結 ば れ て い た も の

小田垣雅也

 

 『現代世界における霊性と倫理』(富坂キリスト教センター編、行路社、二〇〇五年)という本を読んでいたら、その中の奈須瑛子という人の論文に、religion という言葉の構成は、re(再び)と ligion(結ぶ)であり、レリジョンつまり宗教とは、「神との関わりを再び結ぶという意味だ」と書いてあった(同書、八八頁)。手許の、小学館『ランダムハウス大英和辞典』には、religionという語についてそのような語源的記述はないが、教文館の『キリスト教大事典』では、比屋根安定氏によって、religion はラテン語の religio からきたもので、その原意は「再読する」、または「結合する」ということであること、したがってレリジョン(宗教)とは、教義をよく考えることとか、神と人、または同信の人を結合するの意であろう、と解説してあった。レリジョンの原意が、「再び結び合わせる」ということであることは、ほぼ間違いないだろう。

 しかし、「再び結ぶ」という場合、「再び」と言う以上は、人間は「もとは」、何かと結び合わされていたことになる。それと切り離された状態になり、その両者が「再び」結び合わされるということで、「再び」ということが意味をもつのである。それが奈須氏が言うように、「神との関わりを再び結ぶ」という意味であるなら、その「再び結び合わされる」前の、「もとの」神とはそもそもどんなものであるのか。

 わたしがすぐ思い出したのは、アダムとエバの物語である。アダムとエバの物語を知らない人はいないだろうが、そこにはこうある。神がアダムのあばら骨からエバを作られたとき、二人とも「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(二章二五節)。その後、蛇の誘惑によってエバが神によって禁じられた木の実を食べ、アダムもそれを食べると、彼らは「善悪を知るもの」となり(因みにいえば、当時のユダヤ教の語法では、善悪とは「すべて」という意味である)、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(三章六〜七節)、というのである。つまり、そこでアダムとエバ、すなわち人間は(アダムとはもともと固有名詞ではなくて、人間という意味)、すべてを知る者となり、自立した自意識が生まれたのである。羞恥は、自意識があって初めて生まれる。自立した自意識のないところでは羞恥もない。今日の聖句はそれに続くものである。すなわち「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞えてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」。

 この物語によると、神とは、人間が「もともと」結び合わされていたもの、少なくともその前で裸であっても恥ずかしくないようなものだということである。そこでは人間の自意識は生まれていない。それが、その神の前で自分たちが裸でいても、恥ずかしいと思わなかった理由である。しかしそのような神とは、人間に自意識が発生する以前のもの、その意味で、人間の意識にとっては、「意識外」にあるものであるということであろう。言い換えれば、この神は、少なくとも人間の意識にとっては、意識の届かないという意味で、無なる神であるということになる。したがって人間の意識にとっては、有とも無とも言えない絶対無ということになろう。

 つまり、人間が自分が自立した意識を獲得することに対して払わなければならなかった代価は、「もともと」結び合わされていた神と、切り離された自己ということである。それが、人間が自立した自己意識をもつということだ。人間の自立した自己意識は、禁断の木の実を食べることで、神の前で自分たちが裸であることが恥ずかしいと思うことと引き換えに生まれたのである。しかしこのような、「人間がもともと結び合わされていた神」とは、少なくとも人間の意識の及ばないところにいます神、つまり人間の意識にとっては絶対無なる神ということになるだろう。人間の自己意識の発生と、人間が神を対象として意識し、その前で自分が裸であることが恥ずかしいと思うようになる神とは、同じことの表裏なのであろう。そのような、神の前で裸でいることが恥ずかしいという自己意識の発生そのものが、人間の罪、原罪ということなのではあるまいか。動物は裸だが、それを恥ずかしいとは思わない。したがって、動物には自意識もない。原罪意識もないだろう。人間が神からと切り離されるされるとは、人間が自立した意識をもつということではないか。

 その人間に向かって神は「どこにいるのか」と問うている。神と「再び結び合わせる」、つまりレリジョンということの含意は、このような、一度切り離されてしまった人間と神との関係を「再び結びなおす」ということであるが、そのことは、人間の意識の対象外にある、その意味で、絶対無なる神を暗示しているのではあるまいかと思われる。

 

 人間の罪責感、恐怖というような事柄は、人間の原罪に根をもったものだが、そのような事態は、人間の自己意識が成立するために人間が支払わなければならなかった代価であろうと思う。それが画家エドワルド・ムンク(一八六三〜一九四四)の画業の根本的テーマではないかと、ムンクの絵を観るたびにわたしは思う。ムンクの『叫び』や『不安』と題された絵はよく知られていようが、同様に有名な絵に『思春期』(一八九四年)というのがある。この絵では、まだ成熟しきっていない体の裸の少女が、ベッドに腰掛け、体を硬くして、青春、つまり自分の自立、に対する期待とよろこび、そして恐れで、目を一杯に見開いて前方を凝視している。エバが蛇の誘惑に負けて「善悪を知る木の実」を食べたときも、これと同じ表情をしていたのではないか、とわたしは思うのだ。これは人々が一度観たら、忘れられない種類の絵であろう。

 しかしムンクのこの絵の根本的なテーマは、思春期を迎える少女の期待とよろこび、ないし恐れ描くことであるよりも、人間の自立とは、その背後に不吉な罪、原罪の意識があること、それを描くことにあるのではあるまいかとわたしは思っている。自己意識の確立とは、「もともと」あった神の中での生活を離れ、その神と切り離されて、神に「どこにいるのか」と問われるような生活なのである。その第一歩が、青春の自覚であろう。青春は楽しいが、しかし何か罪の臭いもする。それを少女の背後の壁に沿って不気味に描かれている影が表現していよう。その影の不吉な形と巨大さは、写実的な意味では決して少女の影ではない。それは魔物のように大きく、どう観ても少女の影の形をしていない。おそらくその習作と思われる同じ題材のエッチングでは、少女の影は、ムンクにも収拾がつかなくなって、背景のほぼ三分の二を占めているのである。近世の「自立した自我」が、産土の大地を離れ、その影が人間世界の背景の、ほぼ全面を占めているように、である。その近代人は、たえず神から「どこにいるのか」と問われているのだと思う。

 理神論というものがある。理神論とは、主として一七世紀のはじめからイギリスで台頭した思想で、カントによって克服されたと、一応は、言われている。理神論のテーマは神の啓示と、啓蒙主義によって発見された理性の総合であるが、しかしそうである以上、これは形を変えて、宗教と科学の関係の問題として、現代にいたるまで影響を及ぼしているともいえる。ジョン・ロックは『キリスト教の合理性』(一六九五)を書き、またジョン・トーランドは『神秘的ならざるキリスト教』(一六九六)という本を書いた。これらの本では、神(の天地創造)と啓蒙主義的理性(の自立)という両者の対立とその総合が意図されているのである。そして神の啓示は理性と背馳するものではない、と主張されている。ここに描かれている人間は、神に「どこにいるのか」と問われているような人間ではない。「人間は理性をもってここにいる」のである。それが近代人ということの意味である。神と理性をもった人間は、矛盾しないとされているのが理神論だ。と言うよりも、啓示の理性への屈服が理神論であると言えようか。

 しかしわたしがいま言いたいことは、理神論の当否ではなくて、次のことだ。すなわち、もし神対人間の対立とその総合という、理神論の世界観がありうるとしたら、それは神と人間の両者を見渡しうる立場に人間が立つということを前提しているということだ。しかし神と人間の両者を見渡しうる地点に人間が立つことは、全く架空の視点であろう。そして近代を通して、この構図、すなわち神対人間という構図の仮構性に、人々は気づいていなかった、とわたしは思っている。少なくともそういう哲学史の本を、わたしは読んだことがない。

 しかしこの仮構を見渡している人間が、「どこにいるのか」と神に問われている人間なのではあるまいかと思う。人間の自立した自意識とは、自分の「もともと」の居場所、すなわち「家郷」を失った人間ということなのだと思う。それが「家郷喪失」した人間の生きている場所ではあるまいか。だから本当の神、人間の家郷としての神とは、神―人間という仮構の一方の極のような、人間の視点に捉えられた仮構の神ではなくて、人間の意識の外にあるような、人間の意識にとっては「絶対無なる神」ではないか、とわたしは思う。「どこにいるのか」と問い掛けられている人間と、その問いかけの主体としての神とは、そういうものではあるまいか。

 

 マルコによる福音書一〇章一三〜一六節(およびその平行記事)によると、イエスは子供たちを自分のところへ来させて、「神の国はこのような者たちのものである」、また「子供のように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることはできない」と言って、子供たちを抱き上げて祝福されたとある。子供は理神論者のように、神と理性の関係などと言って、信仰を、自分で、分かろうとはしないのである。子供が本性的に素直で率直であるのは、神と切り離される以前の世界に生きているからだ、とわたしは思う。言い換えれば、人間の原罪と無縁な世界に、だ。イエスが子供を祝福した本意も、そういうところにあったのではないか。わたしたちが子供に対して持つ感動は、子供が神の啓示と近代自我の理性の関係、などという仮構とは無関係に、自我成立以前の率直さで生きているからだと思われる。子供は人間の子供は言うにおよばず、爬虫類の子供ですら可愛い。幼児の心理学は、大人の心理学とは全く別のものだ、ということをわたしは、どこかで読んだことがあるが、これはその限り正しいと思われる。子供には「再び結び合わされる」必要などはない世界に生きている。だから「どこにいるのか」などと、「神」に問われることもない。神の国の真実は、何よりも、そのような、素直さ率直さの問題だと言って、イエスは子供を抱き上げたのだと思う。

 

 一言だけつけ加えたいことがある。大人は子供ではない。子供の素直さ率直さを、大人が意図的に身に付けることは、堕罪以後の大人には、もはやできない。そもそも素直さや率直さを、意図することはできない。このことの意味は、神と「再び結びあわされる」という場合の「再び」ということは、それが大人にとっては「再び」の繰り返しになるだろうということである。「再結合」という一つの完結した状態で「達成され」、「安定」してしまっては、それは「再び」の意味を失う。それは完結体になる。「再び」、「結び合わせる」ということを繰り返しているのが、大人というもの、大人の信仰のあり方であろうと思われる。ヘブライ人への手紙一一章一三節以下にもこう書いてある。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを、明らかに表わしているのです。」人間にとって故郷とは、元来そういうあり方をしたものであるかもしれぬと思う。(06607)

 

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