生 き る 意 味
わたしはほぼ毎日、早朝(雨が降っていないかぎり)、散歩で井の頭公園を通る。途中、池に面して数多くあるベンチで休んだり、近頃は缶コーヒーを飲むのが癖になって、それをゆっくり飲んだりしながら、一時間か一時間半ぐらいかけてぐるりと回り、家に帰り着く。 数日前のA新聞にK.W.という人の署名記事が載っていた。日本で自殺者が、十年連続で三万人を超えたことに関する論説である。K.W.という人は、その方面の立派な経歴の人らしいが、云うことがどうもはっきりしない。自殺してしまった人にはものは聞けないから、どうしても奥歯にものがはさまったような言い方になるからか。あるいは云いたいことがはっきりしないのは、自殺してしまった人にはものは聞けないから、ということがその理由であるのかもしれない。同氏には著書も何冊かあるようだし―――。それで話題としてはこの記事に依存しながら、自殺について、独立した原稿を書いておきたい。 大正時代や昭和のはじめ、自殺者や一家心中が一万数千人であった頃は、自殺の原因は「零落」「生活難」「貧乏」「病苦」「厭世」「自暴自棄」等々が、主なものであった。つまり、自殺の原因が「家」と結びついていた。家が没落することが、人生の破滅と同義語であったのである。これは長く続いた封建制度の影響であろう。家名は、封建時代には現代とは比較にならない必然性を持っていた。つまり昭和時代の初期までは「孤立」や自殺には、「家」という自殺の「場」ないし「理由づけ」があった。自殺するほどの「孤立」は、「家単位」のものであったのである。W.氏の署名記事の標題は「底知れない『孤立貧』」である。 やがて昭和時代になって、「家」にかわって、「将来に対する漠然とした不安」や「発作的衝動」という言葉が自殺の原因として語られるようになった。前者が芥川龍之介であり、後者が、たしか田山花袋であったと思う。つまり芥川の場合が典型であるように、自殺の原因ないし理由づけが、「家」から「個人」に移ったのである。わたしは中学一年の国語の時間に芥川の自殺について聞き知ったが、その話をされたときのK先生の口調をいまだに憶えている。そしてそのK先生が「将来に対する漠然とした不安と言うが、そんな理由で人は死ねないね。よほど個人的な理由があったのだろう」という意味のことを言った。芥川は、たぶん「うつ」だったのだと今にして思う。つまり、大正時代では「家」単位であった「孤立貧」や「所在の無さ」が、芥川では「個」単位になっているのである。孤独になっている。ごく最近、芥川の遺書が発見されたという新聞記事が、その遺書の写真つきで新聞に載っていた。芥川の筆跡をはじめて見たが、そぎ落とすべきものをそぎ落とした、孤独な筆跡であったと、見えなくもない。少なくとも芥川に対する全般的印象から、それほどへだたったものではないように思えた。夏目漱石の筆跡も見たことはないが、たぶん孤立した「個」の孤独を超えた、堂々たる筆跡であると思う。 それに対して、現代は携帯電話の社会である。これは個を超えたニヒリズムの時代だ。わたしは耳が遠い関係で、もともと電話というものを利用したことがない。携帯電話も持ったことがない。現代の携帯電話社会を考えると、つくづくわたしは時代に取り残されたと思うが、しかし「家」的、「個人」的、と進んできた「孤立貧」が、携帯電話社会ではさらにひどくなっているのではなかろうかと思う。聞くところによると、お互いに顔を知らないで、グループを組むことも可能だそうだ。そのようにして、携帯社会の人間は、本質的に「孤立」しているのである。現代は三Kの時代だ、と言われている。すなわち、携帯・孤独・すぐキレる時代なのだそうである。 最近は秋葉原の事件をはじめとして、連続殺人のニュースが多い。彼らは「誰でもいい。人を殺したい」と言う。そしてナイフで、見ず知らずの人の殺人を犯す。ピストルならまだ(感覚として)話は分かるが、ナイフとなると残虐さのみが目だつ。現代の戦争は、原子爆弾のボタンを押すだけだ、という話を聞いたことがあるが、ピストルとは殺人に機械が介在していて、その感覚に近いだろう。そして秋葉原の事件では、報道によれば、犯人がブログに何を書いても社会から相手にされず、無視されたと、本人は思い込んだという。言い換えれば、自分の孤独に耐えかねて、周囲の目を惹くために犯行に及んだのだという。これはどうも無差別殺人の犯人たちに共通した心情であるようだ。荒川沖の事件でも、八王子の事件でも、昨日報道されていた平塚の事件でもそうであるらしい。これらの事件は孤独の果ての、間接的自殺ではなかろうかと思う。荒川沖の事件でも、秋葉原の事件でも、犯人たちは「人を殺せば死刑になる」という意味のことを言っていた。それが流行なのかもしれないが。 しかし、これらの殺人の話は別として、よく考えてみると、現代は孤独さが厳しい時代ではないか。封建時代には「家」があった。そういう人間の居るべき「場」ないし「所在」があった。現代は「家」もなく「個」もなく、個の否定としてのニヒリズムもなくて、「所在無き」時代だと思う。「人殺し」のニュースはそのことを言っているのだし、連続した地震や異常気象も、そのことと無関係ではないだろう。異常気象は人間の「個人」主義の、自然を利用の対象としてのみ見る結果ではなかろうか。先日長野へ行った。そこでものすごい嵐に出会い、吹き千切られる木々を見ながら、わたしはそのことを考えていた。これは人間の「個人主義」に対する自然の反発ではないか、と考えたのである。 しかしわたしが言いたいことは、このニヒリズムも、それは一つの人生哲学であって、それが一つの人生哲学である以上、それは本当の意味での「所在無さ」ではないのではないかということだ。「人を殺したい。誰でもよかった」という殺人者たちの肩を持つわけではないが、彼らも、一つの人生哲学、自分の命に対するニヒリズムをもっているのである。その意味でそれは生きかたという「所在」をもっている。「所在無し」ではない。それが携帯社会という浮薄さであることが哀しいが、また人の命を奪うということに対する反省がないことが虚しいが、少なくともニヒリズムという、哲学公認の立場を持っている。『罪と罰』の中のラスコールリニコフの話や、『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンを思い出してみるのもいいだろう。彼らも人を殺した。イヴァンにいたっては自殺したのである。それらはそれぞれの人生論であり、その意味で彼らは「所在無さ」ではなくて「所在有り」という立場、ニヒリズムという理由づけの「場」をもっている。 本当の孤立、本当の「所在無さ」とは、そのような人生論的「所在」の場所をも失った、本当の虚空ではあるまいか。つまり、自殺の原因が、「家」を突きぬけ、「個」を突きぬけ、「個」の否定であるニヒリズムをも突き抜けたものになっているのではあるまいか。哲学と宗教の違いは、たぶんこの点にある。哲学はニヒリズムも含めて、「所在有り」の立場である。たとえそれが、自己否定のニヒリズムであっても、それは一つの立場であり人生論であって、「所在」である。「対象」的思考であると言ってもよい。「誰でもいいから、人を殺したい」という、粗野な短絡的思考も同じである。 しかしあらゆる対象への依存を超えたその「所在無し」の立場が、却って、自己そのものを生かすところがあるのではなかろうかと思う。「家」、「個人主義」、「ニヒリズム」を通過して、より頼むべき理念としての一切の「対象的思考」はここにはない。哲学が思考の対象に依存しているとしたら、宗教には、本当は、悟るべき「対象」はない。むしろ「対象」や「人生観」に縛られることなしに生きること、「家」「個」「個の否定としてのニヒリズム」を超えた、その意味での「所在無し」に生きることが、宗教というものではあるまいか、と思う。それが逆に、生きる意味を生かす。「家」「個」「ニヒリズム」から自由になった、日常生活の具体的意味を、だ。
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