初 め に 言 が あ っ た
イ タ リ ア 紀 行

小田垣雅也

 

「初めに言があった」(ヨハネによる福音書、冒頭)という言い方は誰でも知っていよう。しかし「初め」(アルケー)とは、少し考えてみると、それほど自明なことではない。年の初めとか、小説の初めというように、初めは元来、終わりと対になったものである。しかしその初めは、前段のものの終わりに隣接しており、物事の絶対的な初め、ではない。道路の初めは、道路ではない土地の終わりに隣接している。そのような「初め」は本当の、「初めの初め」ではない。だから本当の初め、終わりと対になったような初めではない初めは、初めと終わりというような分別知を超えたものではあるまいか。

また「言」(ロゴス)と言われているものも、聖書では「言葉」ではなくて「言」という特別な言葉が使ってあり、その訳語の当否は別にして(わたしはこの訳語に、どちらかと言うと反対だが)、それは天地の理法のようなものと解してもそれほど不適ではない。だから「初めに言があった」という表現は、「太初に天地の理法があった」でも、それほど不適当ではない。

それから、一章一節から五節までのヨハネ福音書の導入部には、十字架にかかったキリストによって、天地の創造主たる唯一なる神が啓示されたという見解も示されていない。この導入部は、普通言われるユダヤ・キリスト教的な唯一神教らしくないのである。もともとキリスト教やイスラム教の唯一神教とは、ペルシアやギリシアの多神教に対抗したものだろう。つまり、この「ヨハネによる福音書」の冒頭の文は、キリストの十字架によって啓示された唯一神教たるキリスト教の神が、天地の初めにすべての物事を創造したというような、単純な図式ではないらしいのである。今回わたしはヴァチカンを三五年振りに再訪して、そのことの意味を考えた。

 

三五年前の旅行は旅行社の企画旅行ではなく、アメリカからヨーロッパ廻りで帰国した個人的な旅行だったので、いろいろ手違いがあり、ヴァチカン美術館とシスティーナ礼拝堂が週末には閉まることを知らず、参観できなかった。したがってミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の天井画を観ることができないで、涙を呑んだのであった。ミケランジェロの天井画は、注意している人は知っているだろうが、礼拝堂の左右の壁に沿った天井に、シビュラの五人の女預言者たちと、旧約聖書の五人の預言者たちが交互に描かれている。シビュラの女預言者というのは、古代ギリシア・ローマ世界のクマエという町に住んでいた女預言者たちで、その神託集が、ローマの詩人ウェルギリウスによって引用されている。それによると、このシビュラの神託よる預言は、キリストの降誕と、新しい世界の始まりのことだというのである。たとえば次のような文である。「汝の偉大な誉れをとりたまえ、時は間近かに迫る故に/神々の愛でし子よ、ジュピターの裔よ/天空の下のこの世の力が、よろめくのを見よ/大地が、海原が、大空の深みが/それらすべてが、見よ、来たるべき世の喜びを捉えているさまを・・・」。こんなのもある。「汝の揺りかごでさえ、汝をあやそうと花を咲かせることになろう/蛇は死ぬことになる。」これは預言者イザヤがキリストの来臨を預言した「苦難の僕」とそっくりである。だから天井画には、シビュラの女預言者と預言者イザヤが特別に大きく、並んで描かれている。わたしはその実物が見たかったのである。

そしてこのことは、少なくともミケランジェロの認識によれば、シビュラが預言している神々の子はキリストのことなのであり、「神託者シビュラと預言者イザヤは、ともにキリストの来臨・再臨を預言した証人の位置を占めると考える伝統に、ミケランジェロが実質的に同意していたことを示している」とされている。アウグスティーヌスも、ウェギリウスが語っているの神々の子とはキリストについてのことだと言っている(J・ペリカン、小田垣訳『イエス像の二千年』講談社学学術文庫、一九九八年、八〇、八四頁)。

つまり、ミケランジェロが、この天井画で表現していることは、キリストは単なるユダヤ教的一神教の伝統を超えたものだ、ということであろうと思って間違いないであろう。キリストの来臨は、クマエのシビュラ預言者によってすら預言されていた。言い換えれば、キリストは唯一神教、多神教の相克を超えたものとして、ミケランジェロによって理解されていた。それが旧約聖書の五人の預言者とシビュラの五人の女預言者が交互に描かれていることの、少なくともミケランジェロの認識であると。もっとも現代では、預言者イザヤの中で語られている「苦難の僕」がキリストの預言であるとは考えられていないし、シビュラの女預言者にしてもそうである。しかしキリストによる新しい世界の開始が、単にギリシア・ローマ世界の多神教に対抗した一神教を超えた次元のものであることを、ミケランジェロの天才は感じ取っていた、とは言えるであろう。それは「初めの初め」的、アルケー的出来事であったと予感されていたのではないか。

 

イタリアには、各地に大聖堂がある。ローマのヴァチカン宮殿は、ヴァティカヌス丘で処刑されたペテロの墓の上に建てられたとされ、それが、ローマ教皇が使徒的伝承を継ぐものであるとされる有力な根拠になっている。しかしもともとの教会組織としては、ローマはコンスタンティノポリス、アンティオキア、アレクサンドリアと並んで、一つの司教座であったに過ぎない。それが四七六年の西ローマ帝国の滅亡後、ゲルマン民族のフランク王国が登場し、その結果、ローマの司教座が西方における唯一の統一勢力になる。そしてフランク王国とのさまざまな政治的取引の末、教皇権を確立したのが、最初のローマ教皇グレゴリウス一世(五四〇―六〇四)である。だからローマ教会の起源は六世紀である。サン・ピエトロ寺院の大聖堂そのものは、もともとあった旧聖堂の後に、現在の新聖堂を建てたものだが、それを設計したのはミケランジェロ(一四七五―一五六四)である。だから現存のキリスト教の大聖堂でもサン・ピエトロ寺院よりも古いものは数多くある。

斜塔をはじめとするピサの大聖堂は一一世紀から一三世紀にかけて築造された。斜塔の建設は一一七三年の着工である。ピサやミラノ、ヴェネチアなどには、わたしは今回初めて行った。しかしわたしがピサで強い印象をうけたのは、斜塔の不思議ではなくて(それはもちろん聞き知っていたので)人口わずか九二〇〇〇人と言われる小邑にすぎない現在のピサが、これらの大聖堂群を維持しているエネルギーは何なのかということである。そもそも宗教とは何なのか。昔は、ピサは地中海に面した開港場で、アドリア海に面した北のヴェネチアに比すべき繁栄を誇っていたそうだが、現在のピサは、路傍に草の生えた村落である。緑陰も、まともな店舗も見回したかぎりではないようだ。群がっているのは観光客ばかり。こんなところに住んでいたらどんな気がするかねと、わたしは家々の窓を見ながら思った。そしてそこに、家々を圧して大聖堂や洗礼堂、斜塔などが建っている。宗教的必然とは何なのか、とわたしは考えざるをえなかった。それはいくらか、人間としての常識を超えているように見える。

基本的に同じ驚きはヴェネチアのサン・マルコ寺院でも感じた。サン・マルコ寺院は、寺院に面した広場を囲むドゥカーレ宮殿とともに、九世紀の初めに、マルコの遺骨を祀るために、巨万の富を注いで建設されたものだそうだ。天井のモザイク画は黄金に輝いている。建物の外形は(写真では良く見かけるが)、ロマネスク、ビザンチン、ゴシックの様式が取り入れられ、金箔もところどころ施されている壮大華麗なものだ。しかしヴェネチアの街を一巡しながら、妻が「子供が何処にもいないわね」と言ったのである。案外、店の裏には中庭などがあって、そこに子供がスヤスヤと眠っていたりするのかもしれないが、この妻の象徴的言葉も、サン・マルコ寺院の体現する宗教なるものが、ある種の人間離れした営為であるような気分にわたしをさせた。ペテロの墓や、マルコの遺骨は、その真偽は別として、それがあったとしても、とくに宗教的だというものでもないだろう。

三五年前に、わたしが最初にサン・ピエトロ寺院に足を踏み入れたときに感じた違和感を、わたしはまざまざと思い出した。その時わたしは「この豪壮華麗な神殿に連れてきて、一番そぐわないのはナザレのイエスだろうな」と思ったのである。これは今でもそおう思っている。それはヴェネチアやピサの大聖堂でも同じである。当時私は「イエスとキリスト」の関係について、アメリカで論文を仕上げたばかりであり、イエスの問題について、敏感になっていたことがあったかもしれない。しかしこのキリストの十字架中心主義の大聖堂など、イエスの実際にくらべれば、人間の巨大な勘違いではないか、と思った。わたしはどのカトリック教会にも掲げられている十字架につけられたイエス像、手足から血を流しているイエス像を見て、イエスをありがたいと思ったり、宗教的になったりしたことはない。むしろ人間の本性的残虐性だけが目に付く。これは東洋と西洋の感性の重大な相違であろう。またはその相違の原因ではあるまいか。ミラノのプレラ美術館で、斬首されたヨハネの首の絵が展示してあり、その前を、幼稚園の園児とおぼしき年代の子供たちが列をなして歩いていくのに出会って、わたしは身が縮む思いがした。

 

しかしイエスの十字架像を中心にしたこの絢爛華麗な大聖堂のありようは、単に巨大な勘違いというだけで済ますことができるものなのだろうか。わたしはそのことを考えたのである。わたしはこの国では神学者で通っており、その意味で西洋思想の専門家だと言ってよいかと思われるが、東洋の涯の一神学者の知識や感性が、いかに薄っぺらなものであるかを、これらの大寺院は、その圧倒的で重畳した、たたずまいで、わたしを打ちのめしているようだ。ミラノの大聖堂にいたっては、完成までに五〇〇年以上かかったそうである。五〇〇年とは5世紀である。このイタリア最大のゴチック建築は、一三五本の尖塔と二二四五体の彫刻で飾られ、中央の尖塔には金色のマリア像が輝いている。これを人間の勘違いによる営為にしてしまうにしては、それは巨大すぎる。これらの大聖堂の否定は、人間の文化一般の否定につらなるだろうとわたしは思う。

大聖堂には否定的な要素がたくさんある。ミラノの大聖堂には、中空に十字架につけられたキリストが、掲げられていた。ソロモンの栄華よりも野の花の美しさを愛でたのがイエスである。あの絢爛華麗さはイエスにはそぐわない。それはたぶん、信仰を表現しようとした人間の執念がなさせたわざであろう。しかしそのような事実のゆえになおさら、かの聖堂文化、カトリック文化は、その文化自体を超えて、「初めなるもの」「初めなるが故に人間の表現をこえたもの」を表現しようとしているのではないか。それらは、「初めなるもの」にいたろうとする、人間ののいわば足掻きではないのか。そしてその足掻きが、そもそも文化というものではないかとさえ思う。大聖堂には、人間の分別知を超えたものを表現しようとしている迫力が、たしかにあった。それがそもそも宗教というものであるかもしれぬのである。

 

宗教とか、文化全体、人間全体への憧憬、「神の国」とか「涅槃」への思いを起動しているものは、システィーナ礼拝堂のイザヤとシビュラの女預言者が暗示しているように、それは単なる宗教、一神教とか多神教、汎神論というような分別知を超えたものであろうと思われる。それはアルケーを暗示している。するとそれははるかに、われわれ東洋人にも通じてくるものがあるように思える。(04629)

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