職    人

小田垣雅也

 

 わたしの家は南面に広い駐車場があり、向こう半分は芝生になっている。その中に三階建て、タイルを貼った小ビル(用途は、市立の老人向けのアパート)が建っている。そのビルが、数日前から鳶(とび)がパイプで外壁を組み、その外側を布で覆っていた。要するに何年ぶりかの大規模な改装工事である。その布の向こう側は見えない。職人とは、自身がこれまでにやったことが、形として残っていくからいいネと、わたしはそれを見ながら思っていた。わたしのやっている宗教などは、後に何も残らない。
 昨日だったか一昨日だったか、その覆いの向こうから鳶の一人が出てきた。鳶はみな若い。その姿を見て、わたしはアレレと思った。何か威勢に満ちた姿だったからだ。「オレはここにいるぜ」という風な、何となく自分の仕事に威厳をもったような姿であった。「職人は自分のやった仕事が後に残っていくからいいネ」と思っていたせいか、それを眺めていて、わたしの反応は好意的であった。その鳶はインテリ面ではないが、インテリ面はどの顔も同じで、魅力があるものが少ない。
 もう一つ。わたしはテレビで料理番組をよく見る。手の置き方、包丁の使い方、布巾でよく手を拭くがその手の拭き方などは、意識されてはいないが、手で考えることの見本であるような気がした。しかし次のことは強く印象に残っている。それは、彼らが料理の材料を大切にすることである。材料を大切にしなければ、玄人とは言えないね、とそれを見ていてわたしは思った。器の端々にまで着いている材料まで、彼らはきれいに使う。それに調味料をふんだんに使う。素人と玄人の違いは材料に対する愛情ではないかと、その度に思う。そして、彼らは、料理を大事にするために、贅沢な材料や調味料をどしどし使う。素人料理はその逆である。素人は材料費や調味料を倹約し、しかもそれを無駄にする。

 吉行淳之介と開高健の対談『美酒について』を最近読んだが(新潮文庫)、面白くてやめられなくなった。参考までにと思って読んだ『九鬼周造随筆集』『寺田寺寅彦随筆集』『和辻哲郎随筆集』(どれも岩波文庫)などは、それに較べると面白くない。その違いはどこにあるか、とわたしは考えたのである。
 吉行、開高などは、いわば文章の職人(小説家)である。その対談では、彼らが自分の対談にいわば酔っ払い(その対談には酒も入っていたのかもしれないが)、その上で話しあっている。それを見ながら、職人というのは、いわば「内から」、自分の芸を評価している人のことだと思った。自分の仕事に自信のない職人はいない。逆に、初めから自分の仕事に不真面目だと、職人にはならない。それはいわゆる随筆という文学形式の死命を制する。中学生のとき、随筆と小説の違いを学校の先生の教えられて(寺田寅彦の随筆を教科書で読んだときに言われたのかもしれない)、同じようなことを言われたが、分らなかった。その後、何となく分ったような気がした。
 「内から」、自分の仕事に酔っ払って書かなければ、名随筆とは言えないのではないか。随筆と自分の関係は密接である。小説の場合だと、その関係がそう直接ではなくなる。大体、小説の筋書き通りの実生活をすることは不可能である。それには私小説という、日本独自の小説技法がある。作者と作品との間には空隙があるものだ。だからこそそれは、小説というのである。作者は、自分の作品を描写し、自分の文学観でその対象との溝を埋めているようなところがある。阿川の『山本五十六』『米内光政』『井上成美』を読んでいたときそう思った。あれは小説である。どれかの本の解説に、「これは小説であって、やたらに崇拝した伝記ではない」という意味のことが書かれていたが、そう思う。
 そう思う前に、近代のイエス伝のことを論文であれこれ勉強し、書き手の主観を離れた客観的な伝記などは存在しないのだ、と思い知って以来、これは伝記文学を読む場合の、わたしの金科玉条になっている。というよりも、わたしの、文章全体に対する感覚になっている。吉行が「いろの道」を問われて、「(吉行)『やや自信がないですね、還暦近くなると・・・』。(開高)『斯界の巨匠がそういうことを(笑)』。『自然に老いるのもこの道なんだよね。』『うーん。』」などと書いてある(同書一三九頁)。
わたしは昔、「キリスト教倫理」という講義をやらされた。そこで行った講義は、「キリスト教倫理などはない」ということである。「酔っ払っていること」と、規範学としての倫理などと何の関係があるか、ということを講義するのがその講義の目的であった。これはいまでもそう思っている。実際、パウロの「罪人にして同時に義人」は規範学としての倫理そのもの否定である。カトリックは一見モラル神学の要素があるが、中世ではそういう方法をとる以外、人々をカトリックの教えに気ずかせることはできなかったであろう。信仰の主体と対象が分かれたのはルターからである。またデカルト以降の主観―客観構図は近世になって発達した。
 倫理などに捉われている間は、まだ駄目なのだ。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれるからである」と言ったのはイエスであった。律法を否定したのはパウロやルターである。引用した聖書の箇所も、そういう意味で理解されるべきであろう。
 律法に替わるべきものは「自然」(作為に対する自然)である。自然であることは何事でも大事だ。何事も作為はだめなのである。随筆ではとくにそうだ。「それが自然だ」と上記の引用で吉行も言っている。吉行の本質はそこにあるだろう。吉行は、混ざり気がある作品を、もっとも嫌った作家である。

 九鬼周造、寺田寅彦、和辻哲郎などはどうか。吉行・開高の対談を読んだあとで読んだせいか、何か面白くない。『九鬼周造随筆集』を読んでも、何か打ちとけない。「酔っ払って」書いてはいないのである。つまり「内から」書いてはいない。有名な『「いき」の構造』をむかし読んだときも、「『いき』とは何か」に対する回答があるのかと思って勢い込んで読んだが、いろいろ資料的なことが分析してあって、これが「いき」だ、というものそのものに出会わなかった。『「いき」の構造』を書いている九鬼の姿勢そのものは、「いき」とは遠いだろう。それは「酔っ払って」はいないのである。これは「いき」の「外から」書いている。「いき」は「酔っ払って」書いてのみ、「いき」に対する随筆になるだろう。九鬼は男爵だか子爵だかの金持ちで、若い頃ヨーロッパ留学の経験なども書いてあるが(もっとも、最近は留学しやすくなったが、)どうも気に食わない。
 もう一冊(二冊)『西洋近世哲学史・稿』(上・下、岩波書店)というのを読んだことがある。これは京都大学の近世哲学の講義のノートらしい。わたしは修士論文のとき、それを精読したが(必要上)、これがわたしの近代思想とか主観―客観構図への反対の背景になっている。少なくとも、その間接的背景になっている。近代哲学の本性を、この本によって勉強した。しかし、その本そのものは大学の講義用のノートであるせいか、面白くなかった。いかにも岩波書店が出版しそうな本だ。大学の図書館で借りて読んだので、いまよく憶えていないが、原文などが縦横に引用されていて、それだけに、面白くなかった。
 これは学生に分らせることが主で、九鬼の頭はいい。要点をのみ抜書きしている。近代哲学に対する批判は、用意周到で、いかにも大学的で、したがって面白くない。神学の分野でも、近代神学はイエス伝学であって、それには周到性が必要である。それが本流であり、近代神学はイエス伝学に「酔っ払って」はいない。「酔っ払って」書いたのはルナンぐらいではないか(ルナンには別の難点があるが)。だから近代神学的には問題が多々ある。それはいわゆる「内から」ではないのである。

 S君からの手紙に、わたしの文章が写してあって、そこにはこうあった。「『相対なる自己によって主張された絶対は、それ自体としては相対である』。これは先生(小田垣のこと)から学んでいる大事な考えです」。主観―客観構図を批判的に説明するのならば、この言い方は必然であろう。わたしはこの文章を書いたときのことを憶えている。しかし、そのわたしの主張そのものもまた、相対的なのである。これは「内から」という事態は、その先の「内から」を予想しているからである。これが、わたしがものを書く場合の一番難しい点だ。

 しかし宗教的言語とはそういうものだと思う。宗教的言語とは、何よりもそれに「酔っ払った」、「内から」の言語でなければならないし、もっと正確にいえば、この内へ向かうスパイラルを、いかに切断して、わが実生活に移すかということであろう。そこにどういう規範学があるか。それが悟りだし、信だ。それは「教外別伝」であり「文は殺し、霊は生かす」である。職人の必然性にも通じる。「いろの道」は駄目だ、などと言っている間は、まだ駄目なのである。宗教は倫理ではない。

 

 

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