恰 好 わ る し 小田垣雅也
水の江滝子(わたしの小学生の頃はターキーと呼ばれていた)は一九九三年、七七歳のとき、生前葬をしたそうである。しかし戦後、柳屋金五楼とともに、NHKのジェスチュアという番組に出ていた。このほうが若い人々には記憶に残っているだろう。しかし生前葬をしたにもかかわらず、二〇〇九年九四才で没するまで一七年間、生きつづけたという(二〇一〇年四月七日の朝日新聞夕刊)ことは恰好がわるい。人間には、自分のことを含めて、予言する能力はない。 しかし、わたしにもこういうことがある。わたしの最後の書物(『友あり』、二〇〇七年)の「あとがき」の中に、こういう一節がある。引用してみよう。「しかし、思想は時代が生むものだ。だから『自分たちの時代は終わったのだ』という言い方に、わたしは自分自身に対してある種の『いさぎよさ』を感じている。どこで線を引くかという問題なのである。」 それと相前後して、T先生の九五歳の祝賀会が開かれた。その通知が、わたしには来なかった。それにはいろいろ都合があったのだろうし、「その言い出し役」であるI君に対しては、わたしは「わたしの時代」は過ぎたのだ、と思っている。相撲にすら、現今の上位者には外国出身者が多い。わたしの小学生の頃にくらべると、隔世の感がある。その頃は、双葉山、玉錦、男女の川、武蔵山が全盛で、四横綱が揃っていた。外国出身の、毛むくじゃらな、紅毛碧眼の、相撲とりなどは、話の外であった。 わたしは二重性ということをずっと主張しつづけ、そのことを、力を込めて主張してきた。過去三〇年間主張し続けたのはそのことのみであった。それがわたしの信仰である。「われ信ず。信なきわれを救いたまえ」(マルコ伝九の二四)である。これはもともと、その中気の子供の父親の信仰心を前提として、解説が必要ないほど人口に膾炙している聖書の句だが、注意して読むと、原文の「われ信ず」は「信なきわれ」では言えないはずであり、「信なきわれ」だったら「われ信ず」とはいえないはずである。原文でもわざわざ対義語であるピステゥオウとアピステゥオウを使ってあるぐらいである。これはその父親の信が、信と不信の二重性であるということであろう。 そして丁度一年位前ごろ、三月の説教で「信即不信を考えるためには、心の芯が必要だが、その心の芯がなくなったようだ」と語ったことがある。しかしそれは、「終始」、「表裏」の存在者の、本質的な関係存在性に悖っているし、何よりも、信即不信は、わたしの回心そのものでもあった。わたしはいわゆる回心をして、その後、神を信じられるようになったのではない。信と不信の両方が、「二重性」として許されているということを、一瞬に悟っただけだ。そのわたしの生きている不信が、イエスを十字架で死なせたのである。それこそが、イエスの十字架の、意味である。またそれは、イエスの復活の原因でもある。その事実に気がついた以上、それがイエスの復活であろう。そのこと以外に、イエスは何処に行くことができたか。これを遠藤周作によると、「転化」というらしいが、「転化」というよりも「二重性」であろう。転化というと、それをキッカケとして物事のリアリティーが変るという意味があるが、二重性の場合、わたしの不信も生きている。 人間という存在者は、その関係存在の「終」の面、「裏」の面でのみ自分を自覚することが多い。そのように去年三月の説教で語ったのは、たぶん、その表面での人間の心のあり方が、意識に上らなかったからではあるまいか。ここで、「心の芯がなくなったようだ」の言葉を反省、ないし撤回しておく。それが人生は遊びではない、ということの意味でもある。 というよりも、人間には、全体性とか存在そのもの、また神の自分との関係存在性を、書き切れるものではないのである。書き残したことは必ずある。神、全体とは、主観ー客観構図によって、完結しての形では、決して書けるものではない。宗教的言語とは、その制限を知っている言語のことだ。それが人間の関係存在ということの意味だろう。むかしから、「信仰とは九〇パーセントの疑いと一〇パーセントの希望のことだ」といわれているが、この「疑い」と「希望」が、その理由であろう。どちらも未完結である。椎名麟三氏が、「不信の復権」ということを言ったのも、このことだろうと思われる。
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