ア ガ ペ ー と エ ロ ー ス 小田垣雅也
よく、神の人間に対する愛はアガペーであってエロースではない、ということが言われている。これはスウェーデンの学者アンダース・ニグレン(Anders Nygren)の書物以来(Eros und Agape,1930)有名になった区別で、エロースが対象の自分にとっての価値ゆえに相手を愛するのに対して、アガペーは対象の自分にとっての価値に関わりなく愛する、いわゆる無私の愛だということ、それがキリスト教の神の愛だとされている。人間には、神が人間を愛する価値はない。倉田百三の『愛と認識との出発』にも、そのようなことが書いてあった。わたしがアガペーとエロースの違いを知ったのは、倉田のこの本である。 しかしよく考えてみると、このアガペーとエロースの両者の関係は二重性的であって、エロースの否定が即アガペーの肯定ではなかろうし、アガペーの否定が即エロースの肯定ではないということであろう。アガペーとエロースの関係は同一平面上の程度の問題、つまり、アガペーの世界に対して、エロースがどの程度侵入しているかの問題(またはその逆)ではないだろう。わたしたちは毎日を暮らしていて、アガペーかエロースかのどちらかで、人に対する関係を判断しがちである。自分の相手に対する関わりが、アガペーだけだと楽観し、エロースだけだと悲観する傾向がありはしないか。その両者を、両者の押し合いの問題として扱っている傾向があるのではなかろうか。しかし実情は、否定と肯定は二重性的であって、アガペーかエロースかのどちらかにクリアにカットされているわけではないのではないか。わたしたちの現実は、両者のダブった、二重性的なものである。 このことを悲観主義的に表現すれば、個人同士がその二重性を超えて、全面的に分かり合えることはないということでもある。それが個ということだ。いさかいの種は、大概の場合、というよりも必ず、個人同士が分かり合える、少なくとも説得できる、という思い違いからくるのである。二重性の現実からすれば、それは思い違いだ。なにもかも意気投合した恋人同士は、むかしから言われているように、大きな勘違いを犯しているのである。それは遠からず分かるだろう。もともと感性というものは、一致できるものではない。もし一致できたと思っても、それは偶然である。自分の感性は自分の感性であって、相手の感性ではないし、それは相手の感性にとっても同様である。相手の感性は相手の感性であって、自分の感性ではない。そうでなければ、それは感性ではなくなるのである。だから相手と自分の感性の一致は、もしそれがあったとしても、偶然の一致なのである。 この、人間の感性は個人的なものであり、その意味で人間は根本的に孤独だということを了解することが、悟りとか信の本性、少なくとも与件的な意味での本性ではないかと思う。悟りや信は、「自分の」悟りや信であって、もし信や悟りが一致する場合、そのような一致は、信や悟りが、単なる意見の一致になっていることである。だから信や悟りは、君も僕も同じリアリティーで生きているという意味での分かり合えることへの、絶望に裏打ちされている。それが「文字は殺し、霊は生かす」とか、「不立文字、教外別伝」の、消極的意味であろうかと思われる。 わたしも毎日、基本的に孤独である。わたしの場合、耳が遠くて、コミュニケーションがうまくとれないということもあるだろう。耳が遠い人がいたら、途中で話しかけるのをやめずに、その人が聞き取れるまで、話しかけるのがよい。その人の方はコミュニケーションが成立するまで、何回も、聞き返す。それが友情の保ち方だと思うことが時々ある。まあ、これは無理な要求だろうし、わたしはすぐ聞こえなくとも聞こえたふりをして妥協してしまうし、わたしよりも聾の度合いが強くて全く聞こえない人もいるわけで、聾者一般には通用しないだろうが。 わたしがよく散歩で通りかかる小公園に、毎日、老人たちがあつまって将棋を指している。二組ぐらいある。いわゆる縁台将棋である。昨日は雨がポツポツ降ってきたので、さすがに集まっていなかったが、それとなく様子を見ていると、みな仲がよいようだ。そしてわたしは耳が普通であっても、あの人たちの仲間に入れるだろうか、と思うことがある。わたしは人間嫌いなところ、人々を軽蔑しているところがあるのである。庶民性は嫌いだ。少なくとも、隣人を一〇〇パーセント信用したことはない。どんなに親切にされても、それが何かの水準で打算にもとづいたものではないか、とすぐ思ってしまう。病院の医師や看護師の態度に対してもそうである。だから打算に基づかない好意に出会うと、簡単に感動するくせがある。自分が本質的に親切ではなく、本性、人を軽蔑しているところがあるからであろう。 以上書いたことは、すでに断ったように、ものごとを悲観的に見た場合で、楽観的に見れば、それにもかかわらず、隣人とは二重性的に、その人を軽蔑したまま、分かり合っていることでもある。不信即信、迷い即悟りである。隣人は分からないということを了承していながら、そのことが分かるところがある。孫子の兵法によれば、相手と死力をつくし、互角に組み合っているとき、主観的には、自分が八〇パーセント押され気味だと思うのだそうである。逆に八〇パーセント押し気味だと思う場合は、実情は、全く勝っているのだそうである。わたしが自分を、人間は打算だけに基づいた、エロース的人間であって、わたしは隣人と仲良くできない、隣人は常に軽蔑していると思っても、それは孫子の兵法によれば、そのエロースはアガペーと互角である、ということであるかもしれぬ。二重性とはそういうことだろう。 人間の自由とは、本来そういうものだと思う。人間が分かり合えるのはアガペーと表裏になったエロースなのである。人間は隣人に対して、利用するか、愛するかのどちらかだ。そしてある人にアガペーで対するか、またはエロースで対するかは、時と場合における偶然である。しかしこの文章ではもう一歩進めて、偶然は必然だ、ということを言っておきたい。
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