薫   風

小田垣雅也

 

I さんによると、「ヨットは風をつかまえようとはしないのですね。受けて流すだけ」なのだそうである。わたしがすぐ思い出したのは「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」という、ヨハネによる福音書三章八節の言葉である。これはもちろん風のまにまに流される勝手気ままな生が霊から生まれた者の生き方だということではない。天然自然な生がすすめられているのである。風に対して天然自然であることがヨット帆走のコツであるかもしれない。

 わたしたちはそれとなく、風を「つかまえて」海面を疾走するのがヨット帆走であると思い勝ちである。有名なアメリカン・カップの写真などを観るとそう思う。あれは帆を半球型に膨らませ、風を捕まえて走る。しかし風を捕まえただけだったら、ヨットはマストが折れたり、転覆したりするのである。詳しいことは知らないが、転覆の一歩手前まで風を受け、そしてそれを流す。19世紀のおわりに、香港から紅茶を積んでイギリスまで運ぶ帆船、いわゆるチャイナ・クリッパーの競走では、帆船が転覆する一歩手前まで船を傾けて限度一杯に風を受け、その風を流しながら走るのが船長の腕であるという話をどこかで読んだことがある。風をうけて、それを流す。その風の流路に乗ることが帆走の要諦であるらしい。それは風を「つかまえる」ことではないだろう。

 もともと、あるものを「つかまえる」ということは、ヨハネ伝の中のイエスの言葉が示唆しているように、たぶん、有害なことである。それは対象を自分の必要から捕まえること、言い換えれば、対象の主観化だからだ。海面を吹いている風はヨットを走らせることなどを意図して吹いているわけではない。ただ海面を自由に吹いているだけだ。それに乗ってヨットを走らせるのである。風に乗るのではなく、風をつかまえてヨットを走らせようとすることは、その風をヨットの視点からつかまえ、それを主観の意図で縛ることである。たぶんそれではうまく帆走するとこはできない。本来、風は思いのまま吹いているものだ。それは、いわばヨットが生きている場である。ヨットが先にあるわけではない。

 

 思い込みというのは恐ろしい。それは自分を中心にした合理主義的構図で、自分のまわりにに周りの世界を構築し直そうとすることである。合理主義とは自分の視点から、周囲の物事を秩序づけることだ。ヨットがヨットを発想の中心にして風をつかまえようとしても、風はヨットを中心にして吹いてはいない。だから自己中心的な合理主義では、いろいろな面で無理が生まれる。それではヨットのマストが折れたり、転覆したりするだろう。

 わたしがこれを書いているのは二〇〇五年の四月だが、いま中国で反日のデモが荒れ狂い、日本の大使館や各地の領事館のガラスが割られたり、石が投げ込まれたり、いろいろな乱暴狼藉が行われている。いつだったかサッカーの試合が日中間であったときも、日本の公使館の車が壊されたようなことがあった。わたしはそれを見ていて、つくづく思い込みの恐ろしさについて考えた。双方にはいろいろな理屈があるだろうが、あの群集心理は「思い込み」によるものだろうと思う。日本にも小泉首相の靖国神社参拝やいわゆる教科書問題など、中国人が嫌うこと、そしてそれには充分理由があることもある。しかし日本の現状は、それだけではないだろう。少なくとも中国群集の乱暴狼藉の対象の「小日本」だけが日本全体ではない。今日の新聞にもでていたが、中国の群集たちは共産主義国家特有の思想教育を受け、日本を悪者に仕立て、そう「思い込んで」乱暴狼藉に及んでいるにちがいない。彼らは「愛国無罪」と口々叫んでいるそうだが、それは中国の為政者たちが若者たちに吹き込んだ言葉だという。

 群集心理は「思い込み」によるものだと思う。中国国内での貧富の差、役人の汚職、拝金主義などの不満の捌け口を、中国の為政者たちが日本に向けさせている。暴徒を下手におし留めると、民衆の不満が自分たちに向けられるので、それを避けるために、デモの暴動を黙認しているのだという。おそらくそれが、中国指導部の目算なのだろうと思う。理由は何であれ、日本の公館に狼藉を働いて、それに謝罪しないことは、どう見ても国際常識から外れている。国際社会の「風」から見ると、あの狼藉がいかに独善的な「思い込み」によるものであるかは、少し頭を冷やせば分かるはずだ。

 しかしこれは現代の中国に限ったことではない。わたしは日本の六十二年安保改定闘争の時の、わたしを含めたこの国の精神状態を思い出す。あれも「思い込み」によって「風」をブロックした運動であったことは今にして振り返ればよく見える。当時、首相であった岸信介が「声無き声」を聞くのが政治家の役目だと言ったり、別の時に、首相の福田赳夫が「民衆の声にも時々変な声がある」などと言い、わたしたちはそれを聞いて不愉快であったが、それが国際情勢を吹いている風を見落とすことへの慨嘆であるのなら、その気持ちは分からないことはない。安保改定が必要であったことは、その後のこの国の現代史が証明しているだろう。

 

 I さんは「ヨットを始めてから、風に敏感になりました。風に吹かれて過ごしています」と言う。それには、新緑を渡ってくる薫風がいい。頃は五月である。風にはいろいろな表情がある。秋風は蕭々としている。それは終末を予想しているようだ。決してそれに吹かれて快適なものではない。「裏を見せ、表を見せて散る紅葉」の良寛の句は、風が絶えている情景になっており、そのことがかえって終末を暗示している。また春風は優しいが、桜の花吹雪が感動的であるのは、優しい春風に桜がハラハラと散るからだ。春風そのものは穏やかで優しいだけだ。ときどき吹く春の烈風や冷雨に桜が散るのには、当たり前すぎて、わたしたちはあまり感動しない。いつだったか市谷の土手の、満開の夜桜の下を友人と散歩したことがあった。桜は、あるともない風にハラハラと散っていた。それは春の宵を象徴していた。

 わたしたちは五月の薫風のような、さわやかな生を送りたい。「風に吹かれて」気持ちがよいのは五月の薫風であろう。夏の夕べの涼風も気持ちがいいが、それには日中の烈日の記憶がある。しかしさわやかさには、ある種の欠如感が必用なのではあるまいか。夏の夕べの涼風のように、求めるものがすべて手に入ってしまった後の生は、さわやかではない。求めるものをすべて手に入れようとし、「つかまえよう」とするのが合理主義的である。折角受けた風を流すこと、それを「つかまえよう」としたりはしないこと、そのある種の思い切りが、五月の薫風というものであろうと思う。そこには一種の欠如感がある。

 風を「受けて流すだけ」という思い切りは、その風が一期一会の風であるという風情をもっているからはあるまいか。風を帆にとらえて、それを「つかまえ」、手元に置いておこうとしたりはしないのである。それは風の流路をブロックしてしまうことだ。そして一期一会の風とは「いまそしてここ」の風を、掛け替えなく生きるということでもある。五月の薫風はそういう気配をもっている。たぶん、ヨットの操帆も、一期一会の風との出会いなのだ。それは大袈裟に言えば、永遠の彼方から吹いてくる風に乗ることでもあるだろう。風に敏感になり、ただそれを受けて流すだけ。ヨットを帆走させることは、案外、哲学的なことであるかもしれぬと思う。 (05420)

 

 

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