猫 が 死 ん だ


小田垣雅也

 

 一八年間飼っていた猫(ヌフ)が死んだ(〇七年三月一三日)。息を引き取ったのは、犬猫病院からの帰途、抱かれていた妻の腕の中であった。獣医の診察台の上で注射をされたときの、猫の身もだえした苦しみは、思い出すのに耐えがたい。単純に生きているものが死ぬのに、あんなに苦しむとは、存在論的手続きとして不条理だ。いまでも、わたしは無意識のうちに目で猫を探しているし、娘は沢山泣いて、ついに熱を出して医者に行った。風邪だということだが、わたしは猫の死が原因ではないかと思っている。妻にいたっては、眠っていて、猫の声で目を覚まし、寝ぼけ眼で、毛布を剥いで猫を探したのだそうである。これは死んだ猫の亡霊がでたことに通じる。

 妻は、猫は言葉は語れないものの、人間の言うことは、全部分かっていたのだと言う。妻が言うほどではないと思うが、こういうことがあった。わたしはこの三〇年近く、毎月一回、自宅で礼拝をし、説教をし、讃美歌を歌い、説教の最後には短い祈りをささげるが、猫は大概、礼拝の間中、椅子の上に寝て、上目遣いで、周囲を見渡している。説教がすんで、わたしが先日、猫が出席(?)した最後の礼拝のとき、短いまとめの祈りをすると、猫は突然、それに合わせて、ニャー、ニャーと鳴いたのである。妻によると、猫はたぶん雰囲気の違いをみてとり、「一緒にお祈りをしたのだ」という。そんなことはないだろうが、皆が讃美歌を歌うときなど猫はよく、声を張り上げて鳴いたのである。

 猫の思い出はつきないが、一家で留守にしたあとなど、一同で帰宅して妻が猫に呼びかけても、猫は明らかに怒った雰囲気を漂わせていることが多かった。猫を火葬にした日、わたしは猫のアルバムなどを見ていて、つくづく、猫の死によって一つの時代が終わったと思ったのである。それは猫の死が一時代を画したというのではなくて、この一八年間、私の定年、娘の進学と就職、妻の定年、我が家の引越しなどを含めて、一つの時代があり、それがいま別の雰囲気の時代に移りつつある、という意味である。その間に、わたしは一二、三冊の本も書いたし。そしてその間、常に猫が家の中に居たのである。それは猫とともにあった我が家の時代である。わたしも今後、あまり長い余生ではないだろうし。

 猫を火葬にしたのは、浅間山慈恵院という臨済宗の禅寺である。それ専門の火葬の施設がある。猫の遺体を取りにきたとき、係りの人が聖書を見て、「キリスト教の人は、時々、猫に関してお経を上げることに反対の人が居ますが・・・」と言った。たしかに旧約聖書の『創世記』の冒頭には、人間は犬猫を含めて天地の万物を創造され、創造の最後に、神の「似姿」として人間を特別に創られ、その人間に、天地や動物の支配を任されたと書いてある。人間は被造物の中で、特別な地位を与えられているのである。それにもかかわらず、猫を火葬にし、猫に対してお経をあげることがゆるされるのか。お経はさしあたり、仏教徒の人間のためのものではないのか。これは当然の疑問であろう。わたしはその事実を「猫だから何でもいいや」と、いわば甘く見たわけではない。

 禅の考え方によれば、『創世記』にあるような意味で、世界を人間中心的に考えることはない。むしろ、自然界の意志に従って、死ぬも生きるも苦悩も病苦も、あるがままに受け入れること、生物であれ、現象であれ、それらはみな人間の存在と同等であることを受け入れることが禅の悟りである。そのことに気づくことが「悟り」の基本であると言えるだろう。このように考える場合、猫を火葬にし、お経をあげることに、全く違和感はない。この意味で仏教は、キリスト教とは基本的に違っている。だから猫に関して仏教的なお経を上げることに不満なキリスト教人が居るというのには理由がある。

 これは仏教とキリスト教の対話の問題になるが、宗教は互いに排他的でなければならない。多くの宗教のうち、どれでもよいというのでは、宗教にならない。宗教は、それによって生きるか死ぬかの問題だからだ。しかしある人が、キリスト教信仰が絶対的だと言って仏教を拒否する場合、それはその人がそう思っているだけで、その態度は仏教の人からみれば、極めて独善的だということになろう。また逆の場合も、仏教徒の人が仏教を唯一絶対の宗教として他を認めず、それにもかかわらず自分が飼っていたペットに対してキリスト教式の葬儀を行うとしたら、――動物用のキリスト教の葬儀などないと思うが――それに対して仏教の側からも、その信仰は信仰ではなくて、独善的な観念になっていると言われるだろう。

 しかしまた、宗教の普遍性を意図し、仏教もキリスト教も、結局は同じなのであって、キリスト教徒が仏教のお経を聞いても、そこには普遍的宗教の慰めが唱えられているのであり、その意味でそれは許されるはずだ、と考える場合、それは宗教というものの本性的排他性に反するし、何よりも、そのように宗教の普遍性を認める場合、それはその人がそう思うだけで、その普遍性は、人間の観念、イデオロギーだ、ということになる。

 だから問題は、キリスト教徒が仏教のお経を聞き、それはそれとして、そのことに違和感をもちながら、しかしそれを認めること、逆も真であること、その二重性が、わたしたちがこの人間社会で生きていく、よすがではないかということだ。わたしたち一家はキリスト教徒でありながら、飼い猫を仏教式で葬儀を行ったのである。キリスト教徒である私たち一家が、仏教のお経を上げる声を聞いていたのは、たしかに違和感があった。しかしその違和感をもちながらも、宗教を排他的に信ずるか、宗教の普遍性を認めるかという、排他性か普遍性かという選択しか人間にはないのだから、その二重性を認めることが大切であろう。それは他に同様な施設がないから便宜上そうしたのだ、という理由にだけよるのではない。また猫の死を甘くみ、自然界の意思に従うという、東洋の万物斉同の思想を、結果として侮辱していたわけではないのである。

 それには以下のような理由もある。解釈学に、言語化以前の(pre-verbal)コミュニケーションというものがある。これといくらかずれた理解だが、前理解(pre-understanding)というものも解釈の前提としてある。ある問題の理解とか解釈は、かならずその問題に対する設問に導かれているが、設問が設問としての意味をもつのは、少なくとも前理解において、対象の理解とか解釈がすでに、前状況として(具体的にではなく)、予想され、知られているからであるという。そうしてのみ設問も設問としての意味をもつのである。歴史の本を物理学的興味で読んでも、その本は何も語らない。それはその本に対する設問と前理解がずれているからである。そしてその前理解は、言語化され、意識される以前の、いわばプリ・ヴァーバルな水準でのものであるだろう。それはペットに関して、キリスト教的扱いか仏教的扱いかというような、ポスト・ヴァーバルな水準を超えたものだ。わたしたち人間同士の理解でも、まず大事なものは、この前理解でのコミュニケーションである。何かを雄弁に喋っても、本質的に言いたいことは、何も伝わらないという人は、私たちの周囲に、やはりいるのではないか。そこではコミュニケーションは起こらない。言語化以前の水準で交流がないからである。

 わたしは去年『コミュニケーションと宗教』という本を書いたが、そこで主張されたことも、要するにコミュニケーションとは、言語化され、対象化される以前の、つまり「宗教化」される以前の、いわば前理解の段階でなされるのであり、その意味でそれは宗教の問題だということであった。宗教とは本来そういうものなのだ、という主張である。言語後(post-verbal)の理解、猫を仏教式に火葬にすること、猫にお経をあげることが、キリスト教徒として是か非か、というような問題は、せいぜい言語後の、意見の一致(ないし不一致)であって、それは労働組合の決議事項にでも任せておけばよい、と言ったのであった。

 言語以前の水準で、猫との間にコミュニケーションがあったのだ、と明言するつもりはないが、少なくともそれに似たコミュニケーションが娘や妻と猫の間にあったのだとは言えると思うのだ。親しい動物と人間との間にあるコミュニケーションとは、本来、そういう、言語以前の水準のものではあるまいか。そういう関係がペットとの間に成立していると、そのペットの死は、飼い主を打ちのめす。旦那が死んでもそうでもないのに、ペットの死による喪失感が、ときには飼い主を「うつ」状態にする、とわたしが通っている精神科の医師は言った。してみると、猫が人間と一緒にお祈りをしたのだ、という妻の言い方も、あながち牽強付会の沙汰とは言えないのかもしれないなと思う。

  数日前、次のような夢を見た。わたしと誰か他の人が、猫の祭壇について、白い花を飾るか、色とりどりの花を飾るかでもめていたのである。わたしは白い花を飾るという意見であったが、その人の意見によると、白い花というのは、キリスト教的で、ここは仏教寺院なのだから、色とりどりの花のほうがよいと言った。その夢の中でいろいろなやり取りの末、わたしたちは要するに、死んだ猫を死後の世界で尊重することが大事で、お互いの花の色は、尊重はするが、違いはそのままにしておこうという、物分りの良い意見で一致したのである。私は夢うつつで、「これはいろいろな宗教は、死んでしまえば、同じ一つのことを信じているということではないのだということ、宗教は観念ではないのだ」と夢の中で弁明していた記憶がある。これは、花の色の違いを認めながら、違いをそのままにして、同一とか類同を超えた世界、プリヴァーバルな、コミュニケーションの世界の承認が夢の中に出てきたのではないか、と後になって気がついたのである。(07322)

 

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