「 家 族 に 乾 杯 」

小田垣雅也

 

 NHKの月曜日の夜に、笑福亭鶴瓶をホストにした『家族に乾杯』という番組がある。毎回ゲストに著名な芸能人を招き、その二人で、地方の町や村の普通の家庭を、ぶっつけ本番で訪ねるという番組である。大概二週連続になっている。「鶴瓶さんとゲストが、地方の素敵な家庭を訪ねます」というアナウンスが入る。わたしは面白がって、時にはケラケラ笑いながらそれを見ている。そしてなぜこの番組が面白いのか、と考えるのである。それは番組に出てくる人々が、ぶっつけ本番なのであわてたり、へどもどしたりして、その人の生地が出るせいかもしれないが、たぶんそれだけではないだろう。それだけだと、これは悪ふざけのお笑い番組になる。お笑い番組はわたしは大嫌いだ。『家族に乾杯』は、悪ふざけ番組ではない。

 

 わたしは元来、ドラマというのが嫌いである。だからほとんど見ない。ドラマというのは、悲劇や失恋もの、または惨劇や幸福ものであっても、やはりテーマが基本的には美しくなければ娯楽にならないだろう。いわゆる大河ドラマの『武蔵』『義経』『忠臣蔵』などは、みな一定の美しさがあった。元来、ドラマというのは、大河ドラマでなくとも、起承転結がはっきりしている物語である。それが人間の世にありえないフィクションであるか否かは別として、始まりがあって終わりがあるという意味でのフィクションになっていないと、ドラマにならない。だからそこには、作者の物語、世界観がある。その意味で人為的に構成されているのがドラマである。ドラマを見ていて、それが幸福物語にしても不幸物語にしても、何となく暑苦しいのは、この、作者の人為的世界観に、見る側の枠が拘束されているせいだろうと思う。これは大げさなことを言っているのではなく、作者の価値観、正義感、美意識が押し付けられるといってもよい。そして人間の世界観や正義感に、わたしは飽き飽きしているところがあるのである。それがテレビ・ドラマが面白くない理由であろう。見ていて空しくなってしまうのだ。

 

 それに対して『家族に乾杯』には、そういう意味でのドラマ性がない。悲劇か喜劇か、失恋か恋を得るかの、あれか―これかの二元論ではなくて、それこそぶっつけ本番の「ありのままさ」がこの番組にはある。話の筋は何もない。時々ゲストの人で、芝居が大きい人がいるが、つや消しである。たぶん鶴瓶自身が、どういう展開になるか、分かっていないのではなかろうか。人間がテレビ・カメラを向けられてあわて、「この人、テレビで見たことある」と叫ぶような、ありのままさである。そのあわて振りと自然さが面白いのである。それは、何か人生の真実に触れているようなところがある。ドラマとは反対だ。そしてそういう人間を、こちらは受け入れる気分になっている。こちらも普通の人間だからだ。だから面白い。笑福亭鶴瓶という人は上方落語の師匠らしいが、そういう場面に踏み込んでそれを引き出すのは、かなりの修練がいることだろうと思う。ありのままを引き出すのはなかなか大変だ。鶴瓶自身が、相手の素朴さ、ありのままさに、涙を流しているところすら、何回かあった。

 だからこの番組は途中から見てもよい。途中から見たから話の筋が分からなくなるということはない。この番組には、もともと話の筋などはないのである。話の筋ではなくて、ありのままさが前面に出ている。それも、わたしがこの番組をしばしば見る理由の一つである。しかし人間とは、本来そういうものではなかろうか。ドラマのように、わたしたちの人生に話の筋などはない。起承転結もないのである。「結」は死としてあるのかもしれないが・・・。起承転結にもとづいた結論を――悲劇であれ、幸福劇であれ――無理につけようとするから、人間は無理をし、自分の人生をドラマ化しようとする。この番組にはそれがない。

 

 遠藤周作氏が死の床にあったとき、井上洋治神父のところへ電話をしてきたのだそうである。そして、井上神父によると、遠藤は「オレは死んだ世界というものが、全く分からない。だから非常にこわい」ということを、涙ながらに訴えたそうなのである。井上は言葉に窮して「オレも間もなくそこに行くから、待っててくれ」みたいなことを答えたのだそうである。このやりとりは、井上の何かで読んだ記憶がある。そしてこのやりとりのある種の滑稽さに、強い印象をもった。その場合、遠藤の死に対する恐怖は、真面目半分不真面目半分というより、全部、恐怖そのものであったのであろう。これは間違いない。そうでなければ、遠藤は井上のところへ電話などはしてこない。わが身に照らしてみても、死の恐怖は紛れもない。それと同時に、井上とのやりとりにもあるように、「オレも間もなくそこへ行くからまっててくれ」という井上の言い方も、本当の真実ではなかったか。つまり、恐怖と安心の二重性である。そこに、話の筋などはない。恐怖がなければ安心はないのだし、安心がなければ恐怖もない。それが人間の自然さではないのか。

 

 井上師はいろいろな本を書いているが、その一つに『南無アッバ』という文庫版の詩集がある(聖母の騎士社、二〇〇〇年)。その中の詩の一つ「――同伴者(パラクレートス)風――」に次のような文章がある。「私たちが 気づこうと気づくまいと そっとよりそうようにして アッバの あたたかなふところへと あなたは つれていってくださるのですよね  そうですよね」(同書、六三頁)。この最後の文章の「そうですよね」は、その他の詩にも多く出てくるが、これは要するに井上の、神に対する「念押し」である。

 しかし念押しが念押しとして意味があるのは、念を押さなければならないある種のあやふやさが、あえて言えば知的・認識的自信のなさが、神信仰に関して、井上の中にあるからだろう。あの井上神父にしてそうなのだ。しかし信仰とは、本来そういうものではないかとわたしは思う。むしろ起承転結がはっきりした筋などはなくて、しかも元気に生きることこそが、信仰というものなのではないか。認識の対象として確認できることが信仰ではないのである。認識できるものを、わたしたちはわざわざ信ずる必要はない。井上が遠藤にむかって「オレも間もなくそこに行くから待っててくれ」と言った言葉の背後にも、そのあやふやさがあったに違いない。しかしそれが、人間の信仰にとってありのままなことではあるまいか。

 

 近代以降、人間は二元論的にものを考えるように馴らされているから、死を恐怖するか、浮薄な信仰でそれを上滑りしてしまうかのどちらかであるようだ。近代自我にとっては、人間には生か死かの二者択一しかない。それがドラマなら、悲劇か幸福劇かの、どちらかになる他はないだろう。だから近代人は、ありのままさも、大らかさも失ったのである。埴輪の表情のような大らかさだ。近代人はすべて謹厳で勤勉な顔をしている。さいきん嵐山光三郎という人の『文人悪食』『追悼の達人』『文人暴食』という、特殊な視点からの現代文学史を読んだが、要するに現代文学とは、近代自我による、生きていることとの格闘であった。その格闘が悲劇的でもあり、だから面白くもあった。そして結核医学が進歩していないせいもあって、彼らは大概若死にしている。

 遠藤は、自分の生が幸福劇であるとは、とても思えなかったのであろう。(ちなみに言えば、以上の3冊には遠藤周作は入っていない)しかしそれ故のカトリック信仰であるにもかかわらず、「オレは死の世界が怖い」というのならば、「オレも間もなくそこに行くから待っててくれ」という井上の慰めにもかかわらず、信仰の理由とはそもそも何だろうか。遠藤の狼狽が本当に狼狽なら、信仰はそれを克服できないのか。

 

 念押しのない、クリア・カットな人生はないのだと思う。もし遠藤が、「オレは救われているのだから死の世界への恐怖などはない」と言ったとしたら、それは遠藤という自我が、自我の視点で、そう思っているだけであろう。それは遠藤の視点で閉鎖された世界である。自我は生死を超えられない。その自我の消滅が、死の意味だからだ。その勘違いは、小説家の本姓が耐えられることではないだろうと思う。いつも同じことを言うようだが、死の問題は、死の恐怖と、いまここに生きているということの喜びとの、二重性的な問題だと思う。それが生きているということでもある。救われつつ救われていないのだ。死と生の二重性、信と不信の二重性こそが信なのである。罪即義(ルター)信即不信(道元)悪人正機説(親鸞)である。そのことを知っていることは、やはり大事なことではあるまいかと思う。

 

 『家族に乾杯』が面白いのは、ドラマとしての、「主人公としての自我」の束縛を脱して、筋がない人間の真実、そのありのままさをアピールしているからだろうと思う。それは開かれた世界に通じている。人生に筋などはない。筋やドラマの構成に組み入れられた宗教は、いつも暑苦しい。それは何か嘘の臭いがする。鶴瓶の番組は、人為の枠組みにとらわれることに、期せずして、反対しているところがある。人為の枠の中にとらわれた宗教には、嘘の臭いがある、ということに、である。(07308)

 

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