野 の 花、 空 の 鳥

イ タ リ ア 紀 行 U

小田垣雅也

 

 「マタイによる福音書」六章二五節から三四節までは、恐らく、最も人々に知られた聖書の箇所であろう。そこでは野の花の方がソロモンの王衣よりも美しく、空の鳥は種を蒔いたり、刈り入れをしたりすることがないのに、天の父はそれらを養っているとイエスによって語られている。そして三四節では「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とある。いわゆる天然自然な生が勧められているのである。

しかし同時にまたこの聖書の箇所は、人間の宗教性に最も守られていない勧めであるとも言える。ローマのサン・ピエトロ寺院をはじめ、イタリア各地には数々の大寺院があるが、その絢爛豪華さは、野の花や空の鳥のような天然自然な生とは最も遠く隔たっている。しかしそれらの寺院文化がなければ、キリスト教は、少なくとも現在の形では、われわれにまで伝わってこなかったことも事実であろう。以前、ギリシア正教の宗教用品の展覧会があって、そこに展示されていた祭壇用聖書などは、表紙がもうこれ以上飾り様が無いと思われるほど金彫・銀彫が施されており、それはイエスの「野の花・空の鳥」の言葉とは全く逆で、宗教に関して何か根本的な勘違いがなさせた業ではないかと思わせるものであった。わたしはそこに、神に近づこうとあせる人間の愚かさのみを感じたのである。

 

イタリア旅行後一ヶ月近くなる。そして情けないことだが、帰国後ずっと不眠症に悩まされている。それはわたしだけではなくて、一緒に行った弟も同じであるという。大体わたしたちの父親は、当時でいう神経質で、しばしば夜眠れないで悩んでいた。わたしたち兄弟に、その性格が遺伝したのだと思う。わたしたちの場合は、心の気づかないどこかで、イタリア・ショックがボディー・ブロウのような効果を発揮して、眠り妨げているのであろう。眠ろう眠ろうとすると、かえって目がさえて眠れない。医者にもらった睡眠薬も、その効果が押しもどされて入眠できない。しまいには、今夜も眠れないのではないかと思うと、朝のうちから心配で、夜になるのが怖いというありさまであった。これは「一日の苦労は、その日だけで十分である」という天然自然な生とは全く逆の心理現象である。一日中寝てばかりいる家の猫が、わたしは羨ましかった。これはやはり、イタリア旅行中に見聞したいろいろなものが、「人間とは誰か」という思いを、無意識のうちにわたしに強いているのであろう。

中世には、不眠症に悩む自我などは自覚されていなかったのではないかと思う。これは、個人の自我を圧殺したのが中世の暗黒時代だというのではなくて、そのような自我は初めから無かったのではないか。今回のイタリア旅行で数々の大聖堂を見たが、それらはどれも築造に何世紀もかかっている。ミラノの大聖堂などは五〇〇年かかっているそうである。五〇〇年というと五世紀である。これは自我の尺度に合うタイム・スパンではない。近代の芸術は、誰が何を創造したかという確認が芸術的感動の前提になっている。しかしその確認をするにしては、五世紀という時間は長すぎる。大聖堂の何処を誰が、何時作ったかというような自覚はもともと中世にはなく、当時の職人たちは営々としてそれを作り、それがグランド・デザインにまとまって大聖堂になったのではなかろうか。そういう、自我や近代芸術を超えた迫力が、ミラノ、ピサ、ヴェネチアなどの大聖堂にはあった。それに較べれば、ミケランジェロの設計にかかるローマのサン・ピエトロ寺院などは、築造するのに一二〇年しかかかっていない。

だからフィレンツェのウッフィツィ美術館を中心にしたルネッサンス芸術群は強烈であった。そこには新しく目覚めた自我が鮮烈に存在し始めていた。一つ一つの絵の優劣はわたしには分からないが、その新しく目覚めた自我の強さに、わたしは圧倒されるような気がした。中世の無―自我からの、自我の再生である。もちろんこのことは「ルネッサンス」(再生)として肯定的に受け取られている。しかし今回、わたしはその再生した自我の奥に、自我の本性的孤独さも感じた気がしたのである。個は個だけになり、周囲との関係を離れた自我になると、自我は自分の位置を見失って「家郷喪失」の状態になり、自我の意味そのものを見失うことになるのではないか。ボッティツチェリの『ヴィーナスの誕生』を観ながら、わたしはそのことを考えた。ヴィーナスが貝殻の中に立ち上がり、左側には男女の風神が息を吹きかけてヴィーナスを岸に吹き寄せている。これは古代ギリシアの神話から採られた構図であろうが、しかし貝に乗って沖から岸に吹き寄せられるヴィーナスとは、ヴィーナスのあり方として、あまりにも孤独ではないか。ヴィーナスとはもっと華やいだものではないのか。そういう目で見ると、背景の海も空も、その色調からして寂しげである。絵全体に孤独の翳がある。この絵の奥に、わたしはルネッサンス人、近代人の孤独を見たような気がした。

この近代人の孤独さは、ルネッサンスと同時代の宗教改革では、もっと明瞭である。カルヴァンは「二重予定説」で有名である。カルヴァンによると、人間が救われるか地獄に墜ちるかは、神によって予定されている。それが神の主権ということである。普通、この神の予定は、禁断の木の実を食べたアダムの堕罪後の人間の運命に関することだが、その場合は、アダムの堕罪を神が知らなかったことになり、神の全知、全能に矛盾することになる。その矛盾を救うために、カルヴァンによると、アダムの堕罪もすでに神によって予定されていたのだという。これが二重予定説である。そしてマックス・ヴェーバーの有名な解釈によると(M・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫)、この二重予定の窮境の中で、人々はいわば宝を天に積んで救いの確信を得るために、自分の職業に精を出し、近代では勤勉そのものが美徳となったという。そしてそれが資本主義の精神になり、それによって、近代資本主義社会が成立した、と。

しかしこの解釈には矛盾がある。二重予定説によって人間の運命が、神の絶対的主権によって二重に決められているのならば、人間がいかに努力しても、宝を天に積むことはできないはずである。努力や勤勉は、自分の救いにとっては無駄なはずだ。言い換えれば、二重予定説によって抉り出されている事情は、人間はいまや、勤勉にも、教会・聖礼典にも、キリストにさえも頼れずに、自分の運命を二重に決められているということである。二重予定説が指示していることは、自分の運命に関して、自分が手も足もでないという孤独さである。宝を天に積む余地を近代人に認めているかぎり、ヴェーバーはまだこの近代人の孤独について、考えが甘いと言わなければならないだろう。実際ヴェーバーも、カルヴァンの二重予定説が人々に与えたものは「個々人のかって見ない内面的孤立化であった」と言っている(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、下巻、二六頁)。ボッティチェリにしろカルヴァンにしろ、この孤独さが、近代自我が本性的に含意しているものであろう。近代は孤独な時代だ。むしろ人間の孤独さを初めて知った時代である。近代の美徳である自由競争とは、孤独さの別名である。

 

現代科学はさまざまな矛盾を含んでいると言われている。その根本的な理由は、近代人が家郷を喪失し、人間であることの意味を見失い、科学は本質的に、「何のために?」という問に答えられずにいるからだろう。もちろん、近代は偉大な時代であった。近代科学は巨大な成果を挙げた。わたしなども、半世紀前、近代科学の成果であるストレプトマイシンが発明されなければ、とうに死んでいたはずだ。近代医学によって命を救われたのである。わたしは現在、三ヶ月毎に膀胱鏡の検査(癌)を受けているが、膀胱鏡すら、その進歩・改善は近年著しいのである。しかし最近の先端医療の進展ぶりを見ていると、それが人間に幸いをもたらすのか、人間論的矛盾を引きだしているのか、わたしには分からない。そして「死ぬべき時節には、死ぬるがよく候」と言った良寛(一休であったか)の言葉を思い出す。

だから中世の無―自我の世界に戻るべきだ、とはわたしは思わない。それは不可能だ。しかし現代科学や現代社会のありようを通過した上で、天然自然な生を取り戻すべきだろう。そのことがないと、科学は迷走し、人間社会は混乱する。それこそが根本的に大事ではないのか。冒頭のイエスの言葉、野の草や空の鳥の例えが鮮烈な響きをもっているのは、わたしたち現代人が、自我同士の確執に疲れ、自我の孤独さに脅かされているからだろう。自分の年令のせいで、わたしは近年つくづくそのことを痛感している。不眠症にしても、入眠するということは、心理的には自我の解消のようなところがある。眠ろう眠ろうと努力し、その努力している自我にいつまでも集中していると、わたしたちは決して眠れない。しかしその自分への意識の集中を解消すると眠れる。自我への意識の集中を解消してしまった方が、かえって自我として健全であるところがあるのだ。自我への関心の集中を解消することが、かえって自我を生かす。わが『眠られぬ夜のために』(ヒルティー)の弁である。(04714)

 

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