聖書の文語訳と口語訳


小田垣雅也

 

 同じ字、テレイオスの口語訳である「完全さ」と、文語訳である「全き」の違いのことや(わたしが聖書に親しんだ少年の頃は、聖書は文語訳であった)、また同じくフォベセーテの訳である「恐怖」と「懼怖」の違いを、ときどき考えることがある。

 「完全さ」と「全き」は同じ意味ではない。マタイ伝の五章四八節には「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(現行の口語訳)も、むかし使われた聖書の文語訳のように、「然らば汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」のほうが良い。この「完全さ」と「全き」の違いは、信仰論的に言って、どうでもよいものではない。
 「完全さ」ということは、「無欠」な状態で、これは現実にはありえない。信仰に関しても、「完全無欠」な状態というのは望ましい。よく自分の信仰をそのよういう人がいるが、しかしそれは、そう自分で思いこんでいるだけで、その人には、なにか根本的な信仰論で、間違ったところがあるのではないかと思う。「完全さ」は、観念の世界でしかありえないのである。つまり現実の世界にはないのだ。「信仰は、九〇パーセントの疑いと、一〇パーセントの希望のことだ」ということだが(それにわたしは同意する。G.ベルナノスの言葉、1888~1948)、それが、信仰がイデオロギーになることを防いでいる。「疑い」と「希望」は、自分の中で生きている。その意味で、「完全な」信仰はありえない。
 なぜなら、そのどちらも、つまり「疑い」も「希望」も、概念として未完結であるからだ。未完結な概念(これは概念ではないが)を現実と考えることを、イデオロギーと呼ぶのである。主観―客観構図による言語論でも、日本語の「完全さ」という言葉は、完(おわり)を全うするということだから、「全う」することにはちがいないが、「完全無欠」という言葉や「完璧」という言葉があるように、「完全な」には「無欠」という意味がある。それは人間の現実にはなくて、観念の世界にのみあるだろう。
 原語はテレイオスだが、だから「あなたがたの天の父がテレイオスであるようにあなたがたも方もテレイオイ(複数形)でありなさい」ということも、天の父のように「無欠」な生をいきよという意味ではなくて、文語訳の「しからば汝らの天の父が全きがごとく、汝らも全かれ」のほうが、原意に近い。

 曽野綾子という女性作家は、むかし『神の汚れた手』という小説を書いた。その中に次のように主人公に語らせているところがある。「素敵なカップルの結婚はこわれやすい。『完全無欠』な、才媛と秀才同士のカップルは、いざ結婚し、新婚生活を始めてみると、得てして不幸になりやすい。結婚というのは、何かユーモラスなところがある二人の方が、良い結果になる」と。
 これはわたしの感じでもある。わたしはむかし音楽大学で、宗教と哲学を教えていたが、私立の音楽大学というのは、女子学生が圧倒的に多い。そこでの「宗教」と「哲学」の講義は、したがって、人生論的なものになる。その人々を見ていても、そう思う。美人だし、頭はいいし、という人が結婚すると、得てして不幸な結果になる。だから「完全な」人同士の結婚ではなくて、「欠」を持った人、つまり「全き」人、ユーモラスな人のほうが長続きする。だからそういう話題になったとき、いつも「お前さんたち、素敵なカップルになっちゃだめだよ」と言う。
「完全な」(全きではなくて)素敵さというのは、余裕がないということでもある。イデオロギーには、余裕もユーモアもないように、である。「完全な」生から、少しでもどちらかへ動けば、必ずおかしくなる。そしてそれを我慢することにもなる。ユーモアというのは――宗教というのはユーモラスなものだが――余裕があるということだ。それが「全き」ということの性格ではないかと思う。だから口語訳では「完全な」と訳してあり、文語訳は「全き」と訳してあるが、文語訳のほうがよい。
 「全き」は、「完全さ」ではない。人生を「全う」するとか、責任を「全う」するというような場合のように、わたしたちの毎日は「完全なもの」ではなくて、「全き」ものではないのか。人の生は「完全」なものではなくて、「全き」ものなのだ。それは「完全無欠な」生ではあるまい。訳というのは、日本語のどの言葉を選ぶかで苦労するが、文語訳と口語訳を較べてみた場合、前者の方がよい。

 同様の問題を(その他にもたぶんあるだろうが)マタイ伝一〇章二八節にも感ずる。現行の口語訳にはこうある。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方(かた)を恐れなさい」。文語訳はこうである。「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ」。これも文語訳のほうが正しいだろう。つまり、口語訳では「恐れる」という語が使ってあるのに対して、文語訳では「懼れる」という語が使ってある。原語では前者、「恐れる」が「フォベセーテ」、後者の「おそれる」が「アポレーサイ」である。口語訳では、その二語が同じ「恐れる」に訳してある。
 この際、訳語はどうでもいいが(わたしは、ギリシア語にはあまり自信がない)、口語訳では「恐れる」と統一されているのに対して、文語訳では「フォベセーテ」が「懼れる」、「アポレーサイ」が「おそれる」と訳し分けてある。この二語は原文にあるように、別の訳語を使ったほうがよいだろう。芥川も太宰治も、文語訳の聖書の本文を、非常な名文であると賞賛している。その理解の一つは、原意が隅々まで行き届いているということであろう。
 太宰にいたっては、マタイ伝一〇章の二八節を引用したあと、「この場合の『懼る』は、『畏敬』の意に近いようです」とわざわざ断っている。「恐れる」では、この意がでない。これは畏敬すべきは身も霊魂も、ある事柄に賭ける人間であって(それが賭けるということの意味だろう)、霊魂を概念という安全地帯におき、頭で考案した思想(つまり「恐れ」)を喋喋することの拒絶である。そのような「思想」は畏敬するに当たらない、というのである。この場合、世に言う善悪の規準などは、問題にならない。太宰つまり無頼派はそういう生きかたをした人々のことではないか。
 これは『斜陽』のテーマでもある。『斜陽』の主人公かず子は「なんだか分からぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂をゲヘナにて滅ぼしうる者、ああ、わたしは自分こそそれだと言い張りたいのだ」と言って、一切の古い習慣、倫理に挑戦するのである。
 要するに合法の世界に安住し、安逸をむさぼる人々の摩滅した神経に、太宰は我慢することができない。それは義に反する。そして真実は常に例外者である。思想は常に公共者である。
 このことは天の父は、恐怖の対象ではなくて懼怖の対象だということでもある。「体は殺しても、霊魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、霊魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ伝一〇章二八節)。この口語の訳では「恐れる」という言葉がそれぞれ違った言葉であるにもかかわらず、原文では二者同様に「恐れる」と訳してあるのに対して、霊魂のみを殺すことができるものたちを「者ども」、霊魂と体もゲヘナで滅ぼし得るものを「方(かた)」、と訳し分けしてある。前者は悪魔であり、後者は神であるということであろう。つまり、恐怖―完全者、懼れ―全きもの、という図式が成り立つことになる。
なかなか眠れないでいるときなど、よく「存在への懼怖」を感ずることがあり、そう書いたこともあるが、「懼怖」は決して「恐怖」ではない。自分の存在を「恐怖」していたら、一刻も生き得まい。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」といったイエスの説く神が、わたしたちの「恐怖」の対象であるわけはないだろう。

 もともと「完全さ」ということは良いことではない。紙の表裏のように、裏があれば必ず表がある。裏面に達しようとして、表面をいくらこすって薄くしても、裏面にはいたらない。それがまた表面になっている。世の中には「完全さ」はない。隣り合った二つの部屋も、それを隔てる壁はどちらに属しているのか。この壁はどちらかに属しているのであろう。しかしどちらにも、占有という形では属していない。表裏を隔てるもの、部屋の左右をへだてるものは、何処にもないもの、つまり無なのである。または、表裏、左右は、認識として、未完結なのである。これは「全き」ものだろう。
 「信仰は疑い九〇%、希望一〇%のことだ」という先ほど挙げたベルナノスの例も、信仰とはもともとそういうものであり、それは知的には無を、未完結を、暗示してはいるのではなかろうか。それは「完全な」信仰ではない。「全き」信仰だ。それが神の他者性ではないか、ということだ。

 

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