命 を 得 る

小田垣雅也

 

 マタイによる福音書一六章二四〜二五節、およびそのマルコ、ルカの並行記事には、イエスに従いたいものは自分の命を捨てて従うべきであることが説かれている。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と(二五節)。マルコの並行記事では、「わたしのために」に加えて「福音のために」という文字も見える。しかしよく考えてみると、何かのために自分の命を捨てるということ、まして自分の命を本来的に得るために当面の命を捨てるということは、本当の意味で命を捨てるというとではないのではないかと思う。殉教者は、本当に自分の命を捨てたのだろうか。むしろ殉教の死は、自分の本来的命を、その殉教によって得るためのものであり、それは結局、自分の主張にほかならないのではなかろうか。わたしたちの年代の者は、こういう話になると、すぐに戦時中の特攻隊のことを思い出す。彼らは、少なくともその初期の純粋な動機の時には(後になると、特攻隊出願は半強制的になったらしいが)、敵艦に体当たりして自爆することが「悠久の大義に殉ずる」ことであり、それが自分を生かすことだと信じていた。その意味で、彼らが自分の命を捨てたのは、少なくとも主観的には、自分の悠久の命を得るためであったという面がある。現今のアラブによる度重なる自爆テロにしてももそうだ。そのような彼らの勘違いは、哀れで、恐ろしい。

今日の聖書のテキストはマタイ伝から選んだが、マタイ伝は一般にユダヤ教の影響が強いとされている。そしてユダヤ教の特徴の一つは、たとえば「目には目を、歯に歯を」と言われるように(マタイによる福音書五章三八節)、因果応報である。本当の命を得るために当面の命を捨てるという考えも、応報思想によっていよう。マルコ伝で「わたしのために命を捨てる」に加えて「福音のために」という言葉も付け加えられているのは、マルコではこのユダヤ教的応報思想が超えられているところがあるということかもしれない。「命を捨てる」ということの本義は、むしろ「本来の命を得るために現在の命を捨てる」というような応報思想、そういう意味での自分の命への「とらわれ」から離脱することではなかろうか。この自分の命へのとらわれからの離脱、自分の命への関心の放下が、「命を捨てる」ということではないかと思う。

 

このように言うのには、わたしには次のような経過があるのである。わたしの部屋は二階の西南を向いていて、窓外には影を作るような大木は一本もないので、夏は西日が当たって居られない。今年の夏の暑さはとくに格別であった。それで夏の間だけ、一階の東北向きの、普段は書庫に使っている部屋に引っ越すことにしている。それはいいのだが、窓とドアをのぞいて四面が天井まで本の壁になっている部屋に、昼間から冷房をつけて坐っていると、嫌が応でも意識は自分に集中することになる。外は三五、六度の暑熱で、散歩にも出られない。逃げ場がないという感じになる。これは一種の老人性鬱とか、「空の巣症候群」だと思うが(一ヶ月ほど前著書『一緒なのにひとり』を上梓して、わたしはいま、いくらか虚脱状態なのだ)、そのようなとき、わたしは自分が無意味で恐ろしい虚無の淵に臨んでいるようで、居たたまれなくなるのである。特に家人がいないで、家の中に自分ひとりのときはそうだ。つまり、自分の命に意識を集中し、自意識過剰になり、言い換えれば、自分の命を確認しようと意識している時は、かえって虚無の淵を覗きこんだような、ニヒリズムに陥るのである。命のごく普通の燃焼が止ってしまって、「命を失う」ように感ずるのである。「自分の命を救いたいと思う時はそれを失う」とイエスが言ったのは、こういう事態なのではなかろうか。自分を得ようとして、自分を見ているとき、自分は自閉症になり、ニヒリズムに陥るのである。

禅では作務とか、修道院では労働が重んじられている。また森田正馬博士の森田療法でも、作業療法が治療の重要なステップとして提唱されている。それはこのような「自分の命を得よう」とする自己凝視から離れる工夫ではないかと思われる。自分への関心から離れること、そういう意味で、「自分の命を失う」ことには、ある種の勇気がいる。自分自身のことを放念して、目前の作業に没頭する勇気である。もともと福音書はマタイも含めて、イエスの死後三〇年近くたって書かれた。だから「わたしについてきたい者は」とか「わたしのために命を失う者は」という言い方も、イエスが単純に「わたしのために」といった自我中心的感覚で言ったのではなくて、その「わたし」がすでに、福音書が書かれた時点では、「自分の命を捨てたものであること」が、この表現の裏には暗黙に前提されていよう。生きている現実の人間のために殉教するというような、応報思想的意味ではない。むしろ、「命を捨てた者」(イエス)のために「命を捨てる」という言い方は、生死そのものへのとらわれからの離脱をいうことを含意してはいないだろうか。

 

もともと生命力とは何か。それは少なくとも、自分の命を得ようとして得られるものではないだろう。自分の命を得ようとして、自分の命と正面から向き合っていることは、自意識過剰症、自閉症、その涯にニヒリズムになるくらいが関の山だ。わたしはこの夏、書庫に蟄居していて、つくづくそのことを考えた。これまでしばしば言ってきたように、人間とは「人」の「間」であり、人間は周囲の者、まわりの物に関心をもっていてこそ正常であり、人間としての活力を得ているのである。その意味で、自分が自分の命への関心を離れ、言い換えれば、自我主義という自分の命へのとらわれを捨てるとき、人間は人間としての活力を得る。「わたしのために命を失う者は、それを得る」のである。

 

人間としての自分に精密であり、緻密であることは、美徳である面はあるが、生命力という点から見れば、むしろ美徳ではないのではないかと思う。拙著『一緒なのにひとり』(二〇〇四年刊)の中のエッセイ「善光寺」を読んで、ある人が、自分の両親はそれぞれ善光寺型と密教型だと言った。「善光寺」の中でわたしは、善光寺は天台宗の大勧進と浄土宗の大本願がともに管理していることに表徴されているように、雑種的で、庶民的、何にでも興味をもち、何でもとりこむような宗教のようだと言った。それに対して密教は、千日回峰行をはじめとする厳しい荒行の世界であり、また加持祈祷のような、自分を中心に据え、その自分を鍛え上げるような宗教、わたしたちの目下の用語で言えば、「自分の命を救おう」と正面から努力する宗教である。そして生命力という点から見れば、「人の間」としての「人間」が生命力に満ちるのは、密教型ではなくて、むしろ善光寺型であろうと思う。もちろん密教のような、自分の命と正面から向き合うことも大事である。しかし密教には、自虐的修行の涯に、生前葬とか性的陶酔、人肉食のような自滅的事態もあらわれるのである。

 

老人は趣味を持つことが大事と言われている。つまり、自分の死が近くなって、老人はいやでも自分の命に向き合わざるをえなくなる。そのようなとき、趣味の植木なら植木、めだかならめだかに関心を集中させることは、自分自身に対する関心をひと時はなれ、いわば「自分の命を捨てる」ことだからであろう。それが、生の活力につながるのである。

夏は暑熱から逃げ場がなく、自分を見つめるときであると思う。それは孤独とニヒリズムの季節だ。その作業も人間にとっては大事だ。それに対して秋は、それまで自分に向いていた視線を外に向け、それによって自分が、「人間」としての個人として充実する時だと思う。実りの秋とは、そのような事態を指しているような気もするのである。(04920)

 

 

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