母 の 日

小田垣雅也

 

 五月の第二日曜日は母の日である。古くは小アジア地方で、神々の母シビーリを祝う母の日もあったという話だが、現代では廃れている。キリスト教の伝統では、五月は聖母マリアに捧げる月ということになっているが、母の日が一般化されたのは、アメリカのウエスト・ヴァージニア州のアンナ・ジャーヴィスという熱心なキリスト教徒が、一九〇八年に、母の命日にカーネーションの花束を飾ったことに始まるとされている。彼女はその後、全財産をなげうって、母性をたたえる母の日の制定を説いて回り、一九一四年、ウィルソン大統領に、五月の第二日曜日を、母の日にあてることを公認させた。それ以来、母の日は世界にひろまり、母のある人は赤いカーネーション、亡くなった人は白いカーネーションを胸に着けて、母を讃えることになった。このことは、比較的よく知られていよう。日本で第一回の母の日が行われたのは一九四九年で、わたしが肺結核の最中であった。

 しかし、わたしが母の日に代表されるような女性問題で個人的衝撃を受けたのは、一九六三年に出版された、ベティー・フリーダンの『女の不思議』(The Feminine Mystique, 1963. 邦訳『新しい女性の創造』、一九六五年)を読んだときである。戦後日本文化の忘れがたい一面として、朝日新聞の夕刊(最初は朝刊であったか)に連載されていた漫画に『ブロンディー』というのがある。ブロンディーとは、アメリカの中産階級を代表するダグウッドの奥さんで、戦火に荒廃したヨーロッパや日本の家庭婦人たちが望んでいたもの(その中には『第二の性』で有名なシモーヌ・ド・ボーボワールも含まれている)、つまり健康な旦那さん(少しとん馬な)、車、電気冷蔵庫、洗濯機、テレビその他、すべてを持っていた。それらを所有することは、ヨーロッパや日本の家庭婦人の目標で、自由の象徴だったのである。男たちもそのことのために、毎日をアクセクと働いていた。
 しかしそれと同時に、なによりも、彼女たちは、家庭の中で良妻賢母の役割を果たすことも期待されていたのであった。それが女の自由だと。たしか、『ブロンディー』の漫画が、この『女の不思議』という書物の中で暗示されていたと思う。わたしはそのように読みとった。つまり、この書物に描かれているような現代女性は、役割を当てはめられた創造性の乏しいものであり、その存在論的退屈感は、根本的には現代社会での人間の疎外にその原因をもっているという主張である。人間はその人間社会の中での一つの歯車になり、とくに女性は良妻賢母という消極的歯車になることが期待されるだけになる。女の自由が退屈になるということ、それが『女の不思議』である。
 だから母の日、女性の日に思い起こすべきであるのは、単に雇用機会の男女均等とか、同一労働同一賃金というような次元にとどまるものではない。これらは社会主義運動に任せておけばよい。また女性解放は、文化人類学的に見た女性の優位性の復権とか(いまも、海女にそれが残っている)、最近の新約学の成果の一つと喧伝されている、「イエスは実はフェミニストであった」というフェミニスト・イエスの主張の類の議論でも、本当はないのである。もともと近代的学問は「区別の論理」によるもの、つまり男性的論理によるものであり、その男性的論理による区別の論理によって、新約聖書を分析し、それによって、「イエスは実はフェミニストであった」と主張するようなフェミニスト神学は、学問論的に言っても矛盾している。母、とくに女性の問題は、現代の、深く存在論的退屈感に裏打ちされているのである。存在しているということは、本質的には退屈で孤独なものだ。とくにこの存在していることの孤独さは、現代世界で拡大して意識されている。わたしは毎日ヒマだし、耳も悪いので、一入その感がある。

 元来ユダヤ教・キリスト教の伝統では、一貫して、男性中心主義・女性蔑視であった。それは「母なる神」ではなくて、「父なる神」を信じる信仰であった。パウロが、女は教会で話してはならぬ、と命じ、男のかしらがキリストであるのに対して、女のかしらは男であり、男は女のために造られたのではないが、女は男のために造られたのだといっていることは有名である(コリント人への第一の手紙、一一章、一四章)。また、「教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(エペソ、五の二四)ともある。これらは明瞭な女性蔑視であろう。
 その後、霊―肉二元のプラトニズム的人間論がキリスト教にとり入れられて、それが男性―女性の二元論に変形する。アウグスティヌスによれば、アダムは元来、霊・肉両方の本性をもった統一的人格であったが、エヴァがアダムからとり出されたとき、彼女はアダムの肉的側面を受け継いだ。したがって女は、霊的次元には、本來向いていないのであって、女の本性は子供を生み育てることであり、それ以外に、女が存在する理由はないとされている。男は霊的本性のものとして、神の像を持っているのに対して女は自分の「かしら」としての男に依存してのみ神の像を知ることができるだけだ、と。
 しかも霊の見地からすれば、罪とは霊に対する肉の反逆であり、霊を情欲の虜にすることである。したがって女が肉的本性のものであるということは、女が罪の象徴的存在であるということになると、アウグスティヌスは言う。ここにあるものが、女に対する男の一方的な独断と、偏見であることは明瞭であろう。バルト、ボンヘッファーにとっても同様で、両者とも女はそのかしらである男に従属すべきこと、それが「創造の秩序であること」、を説いている。ブルトマン、ゴーガルテンなどの神学すら、「自然」に対して「歴史」の優位を主張するかぎり、それは男性的論理の中にある、と言ってよい。

 したがって、キリスト教的伝統のなかで「母の日」をつくったり、女性神学を形成したりすることは、当面では矛盾したことなのである。それはすでに引証したパウロやアウグスティヌスのキリスト教の伝統が示している通りである。実際、現代の代表的フェミニスト神学者メアリー・デイリー(Mary Daly)の主著の書名が『父なる神を超えて』(Beyond God the Father, 1973) であり、それは、別のフェミニスト神学者、シイラ・コリンズ(Sheila Collins)の代表作の書名が『別の天地』(A Different Heaven and Earth, 1974) からも伺えよう。ここでは、伝統的なキリスト教世界の価値観とは別の世界が予想されているのである。「父なる神」に対する信仰は、すでに述べたように、ユダヤ教、キリスト教の根幹であると言ってよい。だからフェミニスト神学は少なくとも伝統的なキリスト教に対しては反キリスト教的になる。それでもなお、フェミニスト神学がキリスト教神学であるいわれは何かというのが、フェミニスト神学、「母の日」神学の問題であると言ってよいだろう。

 何の宗教でもそうだが、キリスト教(この場合)の場合、キリスト教を否定し、それを超え出る要素があってこそキリスト教でありうる。「文字は殺し、霊は生かす」(コリントⅡ、三の六)であり、不立文字・教外別伝である。そしてそれこそが、イエスの十字架上での自己否定の意味でもあるだろう。十字架は、それ自体としては透明になることによって、十字架としての意味をもちうる、とティリッヒも言っている。宗教には、宗教自体の自己否定が必要なのである。もともと神―人間という二元論的認識が、人間の思考によるものであって、人間にとっては、神と人間の両者を見渡しうるような、「神―人間」という視点は、本来は、ありえない。もしあるとしたら、その神―人間という構図は、それがすでに人間の論理の中に取り込まれた「神―人間」である。
 だからフェミニスト神学者たちにとって、彼女たちが求めているものは、「父なる神」、つまり神―人間、男―女、という二元論、が現れる以前の「全体性」である。それは必然的にロマンティシズム的性格のものになる。シイラ・コリンズの言葉によれば、「全体性」とは、お互いを隔てている二極構図と、それにもとづいている男女間の心理的・社会的二元論を克服する「相互性、相補性、平等性、混合性である」(Collins, op.cit., p,173)。この言い方は現象論的で不明瞭だが、しかし「全体なるもの」とは、本性、主観―客観という二元論的構図に分裂する以前の現実であり、人間には認識としては二元論的構図しかないから、主観である人間にとっては、「全体なるもの」とは常に認識を超えたものであろう。そのことの描写が現象論的で、不明瞭であるのは理解できる。人間がそれを認識的に明確にとらえたとき、それは対象として、神対人間という、人間の認識論的二元論の中に引き入れられてしまう。いいかれば「全体性」とは人間にとって「他者」なのである。それは「別の天地」なのである。
 メアリー・デイリーは、この「全体なるもの」は認識の対象としては存在しないから、フェミニスト神学は「無の神学に直面する実存的勇気を必要とする」とまで言っている(Daly, op. cit., p.23)。そしてまた、この無としての神は、名詞ではなくて動詞であると言う。神を名詞とすることは、神を対象化するということだからだ。対象化された神とは、フォイエルバッハが言った通り、人間の自己の反映である。しかもデイリーによれば、この動詞は自動詞であって、自分の動詞としてのあり方を限定するものとしての目的語をとらない。とにかくデイリーの理解によると、近代思想の特徴は「二元化―具象化―客観化症候群であり、それは父権制的意識の特徴であって、『他者』を、失われた自己の内容物の貯蔵庫としたのであった」。

 思想的に見れば、母の日とは、このような規模のものであろう。それは「全体性」、その意味では大地と自然の、回復である。少なくともそれは、父権制をこえた愛の神学・ロマンティシズムの神学を暗示している。もしそうでなければ、それはジャーヴィス嬢によって思いつかれただけの、単なるセンティメンタリズムになるだけだろう。(08419)

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