コミュニケーションとは

小田垣雅也

 

 このところ、毎夜寝るとき、むかし書いた自分の本を読んでいます。『キリスト教の歴史』を読み終わり、いま、その続きである『現代のキリスト教』を読んでいるところです。自分の書いた本は、抵抗なしに――その分、緊張もありませんが――読めますので、眠る前に読むのに都合がよいのです。そしてつくづく思ったことは、そのころ考えていたことと、現在の問題が、根本的には同じだな、ということです。

 
 これは著作ではありませんが、青山の大学院の博士課程を修了したとき、研究報告として「実存的と実存主義的」という、だいぶ長い論文を書いたことがあります。まずそのことを話してみましょう。もともと実存という言葉は、現実存在の内側の二字をとったものであり、それは現実に、今このときを生きている自分の存在の真実ということです。それは「いま、そしてここ」に生きている自分の真実なのですから、主義には定着しない性格のものであります。これは実存にはかぎりませんが、主義に定着するものは現実存在をはなれた観念です。だから主義とか観念になったら、たとえそれが自分に関する主義や観念であっても、自分の現実存在、つまり実存はそこにはいません。だから実存 主義 という言い方には、実存に対する根本的な矛盾が含まれていると思います。自分についての自分を離れた、抽象的観念にならない真実こそが実存なのだからです。そのことの自覚が実存主義です。たとえば平和 主義 という場合、平和主義は平和に対する希求を内容にしたものであり、平和主義は観念的にも存在しますから、平和と平和主義は矛盾しません。また資本 主義 は、資本の効率を基本にした主義であって、資本主義と資本の効率とは矛盾したことではありません。これは何の主義であっても同じです。しかし実存 主義 は違います。実存が実存 主義 となって、現実に存在している実存の生そのものを離れ、一つの哲学的概念になったとき、それはその人の現実存在、つまり実存そのものを裏切っています。

 ブルトマンという新約聖書学者は、この微妙な相違を、実存的 (existenziell)(existential) と実存主義的( Existenzial ) (existentialist) として厳密に区別しました。たとえば新約聖書を読む場合、読者はそれを 実存的 に、自分に対する語りかけとして読むべきであって、 実存主義的 に、つまり実存についての観念を前提して、読むのはまちがいのもとだ、と言います。とくに神話の解釈にあたっては、そのことは厳密に自覚されていなければならないと言います。神は実存的真実であって、実存主義的、まして対象論理的真実ではないと言います。

 しかし問題は、実存は主義になり、言葉によって表現されなければ、つまり実存主義という一つの哲学的立場にならなければ、その立場を本に書いたり、人に伝えることができないということです。神も、たとえばキリスト教という宗教上の神にならないかぎり、人から人へ、歴史的に伝えることはできません。主義やその主義を支える観念はその意味で必要です。しかしその主義や観念には、それが観念であり主義であるというまさにその理由で、かならず嘘が含まれています。キルケゴールの悩みもそこにありました。いわゆる思想の嘘です。先にあげた平和主義や資本主義にしてもこのことは言えます。平和主義は平和そのものではないし、資本の効率は、資本主義そのものではありません。資本の効率なら、封建時代の君主たちもそれを求めたのでした。また、口では平和主義を唱えながら、侵略を繰り返す帝国主義者たちは、わたしたちの周りにも枚挙にいとまがないでしょう。それに対して実存は、本姓、主義にはならないものです。主義になった実存主義は、実存そのものとは別のものになります。

 この実存と実存主義の区別は、この研究論文を書いた時代には、ブルトマンの主張にもかかわらず、少なくともこの国の神学界では、まだはっきりした自覚にはもたらされていませんでした。だからこそ、わたしはこの論文を書いたのですが、わたしがこの問題に敏感であったのは、わたしの神経質な性格、よく言えば完全主義によっているでしょう。わたしの個人的問題は、この完全主義が、また一つの観念になっていることだといえるかもしれません。実存は実存主義とは区別されるべきなのです。この主義や思想のもつ嘘を最も敏感に拒否した文学者は、たぶん太宰治です。彼は志賀直哉を初めとする、行い済ました思想家や文学者を終生嫌悪しました。しかし人間は、言葉や思想、主義なしには生きられないし、言葉、思想、主義にならなければ、その内容も伝わりません。それにもかかわらず、それらの嘘を指摘しつづけたことが、太宰の破滅の原因であったとわたしは理解しています。また現代のキリスト教界の著述家を一人だけあげるとすれば、それはカール・バルトでしょう。たぶん世界最大の著作である『神学大全』を著わした一三世紀のトマス・アクィナスに対して、バルトは「現代のトマスだ」、といわれるくらいに、巨大な『教会教義学』を書きつづけました。毎日、朝から夜まで机に向かっている父親を見て、彼の息子が神学者になることを拒み、そのかわり植木屋になったことは有名です。しかしバルトは何をそんなに書きつづけたのでしょうか。いまの文脈で言えば、それは 実存的 信仰を、 実存主義的 言葉で、つまりバルトという人間の言葉で描こうとしたのです。それは不可能な企てです。

 

 この実存と実存主義の区別、実存的信仰にとって神は、実存主義といえども、一つの主義として、対象的に考えることはできないということを、フェミニスト神学を例にとって説明してみましょう。もちろんフェミニスト神学は、ポスト・モダーン(脱近代、脱主観―客観主義)属する神学でして、実存主義がアンチ・モダーン的(反近代、反主観―客観主義)性格をもっているという違いはありますが。パウロが男尊女卑の言辞を弄していることを、フェミニスト神学者たちは指摘します。たとえば「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られた」(コリントT、一一の七)とか「教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(エフェソ、五の二四)というような言葉です。このエフェソ書の言葉は最近まで、結婚式の式文で使われていました。したがってフェミニスト神学者たちは、当面、伝統的なキリスト教に対しては、著しく反キリスト教的です。それはフェミニスト神学者たちの著書が『父なる神を越えて』であったり(M.デイリー)、『別の天地』(S.コリンズ)であったりすることからも窺えるでしょう。ブルトマンやバルトは反キリスト教的ではありませんでした。

 しかし根本的にいえば、キリスト教が男性主義か女性主義かという議論は、神を一つの対象としているから起こる議論です。神を、いわばキリスト教 主義 の中で一つの観念として、対象としてとらえ、その対象としての神は男か女かという水準での議論です。そしていろいろな歴史的・社会的理由によって、神は父なる神であるとされました。わたしたちの文脈でいえば、これは男性 主義 でしょう。しかしわたしが理解する限り、本来のフェミニスト神学者たちは、その男性 主義 に対して、同じ水準で、対抗的に女性 主義 を主張しているわけではないと思います。たとえば、女性の社会的地位とか、同一労働に対しては同一賃銀が支払われるべきだというような、――それもありますが――女性主義を主張しているわけではありません。彼女たちの見解によると、パウロの言葉に見られるような伝統的なキリスト教、とくにそれに培われた近代思想は、バルトやブルトマンも含めて、デイリーの言葉によれば、「二元化―具象化―客観化症候群」 (dichotomizing-reifying-projecting syndrome) に陥っているというのです。フェミニスト神学者たちは、この症候群に反対しているのです。

 フェミニスト神学者たちが求めているものは、もっと神学的・哲学的なもの、ポスト・モダーン的なもので、それは聖書的「父なる神」を超えた、「全体なる」神を求めているのだと思われます。人間は相対的視野しか持たないから、その思考は対象を必ず「二元化―具象化―客観化」してとらえ、その意味で「全体性」を「部分化」し、「観念化」すると言います。かくしてそれは、男か女か、そのどちらが優位か、といった議論になります。それに対して「全体性」とは、人間が実存的にのみ(実存主義的にではない)、いま、そしてここでのみ、触知できるようなものでしょう。コリンズの言葉によれば、全体性とは男女を互いに隔てている二極構図と、それにもとづいている男女間の心理的・社会的二元論を克服する「相互性、相補性、平等性、混合性」のことです。

 デイリーはさらに率直に、「全体なる」神は、認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学者は「無の経験に直面する 実存的 ( 傍線筆者 ) 勇気」を必要とすると、東洋思想に通じるようなことを言っています。そしてその無としての神は名詞ではなくて動詞であると言います。神を名詞として、言い換えれば一つの対象として、理解することは、もともと「二元化―具象化―客観化症候群」での所見です。神を一つの名詞として名づけることは、神を定位されたものとして、神の対象化を招く。だから人間の認識にとって無としての、全体なる神は、名詞としてよりも、動詞であると表現するのがふさわしいと。しかもデイリーによると、この動詞は自動詞であって、自分の動詞的性格を限定するものとしての目的語を持たないようなものだと言っています。

 

 以上のように、人間そのものにとっての真実は、「主義」として対象化されたものの中にはなく、それは「全体性」、それゆえの特定不可能なものとしての動詞性の中にあると言えるでしょう。現代思想史的に言えば、これはアンチ・モダーンではなくてポスト・モダーンです。それは人間の言語化以前の現実です。それは実存的にのみ理解されるようなものです。神の名前が「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記三の一四)という奇妙な名前であるのも、このことに関係があります。神の名前はヤーウェですが(因みにいえば、エホバというのは、ヘブル語には子音の表示しかありませんで、それに母音を補って発音しますが、その母音の付け間違いから起こったもの)、それはへブル語の be 動詞の三人称未完了形です。モーセが神の名前を尋ねたとき、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えたというのも、奈須瑛子氏の解説によると、「ヘブライ語に be 動詞の現在形はないので、この形は現在も表し、あるいは過去も表わし、さらに未来へとむかう生き生きとした神のダイナミックな働きを表わす」とあります(同氏論文「ヤド・ヴァ・シェム」、富坂キリスト教センター編『現代世界における霊性と倫理』二〇〇五年、八四頁)。要するに神の存在は、特定可能な、主義としての対象ではなく、言語以前の、動詞的なもの、実存的にのみ邂逅するものだということでしょう。

 

 先日わたしは『コミュニケーションと宗教』という本を上梓しました。『宗教とコミュニケーション』ではありません。後者の場合、宗教が主体で、その宗教が他とどのようなコミュニケーションをとるか、ということ、いわゆる宗教主義のニュアンスになります。それに対して『コミュニケーションと宗教』の場合、宗教はもともと「全体性」にかかわり、自己は未完結で、したがってコミュニケーションを離れては宗教はありえず、その理由は、宗教が本性、言語化以前の全体性にかかわる、動詞的なもの、実存的なものだというニュアンスがあるからです。宗教とは本来人間の知性の肯否を超えたものでしょう。そこにこそ、人間のコミュミケーションはあるのだと思います。そのことを、その本の中で書いたのです。

 しかしそれにしても、実存にしてもポスト・モダーンにしても、神を主観―客観構図の対象として、主義としてとらえることへの反対は、自分の学問的遍歴で、終始一貫しているように思えます。そう考えると、わたしはある種の安堵のようなものを感ずるのです。 (06827)

 

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