お 前 な

 
小田垣雅也

 

 三浦朱門がローマのカトリック教会を初めて見物してきて、その余りのけばけばしさにあきれ、友人の遠藤(周作)にそういったとき、遠藤はこのように答えたと言う。「お前な、それだけはっきりとカトリックに批判的態度をとれるということは、つまりもう信者になっているということだぞ」。

 ここには、カトリック信仰ということに関して、ある重大な示唆があると思う。もともと信仰というものは、このような論理的な矛盾に裏打ちされているのではないか。つまり、「批判的態度」と「もう信者になっていることだぞ」ということは、矛盾していよう。しかしその矛盾のなかにこそ、信仰の現実がある。「批判的態度」と、「もう信者になっているということ」、つまり現在の状態では不信者であるということとは、この種の矛盾を内にはらんだものではないか。信者の対義語は不信者である。

 これは正―反―合の論理から言っても、矛盾していよう。もともと、信仰を持っている、ということは、近代自我を前提にするものだ。信仰とは、それを持つとか持たないという対象物件ではない。近代自我は、周知のように、ヘーゲル(1770〜1831)によって、形成された近々250年間の思想である。先ず主観に対して客観の構図がある。そして、主観―客観構図を正にして対立する反は――現代ではいろいろあるが――その「いろいろある構図」ではないのである。それらはなべて正―反―合(我)になってしまう。しかし、それは、もともと矛盾している。正―反―合にたいするこの矛盾が、この現代思想に対する「誤解」を一層なものにしている。

 これはたしかヘーゲルの構図だが、正反対の両者を「合」にして、その両者を含んだものにすることはできない。それはヘーゲル弁証法の大嘘である。「合」はこの場合、それが実体であるかぎり、「無」に(正―反―合の本来の「合」)にはなりえないであろう。もし非実体であったら、その「合」は、次の「合」となり(正―反―合の「合」となり)、その弁証法は無限につづくことになる。これが正しい意味での弁証法であり、それこそが実体としての本来の「合」の事情である。
 近代の知では、「正―反―合」を考えるのは、あくまでも「自己」である。その実体としての「自己」を「無にすること」はできない。「無」にしたら考える主体がなくなって、却って矛盾していよう。それが「実体としての」、の意味である。

 一時、佛教とか「西田哲学」「井上宗教哲学」「遠藤文学」などで、そのように考えたことがあったが、その率直な事実を、わたしたちは忘れがちである。「合」は「自己」、つまり「我」ではない。それなのにわたしたちは、「合」と「我」とを無分別に使ったから、つまり「合」を「我」であるとして使ったから、言い換えれば、「我」=「合」と使ったから、この誤解が起こりえたのではないか。「合」は「我」ではないのである。遠藤がこのように考えたことは、正しい。
 たとえば井上洋治は次のように書いている。「・・・について『を知る』ということと『について知る』ということを区別した後、・・・この主客対立を前提とし、主体について思考するのが、ギリシャ・ヨーロッパの考え方の主流とするならば、古事記以来の日本文化の底を流れてきたもののとらえ方は、あきらかに『を知る』ということに重点がおかれていたように思えます。それは日本人がもっとも関心をもち、また大切にしてきたことが、主体に対立する客体としての世界ではなくて、主体も客体も共に包み込んでしまう根源的な生命力ともいうべき何かであったからだと考えられます。」(井上洋治『日本とイエスの顔』、北洋社、1977年(第6版)、23頁)。これは合体ではなくて「無」だろう。少なくとも、(ヘーゲルの)実体としての「合」ではないだろう。

 大体、ヘーゲルの『精神の現象学』は、それまでせっかく続けてきた「精神」が、絶対精神によって止揚されること、その「精神」が三段論法によって「自然宗教(正)―キリスト教(反)―絶対精神(合)」と止揚されることを前提にしている。これは修士論文で書いたことがある。つまり、そこで「絶対精神」の弁証法発展が止まってしまう。弁証法的発展は、「合」が実体としてあるかぎりありえない。信仰はポケットに入れられる所有物件ではないのである。そのことは認識論的には曖昧なものとなる他ない。

 わたしはいままで、哲学の本は大分読んできたが、もしそのことがあり得るとすれば、「絶対精神」は「無」にならなければならぬということだ。これは「自然」(じねん)でもそうだ。これは、井上宗教哲学の裏の事情である。井上は東洋(日本)精神からそうなった。わたしはそれを「表」から、「そうはありえない現実」として主張したい。
 井上や遠藤の主張は別として、なぜ「絶対精神」が「無」なのか。それは、絶対=無だからである。正―反―合、つまり弁証法の中で、であるかぎり、それは弁証法であるというその事実から、それの「合」は「絶対」ではない。弁証法は弁証法である。実体は弁証法ではない。しかし井上宗教哲学や、冒頭で引用した遠藤は、神は「絶対的対象ではない」と言っている。つまり超・絶対だ、ということであろう。この点は井上、遠藤ともに言いよどんでいるが、たとえば先に引用した井上の「主体も客体もともに包み込んでしまう根源的な生命力ともいうべき何か」という言い方や、遠藤の冒頭の言葉を思い出す。そのどちらも主客を合一する「何か」であるものは、実体ではないのである。「その何か」が実体であったら名前でそれを呼ぶはずである。
 その辺の認識が井上も遠藤も、甘いと思う。キリスト教がキリスト教であるかぎり、この甘さを脱けきれない。キリスト教信仰は「天地のつくり主、全能の神を信ず」る有神論だからだ。有は絶対論理だろう。それが対象としての神であるかぎり、対象である「天地のつくり主、全能の神を信ず」と無との関係は、認識論的にどうなのか。この水準での「対象性」はぬきがたい。それが井上、遠藤の持っている「曖昧さ」であろう。
この次元での神理解での水準では、この曖昧さはのこる。絶対であるもの、「無」であるものが、どうして対象として、「根源的な無である何か」なのか。これは「どちらでも良い」ということではないのではあるまいか。

 これは、「どうせこれまで来たのだから、今までと同じサ」ということではない。わたしが、拙著『憧憬の神学』の「あとがき」の中で井上の(『南無の心に生きる』2003年、筑摩書房)書評を書いたとき(『憧憬の神学』創文社、2003年、183〜186頁)、井上はそれに反対しなかった。反対しなかったどころか、それによってわたしたちの相互理解は、より一層たしかなものになったと思う。南無も憧憬も、その対象は実体ではなくて、無であろう。わたしは以下のように書いている。「しかし『前書き』でも述べたように、憧憬は憧憬の対象を予想している。憧憬の対象を知っていることなしに、憧憬はない。だから、憧憬には、わたしの直接性の表現という要素も含まれているかもしれない。一方「南無アッバ」にも、自分とアッバとの間の断絶が予想されていよう。それ故「南無アッバ」であるだろう。してみると、憧憬と南無はそれほど遠くに立っているのではないかもしれぬ。たぶん、そのはずだ」(同書、185頁)。

 これを読んで、わたしは「憧憬」という言葉を、改めてもっと大事に使わなければならないと思ったのであった。

 

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