恰 好 わ る し

小田垣雅也

 

 水の江滝子(わたしの小学生の頃はターキーと呼ばれていた)は一九九三年、七七歳のとき、生前葬をしたそうである。しかし戦後、柳屋金五楼とともに、NHKのジェスチュアという番組に出ていた。このほうが若い人々には記憶に残っているだろう。しかし生前葬をしたにもかかわらず、二〇〇九年九四才で没するまで一七年間、生きつづけたという(二〇一〇年四月七日の朝日新聞夕刊)ことは恰好がわるい。人間には、自分のことを含めて、予言する能力はない。
 わたしの子供のころは、ツサカ・オリエとともに、ターキーの全盛時代で、わたしの家に叔母が下宿していて薬学専門学校(現行の薬科大学)に通っていたせいか、時々ターキーを見に行った。何でも、当時は支那事変の真最中で、舞台の上のターキーは、銃を構えて、「天に変わりて不義を打つ・・・」などという歌を唄っていた。その舞台では、まがいものの爆弾が、大音響とともに破裂したりした。
 一方ターキーの実際の葬義は、身内だけで行われたそうである。
 生前葬をしたのに、その後一七年間も生きていたというのは、たしかに恰好が悪い。一七年間も生き続けたというのならば、何のための生前葬か、ということになる。実際の葬儀が「身内だけで行われた」という記述も、そのための配慮であろう。

 しかし、わたしにもこういうことがある。わたしの最後の書物(『友あり』、二〇〇七年)の「あとがき」の中に、こういう一節がある。引用してみよう。「しかし、思想は時代が生むものだ。だから『自分たちの時代は終わったのだ』という言い方に、わたしは自分自身に対してある種の『いさぎよさ』を感じている。どこで線を引くかという問題なのである。」
 しかしその後二、三年たって、最近の説教集をもう一冊出してみようと思った(飽きもせずに)。この最後の本には、わたしの新しい(と思える)考えかたまでいろいろ書いた。しかしそれはそのままでは本の原稿にはならないから、その原稿の整理などにも時間をかけていたのだが、これは「思想は時代が生むものだ。自分たちの時代は終わったのだ」とか、「どこに線を引くかという問題だ」ということに矛盾していないかと思い始めたのである。これはいさぎよい態度ではない。ずるずる書いているのは、ターキーの生前葬が恰好がわるいのと同じように、恰好が悪い。そのことを最初に指摘したのは、実は家内である。(家内のほうが、この点にかんしては、実存的であったわけだ。実存とはわが身が立っている場所を考えることである。)

 それと相前後して、T先生の九五歳の祝賀会が開かれた。その通知が、わたしには来なかった。それにはいろいろ都合があったのだろうし、「その言い出し役」であるI君に対しては、わたしは「わたしの時代」は過ぎたのだ、と思っている。相撲にすら、現今の上位者には外国出身者が多い。わたしの小学生の頃にくらべると、隔世の感がある。その頃は、双葉山、玉錦、男女の川、武蔵山が全盛で、四横綱が揃っていた。外国出身の、毛むくじゃらな、紅毛碧眼の、相撲とりなどは、話の外であった。
 わたしが学生のころ、神学の分野では、ブルトマンの非神話化、ハイデッガーの神学的意味、西田哲学による東西宗教の対話、脱構築の神学が先進的話題であったが、これらは全部、いまの神学世界にはない。いまは、組織神学といえば、環境倫理や生命倫理が問題になる。それ以前の神学世界にもない。それらは新しい神学的テーマであった。そうとすると、わたしに、忘れられて何の不満があるのか、と思ったのである。わたしの妻は「八〇歳を過ぎたら、世間は過去の人と思うので、それを一人前として数える方が世間の常識から外れているのよ」と言った。
 わたしはいま八〇才四ヶ月になるが、私と同時代の日本男性の平均年齢は七九才ニヶ月だそうである。わたしは昨年の三月ごろ、その年齢を通過したことになる。その時は、「わたしは病気だらけの生活であったが(五回手術を受けた)、何だか気が軽くなった」ようだと思った。少なくともその後、わたしは自分の健康のことに、あまり気を遣わなくなったことがある。
 わたしは時々、「存在への懼怖」ということを考えることがある。夜、なかなか眠れないときなど特にそうだ。死が怖いというのは、結局この「存在への懼怖」ということではないか、と思うことがある。
 しかし「終わり」があるということは、その裏側に「始まり」もあるということだ。わたしにも、子供時代はあったのである。「終始」、「表裏」というが、終わりが無ければ始まりはないし、裏があるためには表もある。「終始」、「表裏」を一体として眺めれば、これは存在者の根本的な制限というべきだろう。

 わたしは二重性ということをずっと主張しつづけ、そのことを、力を込めて主張してきた。過去三〇年間主張し続けたのはそのことのみであった。それがわたしの信仰である。「われ信ず。信なきわれを救いたまえ」(マルコ伝九の二四)である。これはもともと、その中気の子供の父親の信仰心を前提として、解説が必要ないほど人口に膾炙している聖書の句だが、注意して読むと、原文の「われ信ず」は「信なきわれ」では言えないはずであり、「信なきわれ」だったら「われ信ず」とはいえないはずである。原文でもわざわざ対義語であるピステゥオウとアピステゥオウを使ってあるぐらいである。これはその父親の信が、信と不信の二重性であるということであろう。

 そして丁度一年位前ごろ、三月の説教で「信即不信を考えるためには、心の芯が必要だが、その心の芯がなくなったようだ」と語ったことがある。しかしそれは、「終始」、「表裏」の存在者の、本質的な関係存在性に悖っているし、何よりも、信即不信は、わたしの回心そのものでもあった。わたしはいわゆる回心をして、その後、神を信じられるようになったのではない。信と不信の両方が、「二重性」として許されているということを、一瞬に悟っただけだ。そのわたしの生きている不信が、イエスを十字架で死なせたのである。それこそが、イエスの十字架の、意味である。またそれは、イエスの復活の原因でもある。その事実に気がついた以上、それがイエスの復活であろう。そのこと以外に、イエスは何処に行くことができたか。これを遠藤周作によると、「転化」というらしいが、「転化」というよりも「二重性」であろう。転化というと、それをキッカケとして物事のリアリティーが変るという意味があるが、二重性の場合、わたしの不信も生きている。

 人間という存在者は、その関係存在の「終」の面、「裏」の面でのみ自分を自覚することが多い。そのように去年三月の説教で語ったのは、たぶん、その表面での人間の心のあり方が、意識に上らなかったからではあるまいか。ここで、「心の芯がなくなったようだ」の言葉を反省、ないし撤回しておく。それが人生は遊びではない、ということの意味でもある。

 というよりも、人間には、全体性とか存在そのもの、また神の自分との関係存在性を、書き切れるものではないのである。書き残したことは必ずある。神、全体とは、主観ー客観構図によって、完結しての形では、決して書けるものではない。宗教的言語とは、その制限を知っている言語のことだ。それが人間の関係存在ということの意味だろう。むかしから、「信仰とは九〇パーセントの疑いと一〇パーセントの希望のことだ」といわれているが、この「疑い」と「希望」が、その理由であろう。どちらも未完結である。椎名麟三氏が、「不信の復権」ということを言ったのも、このことだろうと思われる。

 その意味で、恰好わるいのは、人間にとって「何時ものことだ」と思うのだ。

 

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