う つ に な る 能 力

小田垣雅也

 

 聖書の中の有名な箇所だが、イエスはマタイ伝の最後で、「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言っている。これは信仰ということの基本的態度だと思うが、そのことに引き寄せて、現代流行の「うつ」のことを話してみよう。

 蟻塚亮二という人の『うつ病を体験した精神科医の処方箋――医師として、患者として、支援者として』という本を読んでいたら(実際、わたしはいろいろな、同じような種類の本を読むものだ。二〇〇五年九月初版、大月書店)、「うつ」になることは一種の能力の問題だ、ということが書いてあった。引用してみよう。「ところでホンネを言うと、あれやこれやの悩みをいっぱい抱えてうつになって苦しんでいる人を、わたしは尊敬しており、そのような資質を『うつになる能力』と呼んでいる。・・・未解決の不安を不安のまま心の中に留め置き、不愉快極まりない気分だがじっと怒りをこらえ、うしろめたい思いや秘密を抱き続け、それらの結果としてうつ状態になろうとも、そのうつを保持し続けられる人というのは、精神的にとても高い能力を持っており、尊敬に値する。」
 これはわたしが最も聞きたかった言葉である。うつがマイナスのことではなく、プラスの意味を加味して理解されている。よく聞く話に、うつの人は几帳面でまじめ、責任感をもつ、社会的に有能な人だ、という種類のものがあるが、この「尊敬に値する」という言い方は、そういう性格上の話とは別の話であろう。わたしは自分の、いつもクヨクヨし、何かを恐れている自分の精神を省みて、反省することしきりだが、それが高度に凝集された精神状態であることは骨身に徹して知っている。凝集されているからその人の精神は高度であるとは言えないであろうが、これは緩んだ性格の人にできることではない。それには高い精神的能力が必要だ。この言葉を読みながら、磊落で清濁あわせ呑むことができたらどんなに楽か、とわたしは思う。この高度に凝集された精神状態を通過した上での自由さと、清濁あわせ呑んでしまうという意味での磊落な自由さとは根本的に違うだろう。
 信仰とは、わたしが理解するかぎり、清濁をはじめから気にしない境地にあることではなくて、信か不信かという点をめぐって、つまり「はたしてこれが、本心から、信と言えるかどうか」ということをめぐって、精神が高度に凝集されることを通過した者のことであろう。自分の精神を疑うことから離れられないのである。それをいかに「突破」(エックハルト)するかというのが信仰だ。それは信仰とは信か不信か、ということを見極められず、迷っている精神を通過する問題であって、そのどちらかに、はじめからキレイに決められ、緊張が解消されてしまうことではない。そのことはいい加減な性格の人には不向きであろう。
 だからこれまでに度々書いたことがあるように、信からは不信の要素を払拭できないのである。どちらかに決められないのだから。先日はそのことをめぐって、磯山教授のバッハ理解、それは「バッハの信仰は決して堅固な敬虔主義だけのものではなく、迷いのないものでもなくて、やわらかいものであった」と言う見解について説明したのであった。わたしが通っている精神科の笠原医師は、「そのような迷いは、迷いというよりも、あなたの個性の問題です」と言った。これらは蟻塚医師が「うつ」になる性格の人は「高い能力をもち、尊敬に値する」と言ったことを、いわば言い換えたことだろうと思う。個性として、それが承認されたのである。あるいはそういう、信か不信かを迷っている状況を指摘するのではなくて、むしろ肯定し、少なくともそれを承認すること、力づけるというテクニックが、精神科の医師には行き渡っているのかもしれない。少なくとも肯定されれば、とらわれのなやみから解放される。それが人間というものだろう。

 これは一度書きたいと思っていたことだが、マイケル・ポランニーは「暗黙知」ということを言っている。これは人間の知識は「暗黙知」に基づいているという主張だが、大学の演習でポランニーを読んでいたとき、人間の知識には「補助的意識」と「焦点的意識」という二重の意識があって、われわれ人間の意識はその両方を、同時に自覚していないと、知であることはできないというものである。しかし両方を一度に意識することは人間にはできないから、われわれの意識は「焦点」に集中するか、「全体」を構成する補助的意識を意識するかのどちらかになる。しかし「焦点」と「全体」を一度に二重性的に見ることは知識成立上、必要であり、だからそれは高度に「個人的な」知識であるということになる。本当の知は、それをある完結した概念として(概念は必ず完結している)伝達することはできない。それを「暗黙知」と言うのだ、という主張であった。職人の芸とは、元来そういうものだろうと思われた。  
 これはわたしがむかし、アメリカで車を運転していたときの経験だが、前方のどこかに、焦点的に意識を合わせると、周りに意識が届かなくなって危険であり、逆に全体ばかり見ていると、それは何も見ていないということと同じであり、焦点的視点を失って危険だということが分かっていた。それでこのポランニーの意見はよく分かった。車の運転の技術は教えられるが、運転そのものは実際にやってみなければ憶えられないのである。人間関係だけではなくて、人間の意識も二重性的なのである。これは何の技術でもそうだろう。技術とはもともと、そういうものだ。
 しかしポランニーに関するその演習の中で、わたしが興味をもったのは、わたしたちが車を運転するというようなごくありふれた技術も、よく分析してみると、それは「補助的意識」か「焦点的意識」かのどちらか分節されるということである。それを統一的・二重性的に知ることがポランニーの「暗黙知」の意味だろう。わたしたちがいま、平和な顔をしてポランニーを読んでいても、この「暗黙知」を、たとえば車を運転するというごくありふれた知を、「補助的意識」、「焦点的意識」の両者に分節することは正しいが、そのように分節する思考の背後に、どれほど多くの、ポランニー自身の認識上の苦闘があったか、それは世に言う神経症的なものですらあったのではないか、ということの方に気をとられてしまうのである。一度書いておきたいと思ったというのは、暗黙知そのもののことではなくて(これは書いたことがある)、この意識上の「苦闘」のこと、意識は二重性的である、ということの方に行ってしまう。ポランニーを読みながら、理解はどうしても、ポランニーという人の、その苦闘の方に行ってしまうのである。
 補助的意識の場合だろうと、焦点的意識の場合だろうと、わたしたちは、ある意識から、自主的に脱出することはできないのである。脱出しようとすればするほど、脱出の対象としてその意識は前提され、その意識の枠から脱出することはできない。二ヶ月ほど前、わたしは白内障の手術をうけて、昨日も散歩の途次、視野の一部がボンヤリしているような気がして、そんなはずはないと思い、その見え方から脱出しようとすればするほど、その見え方に捉われて、その意識から逃れられないのであった。これは何かにつけてそうなのである。それはその自主的努力そのものが、自主的努力であればあるほど、それから脱出しようとする意識そのものの中で行われているからである。そして、そのことを繰り返して、それに耐えている能力が、蟻塚のいう「うつの能力」であろう。それはたしかに、精神上の「高い能力」を必要とする。少なくともいい加減な性格の人には、それが良いか悪いかは別として、この能力はない。宗教的信とか悟りというものは、そういう意識から脱することだと思うのである。精神科の医者は、この時点ではきまって、自分ではそれと気づかずに、ある宗教的相貌をもっている。

 ではどうするか。蟻塚氏は「思考依存型妄想病」ということを言っている(同書、一二一頁以下)。この思考依存型というのは、そこから脱したいという思考に捉われて、捉われるからかえってその思考に固着してしまう、という精神の状態である。それが思考依存である。その思考は、どうしてもそれから脱することはできない。思考すればするほど、それは思考として増殖する。それが妄想と言われる理由である。だからその思考を諦めて、行動する。そして「行動優先という点で思い出すのは、何と言っても有名な森田療法である」と蟻田氏はいう。森田正馬博士は思考依存型妄想病から脱することを「物事本位」と呼び、「気分本位ではなく、物事本位」をすすめていると蟻塚氏は言っている(同書、一二三頁)。森田療法ではそれを、「何も考えないで飛び込む」「恐怖突入」と言うそうである。そしてそれを実行するのは「ともかく主義」であると言う。
 「ともかく主義」とはこういうことである。少し長いが、再度引用してみよう。「心身の病的抑制(たとえば、思考するのはやめようという思考—引用者)を打破して目前の行動に踏み切るには、『ともかく主義』が良いという。もしも不登校の子供がいたとする。で、朝起きたら何も考えずに、『ともかく顔を洗う』、『ともかく食事する』、『ともかく服を着る』、『ともかくカバンを背負う』、『ともかく靴をはいて家を出る』、家を出れば大抵、学校にも会社にも行けるもの」のよし。これはわたしにも経験がある。「問題は行動に移す以前の葛藤だから、そこを『ともかく、目前の課題に限定してひとつひとつこなす』ことによって乗り越えようというのが『ともかく主義』だそうだ。森田療法では、行動に移す以前の『もやもやした気分にひたる状態』を『気分本位』、逆に『ともかく』目前の課題をこなすことを『物事本位』と呼び、『気分本位でなく、物事本位をすすめている』」と言っている。
 わが家では、家内が仕事で遅くなることが時々あるが、そのようなとき、わたしは何かしていた方が、たとえば皿を洗うとか、米をといでおくとか、何もしないで徒らに待っているよりも楽だという精神状態を、発見したことがある。「ともかく」何かしていた方が、何もしないで待っているよりも楽なのである。これは「ともかく主義」の応用編であると言えるかもしれない。いまこの文章を書いているのにしてもそうである。「ともかく」書いてみる。また、わたしは散歩を毎日(雨が降らないかぎり)するが、これも身体のためというよりも(七十八才になって身体のためでもないだろう)、一日家に引き込んでいると、それだけでイライラしてくるからである。「ともかく」散歩に出る。これも「ともかく主義」の変形であろう。

 「うつの能力」というのは、森田療法の言葉を使えば、物事を「気分本位」に耐えていること、それには「高い精神の能力」が必要だということも含まれているだろうが、それよりも、それを「事物本位」に、「ともかく主義」に転換することを言うのだろうと思われる。イエスは「思い悩むな」(マタイ六章二五節以下)ということを言っているが、これは森田療法の「事物本位」、「ともかく主義」のことを言っているのではないか。とにかく「気分本位」「思考依存型妄想病」とは逆のことである。それが「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」ということの本意ではなかろうか。

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