理 と 事

小田垣雅也

 

 先月は「結ばれていたもの」という説教をした。そして「宗教」、レリジョンとは、レ(再び)とリジョン(結び合わせる)の合成語であり、それは「神との関わりを再び結ぶ」ということを意味していようという、ある人の説を紹介した。そしてわたしの説教のポイントは、神との「再結合」が「完結して」しまっては、それは「再」ではなくなるから、「再」が「再」でありうるためには、「再」は完結することなく、再び繰り返されていなければならないだろう、ということであった。宗教的真理とは完結した一つの状態ではなく、常に未完結な、言い換えれば、人間がその中に立っているような、主体的なものではあるまいかと、わたしは思う。

 わたしは毎回、根本的には同じことを話しているが、先々月の「美的宗教」という説教も、基本的には同じことを言っている。その説教では、第一人称の知である自分の感動と、それを描写する第三人称の情景の、両者の「橋渡し」の中に、詩の「世界」はあるのだろうということを、寺山修司の詩などを引用しながら説明したのであった。「わたしは感動した」と言うだけの第一人称の知であったら、それは私的感傷であって詩ではないし、逆にその詩を、資料的ないし文法的に、第三人称の文章として解釈してみても、それは詩を理解したことにはならない。詩を客観的・科学的表現として確定的に理解することはできないのである。これは小説でも同じで、それがそもそも文芸という芸術であろう。「根本的には同じ」ということの意味は、「再結合」や詩には、完結した、客観的知識ではなくて、「事柄そのものに即する」知、言い換えれば「事」としての知が求められているということだ。対象論理的・科学的知、「理」としての知識ではないのである。その水準で、この両者は同じことを言っているのである。

 

 「うつ」の話をしておきたい。わたしはほんの子供のころから、当時の言葉で言えば「神経質」な子供で、つぎからつぎへと、悩みをもっていた。臨海学校では不眠症になやんで就寝時間がくることを恐れ、電車に乗れば女学生のことが気になって赤面恐怖症になった。その他、子供のころからの頻尿恐怖とか、いろいろな悩みである。それらは、考えてみれば、思春期の少年にはあって当然の悩みだが、そのことにとらわれることによって、それらの恐怖はますます拡大されてしまうというのがわたしの性格であった。普通の人は、それらの恐怖を解決せずに、または解決しようとしたりせずに、それをそのままにして、健全な生活を、適当に送っている。わたしが毎月通っている精神科の医師も、「その性格は貴方の個性で、それを避けたり、逃げ回ったりせずに、生かすことが、あなたの仕事でしょう」とわたしに言った。実際、わたしの著作なるものは、わたしのこの性格と切り離せない。わたしの妻の言い方によれば、「その悩みが深刻でないとは言わないが、あなたは次から次へと悩みを持ち、現在の悩みに悩むようになれば、前にあれほど悩んだ悩みはなくなっている」そうなのである。その通りだと思う。現在苦しんでいる「うつ」に悩む前は、わたしは不整脈恐怖に悩んでいた。そのために医者へも何回も行った。そして気が付いたのだが、「うつ」が深刻な苦悩の対象になると、不整脈恐怖は、少なくとも気にならなくなっていたのである。

 神経症的状態からうつ状態へと移行する「おっくうで、体がだるく、すぐ横になりたくなる」というパターンは、初老期うつに「しばしば見られる現象である」とある本に書いてあった(北西、中村編『森田療法で読むうつ――その理解と治し方』白揚社、二〇〇五年、一八四頁)。また、こうもある。「(このような)うつ状態が続いたらぼけるのではないかとか、寝たきりになるのではないか、などという訴えが、初老期うつ病では頻繁にでてくる。同じ理由で、抗うつ剤が効かない人も多い」(一八四頁以下)。わたしの年令は初老期などではないが(当年七十六歳)、今回のうつ病がひどくなったキッカケには、こういうことがあると思っている。

 

 ある朝、朝食の時、わたしはリンゴを剥いて食べた。しばらくたって、その朝食に使ったお盆の上にそのままになっていた食べがらを見たとき、リンゴの皮がなぜそこにあるのか、わたしにはすぐには分からなかったのである。普通ならそのリンゴを剥いて食べた情景をすぐ思い出すはずなのに、それがなぜそこにあるのか分からない(わたしは目が色盲であるせいもあるであろうが)。つまり、リンゴを剥いて食べたという意識が、わたしから完全に脱落していたのである。朝食にパンを食べたことを忘れていたこともある。わたしは「これがボケのはじまりか」と思い、自分のありかたに対する気味悪さと恐怖を感じた。そして「自分がボケはじめたら、三〇年以上細々と続けてきたこのみずき教会も、終わりだな」と、深刻に考えた。

 そう思ってふりかえってみると、ボケの兆候はいろいろある。散歩していての「ふらつき感」は年令に応じて仕方がないとして(そうでなければ、老人がよく転ぶことや、杖をつくことはないはずだから)、日常、家の中で履いているスリッパが、意味のない廊下の真中で脱ぎすててあり、その理由が思い出せなかったり、この間は夕食の時、サラダにかける「ドレッシング」という名前が出てこず、「サラダにかける水はなんていったっけ」と娘に聞いたりした。それらのことがボディ・ブローのように利いてきて、今回の「うつ」の原因になっているのだろうと、わたしは思う。

 それに対して妻の反応はこうである。「たとえ万一、それがボケの前兆であり、事態は深刻であったとしても、それに悩んでうつになっても、それがなおるわけではない。うつの症状が苦しくて深刻であることは否定しないが、それを事実として受け入れるほかはないのではないか」と。それが「事」における生活である。そして彼女は、金魚や猫の世話とか、縫い物・あみものとか、庭木の手入れとか、家計簿の整理とか、その他もろもろの手仕事を、絶えずやっている。それを見ていて、わたしは、これは禅でいう作務、森田療法の作業療法、修道院の労働と同じだなと思った。人間は人々や自然との関係の網の目の中で生きている。それならば、周囲のもろもろの事柄との中で、それらに関わりながら生きることが健全なのである。それは自分に対する過度の意識から「離脱する」ことなのである。一人で「うつ」などに悩んでいるのが健全なのではない。「うつ」などの退嬰的自意識を克服しようというのが宗教の目的であると言ってよいが、わたしが目的としているところから、つまり普通の人間から、妻は出発しているようなところがある。

 

 そのことに関して、森田正馬博士は自然に帰れ、と言う(森田正馬『神経質ノ本態及ビ療法』森田正馬全集、第一巻、白揚社、一九七四年)。自然とは、人生の実際の事実であり、そこで「あるがまま」に生きるということである。わたしの「うつ」に関して言えば、その恐ろしさには恐れ、喜びには喜び(喜びなど、わたしの年令になると、あまりないが)、固着には固着していればよい、と言う。森田療法の効果そのものに対する疑いすら、そのままでよい。釈迦が大悟したのも、自分を含めて「諸行無常、生者必滅」を覚悟して、そのことを認めたとき、初めて安心立命をえたのだ、と。「うつ」の苦しみとか、わたしがボケはじめているのではないかという恐怖は、苦しんだり恐怖したりしていればよいのである。それが自然である。それを「理」で、つまり自分の意志や工夫で、取り除こうとしてはだめなのだ。その場合、その苦しみや恐怖の対象は、その意志や工夫の対象として、ますます拡大される。その意志や工夫を忘れてしまうこと、それが「あるがまま」の自然の受容ということだ。

 「うつ」や強迫観念の治癒とは、そのうつ症状や観念への固着をとり除くことではない。それは決してできない。その観念を「あるがまま」に受け入れること。だからそのうつ状態や観念からの離脱とそれへの固着は、二重性的なのである。「煩悶即解脱」である。森田療法は、近代自我のような、独立した主体としての人間観に反対する。そもそも「うつ」は、近代自我が研ぎ澄まされ、それがわたしのように高齢になって死の影が近づくと、それがますます鋭敏になることが元凶だろう。「心は万鏡にしたがって転ず。転ずるところ、実によく幽なり。流れに従って性を認得すれば、無喜また無憂なり」と森田は言う。人間の心は近代自我のように独立し、完結したものではなく、周囲の事情にしたがって、常に移り変わる、と森田は考える。そして「そのときには喜びはそのまま喜びであり、憂いはそのまま憂いである。ことさらに憂いを憂える必要もなければ、喜びを憂える必要もないのである」という。

 

 ヨハネによる福音書三章八節によると、イエスは次のように言っている。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのか知らない。霊から生まれた者も、皆その通りである。」これは無責任な生活のすすめなどではない。人間の心は、どちらか一方のクリアな状態になることはない。クリアな状態があるとしたら、その反対の状態もあることになる。その二重性の自然さが大事ということだろう。さきにあげた『森田療法で読むうつ―その理解と治し方』によると、「うつ」に罹りやすい人は、物事をall or nothing的思考で割り切りやすいという。そして物事は一〇〇パーセントではなく六〇パーセントでよいのだ、と書いてある。わたしの「うつ」も、それが治るか、治らないか、で割り切らない方がよいようだ。

 

 この説教で話したことは、それを言葉にしたとき、それは「理」になっている。「事」が大事であることを「理」で説明しているのである。その「理」と「事」の質的ギャップを埋めることが、たぶん信仰というものだと思う。そのときは「うつ」からも自由になっているだろう。(06626)

 

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