美 的 宗 教

小田垣雅也

 

 美的感動は、一人称にしかないと思います。わたしは先月の説教「イエスの復活」で、一人称、二人称、三人称の知識の区別をしました。一人称の知識とは、それを対象化して定着させると、それはすでに三人称の知識になっています。「わたしはこう思う。こう感じる」だけでは、それは感想であって知識とは言えません。だから一人称の知識とは、それを対象化し、定着させようとすると、一人称の知識としては消え去るようなものでした。そしてイエスの復活とは、いわば一人称の知識であり、それなのに、それを三人称の知識として説明しようとすることに無理があるのではないか、と言いました。わたしはその文脈で、エマオへの道で復活のイエスが二人の弟子に現れたとき、二人の弟子はそのイエスのことが分からず、後刻、目が開かれて、それが復活のイエスだと分かった時、「その姿は見えなくなった」という聖書(ルカ伝二四章二八〜三一節)の記述を引用したのでした。そもそも知識とはすべて三人称のものです。一人称の知識が説得的になるのは、その論拠を、三人称の知識、つまり公共の知識に依存しているからです。学校で習うのはすべて三人称の、公共の知識です。美術や音楽の時間というものもありますが、音楽的感動、美術的感動そのものを、教えることはできません。教えることができるのは、それらの美的感動のあり方とか、せいぜいそれを表現する技術であるにすぎないでしょう。

 職人の芸は、教えてもらうものではなくて盗むものだということがよくいわれますが、それは親方の狭量のせいではなくて、芸に対する美的感動そのものは、三人称の知識のように、教えられるものではないからでしょう。芸に対して美を感じない弟子にいくら教えても、その弟子の中に美的感動そのものを湧き出させることはできません。つまり、ダメな弟子は親方が何を教えてもダメなのです。芸は一人称のものだからです。落語などを聞いていると(わたしは耳が悪くてよく聞えないのだが、それでも字幕などである程度は分かる)、つくづくそう思います。それが、職人が弟子に芸を教えない理由でしょう。弟子の中に美的感動があれば、それを教えるまでもなく、その弟子は芸を盗んで独りで伸びていきます。

 

 今年はもう新緑の季節になりましたが、桜が咲く頃、わたしは毎年、自転車でICUの桜を観に行っていました。しかし今年はわたしも七十六才になるし、自転車で片道四〇分の道のりを往復することにいくらか不安がありましたので、大事をとって、ICUへ自転車で行く事は今年から諦めました。電車とバスで観にいくには大回りになります。そのかわり、と言う言い方はおかしいですが、家の近くの神田川に沿って咲いている桜とか、その他そこここに咲いている桜を見て回りました。どこの桜も美しい。花吹雪の時期は、同じ場所に咲いていても、木によって違うことも発見しました。花吹雪は桜独特の風情ですが、花吹雪の中に立つと、わたしは毎年感動します。しかし今年は花吹雪の中に立ちながら、花吹雪がなかったら、桜の美しさは半減するだろうなと思ったのです。そして「散るからこそ花は惜しまるれ」という言葉を思い出しました。散らない、または枯れない花は美しくありません。桜の花吹雪は、そのことを劇的に表現しています。造花が美しくないのはそのためだと思います。たとえば桜の造花は、いわば三人称に定着した桜です。それは散りません。だからそれはウッカリすると、埃に汚れていたりする。埃のついた、生きた花というのはありません。それは存在矛盾のようなところがあります。

 しかし散るから花は美しいことの宿命として、美は移り行きだ、ということがあるでしょう。これは花には限りません。少女はみな美しい。わたしは音大に勤めていた頃、化粧の濃い女子学生に、「きみたちは生のままで美しいのだから、化粧などはするな」と説教を垂れたことがあります。嫌がらせの年令、ということでしょう。しかしその少女が成長して大人になると、その美しさは減退します。移り行くことは、美であることの宿命だと思います。。キルケゴールが、美は移り行きだと言ったのは、美が決して三人称として定着しないこと、三人称として定着してしまったら、それは美と呼ぶには相応しくないということを言っているのではないでしょうか。しかし思うのですが、このような移り行きとしての美の本性には、一種の頽廃、ニヒリズムが含まれてはいないだろうかと、わたしは今年、花吹雪を眺めながら、それとなく考えていました。むかし読んだので忘れてしまいましたが、キルケゴールは美的生活の典型として、ドン・ファンを挙げていたと思います。美が移り行きの中にあるのならば、その典型は、美しい女から他の美しい女へ移り行くドン・ファンということになるでしょう。一人の女性を終生、妻として愛する誠実さは美とは別の事柄です。ドン・ファンが頽廃した生活を送っていたか否かは別として、少なくともドン・ファン的な生き方が、時間とともに移り行くという自分の存在性そのものに正確に向き合わず、美を求めて移り行き、存在者として健全な生活を送ってはいないとは言えるでしょう。だからその生活の行き着く涯は退屈だ、とキルケゴールは言ったのだと思います。花吹雪のような美しさの中には、何か頽廃とニヒリズムの感覚が潜んでいると言ったのはそういうことです。梶井基次郎が「桜が美しいのは、その根元に動物の死骸が埋まっているからだ」と言ったのは、そのことに関係あるかもしれません。

 

 先日、新聞で寺山修司のことを読み、それに感動し、慌てて本屋に行って『われに五月を』という寺山修司の作品集を買ってきました(思想社、一九九三年)。新聞紙上で感動した詩の一節とは次のようなものです。「きらめく季節に たれがあの帆を歌ったか つかのまの僕に 過ぎてゆく時よ」。また次の歌は、寺山の代表的歌ですから、知っている人が多いと思います。「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」。わたしは以前、この歌を図書館で偶然知り、ビックリして書きとめた記憶があります。これらの二つの歌が、「つかのまの僕に 過ぎゆく時よ」という詠嘆にしても、「身捨つるほどの 祖国はありや」という祖国なるものへの憧れにしても、それらが永遠への思慕を表現し――たぶん無意識に――、そういう哲学的真理を詠んでいることは明らかです。それは哲学的真理ですから、その意味で、三人称的知識をうたっているのだと思います。しかしこれらの歌そのものは論理的ではありませんし、論理的ということなら、何を言おうとしているのか分からないところがあります。これらの歌は、入学試験の問題には決して採用されないでしょう(因みに言えば、わたしの著書の文章が、ある中国地方の私立大学の入学試験の問題に採用されたことがあります。後でそのことへの挨拶と、わずかな稿料が問題集の出版社から送られて来ました)。しかしこれらの歌それぞれの全体には、永遠への深い憧れ、時間的存在者である自分への深い哀しみと思慕がうたわれています。その思慕と哀しみは、寺山という詩人(これらの歌は寺山が十代のときの作品であるそうです。『とびやすき 葡萄の汁で汚すなかれ 虐げられし少年の詩を』)の一人称の感動をうたっていることは明らかであるでしょう。だからこれらの詩には、一人称の感動と三人称の知識の、危うい橋渡しがあると思われます。そのことにわたしたちは感動するのでしょう。元来、詩とはそういうものだ思います。

 このことは、三好達治の有名な歌、詩集『測量船』の序詩でも明らかです。「春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠く なりにけるかも」。旅の終わりとか海、その中で車窓から遠くなっていく海面に浮いている鴎などが、永遠と自然への思慕をうたっていることは明らかです。しみじみとした叙景がここにはあります。その意味でこの風景は三人称的情景であると言えます。しかしこの詩全体で醸し出している叙情は、詩人三好達治の一人称のものであり、そのことにわたしたちは感動するのです。しかし三人称的叙景なしには、一人称的感動も、詩の中に呼び出されることはありません。ここにあるものも、一人称的感動と、三人称的知識の危うい橋渡しでしょう。ハイデッガーが、優れた詩は世界を呼び出すと言ったのは、このことではないか、と思います。

 

 わたしが美的宗教と言うのは、信仰というのは本来そのようなもの、一人称的感動と三人称的知識の橋渡しの性格をもったものではないかということです。一人称的感動と三人称的知識が一致することはありません。一人称の知識は、知識として定着されたとき、それはすでに三人称の知識でして、一人称の知識としては消滅しているのですから、それは存在として、危うい性格のものだと思います。信仰は定着した堅固な哲学体系ではありません。定着して体系になったとき、その宗教は堕落しています。シュライエルマッハーやヘルダー、コウルリッジなどが主張したロマンティシズム的神学というものも、それと別のものではないのではないか。

 すでに何箇所かで書いたことがあるように、わたしはロマンティシズムと、ネオ・ロマンティシズムと呼ぶものを区別することにしています。それはこうも言えるかもしれません。ロマンティシズムは、美から美への移り行きだけであり、したがってある種の頽廃と敗北の気分をもっている。そこには三人称的対象性はない。あるのは一人称的情感だけである。それに対してネオ・ロマンティシズムとは、一人称的信仰と、三人称的知識の橋渡しであると。それは世界を呼び出しています。それは存在として危ういが、しかし存在として危うくないものが、そもそも人間に、真実としてあるだろうか、とも思います。

(06502)

 

 

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