流行っていたが、あれはタレをつけ(ないしは醤油をつけて)焼くだけで、料理とは言えないだろう。野生味、サラダの問題ではないのである。野菜は食べるが、胡瓜も茄子も成熟して巨大である。西瓜にいたっては、魚雷のように(長円筒で)大きい。
 日本料理は「味の論理」で、アメリカ料理は「栄養と合理性の論理」で、それぞれ閉鎖されていると思う。しかし本来、料理には奥さん料理にはない「一歩の隙」が必要なのではなかろうか。それがプロの料理と言えるだろう。ヴィラデストのホロホロ鳥の料理の皿に、それが盛ってあったように、である。

 そしてこれは、根本的に言えば宗教も同じだろうと思う。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とはイエスの言葉である(マタイ伝五章四五節)。ここでは善と悪との隙は無視されている。ここで「正しい」と訳されている原語は「ディカイオス」だが、ディカイオスが普通の正邪善悪の意味でないことは、よく知られていよう。宗教とは、普通の倫理規準からすれば、いわば隙だらけなのである。隙のない信仰というものはない。隙がない信仰とは、人間の合理的体系による宗教理解ということだ。合理性には本性、隙はない。隙があったら、それは合理性ではない。隙のないものは、人間の観念だ。ヴィラデストのホロホロ鳥の料理には、人為を超えた何かがあった気がした。プロの業とはそういうものだろう。料理とは本来、1+1=3というものだ。にが瓜のように、苦さが積極的おいしさを表現することもある。料理のおいしさは、合理論的納得をこえたものである。

 むかしわたしはジュネーヴの宗教改革公園に行ったことがある。中心にカルヴァンの像があった。しかし一番印象的であったのは、レマン湖の水の清澄さである。周知のように、カルヴァンを初めとする二代目の宗教改革者たちは、教会ではなくて神の主権を強調し、ジュネーヴでその原理による神政々治を実践しようとした。人々はそのあまりの厳しさ、隙のなさに、一度カルヴァンを、ジュネーヴから追放したりしている。レマン湖から流れ出ている水は、まるで透明なガラス細工のようであった。このような水を飲んでいては、カルヴァンのものの考え方に「隙」ができようはずがないことを、わたしは納得した。

 「隙」はあった方がいいのである。それが人間の観念以上の、「全体なるもの」のリアリティーを表現している。プロの料理は、その「全体なるもの」を暗示しているのである。

 

<< 説教目次へ戻る

 
inserted by FC2 system