人  格  神

小田垣雅也

 

 ある資料によると、宇宙が誕生したのは一三七億年前だそうである。また、分子生物学者である福岡伸一氏の本『できそこないの男たち』(光文社新書、二〇〇八年)には次のように書いてある。「地球が誕生したのが四六億年前。そこから最初の生命が発生するまでにおよそ一〇億年が経過した。そして生命が現れてからさらに一〇億年。この間、生物の性は単一で、すべてがメスだった」(同書、一八二頁)。さらにこうある。「<生命の基本仕様>――それは女である。本来、すべての生物はまずメスとして発生する。メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しし、細い横糸の役割を果たす“使い走り”に過ぎない――」(同書、一八四頁)。
 福岡氏はその例として、現存のアリマキをあげている(一七三頁以下)。メスのアリマキはオスを必要とせずに子供を産む。子供は当然すべてメスであり、メスだけで世代をつないでいく。しかも彼女たちは卵でではなくて、哺乳類のように、子供を子供として産む。この場合、一般の動植物のように、男女間の交尾と受精は必要ない。
母親のもつ卵母細胞から、子供は自発的・自動的に作られるのだという。これは単為生殖というらしいが、単為生殖をしている生物は、現存しているものでも、アリマキのほかにたくさん居るそうである。この場合、二つの性の間の葛藤は一切、必要なくなる。哲学も文学も、あらゆる芸術もなりたたない。

 わたしたちが自然を感得する場合、そこに大きな女性性を感ずるのは、このように、もともと自然の原理は女性であったからかもしれない。また、話がいきなり小さくなるが、わたしたちの年代になると、環境への適応性において、老爺は老婆にはかなわないと思うことがしばしばある。男性は論理的で、周囲との関係がギスギスし、周囲を自分に合わせようとするのに対して、女性は周囲との関係が、しっくりしているからであろう。男性がロジックであるのに対して、女性はロマンティシズムのものだ。女性の老婆より、男性の老爺のほうが、数が断然少ないのは、そのためかもしれない。

 しかしこのこと、卵母細胞とか単位生殖ということは、そもそも性というもの、男性はもとより、男性と区別された女性という性がないことでもある。わたしたちが性を知るのは、たとえ「できそこないの男たち」としてであっても、女性に対しては男性があるからである。存在するものが女性のみということは、そもそも性というものそのものが無いことを意味していよう。女性は男性と区別されてこそ、そもそもそれが性というものであり、性としての女性性をもっている。生命が発生したとき、すべての生命は女性であったということは、科学的・生物学的には事実なのかもしれないが、認識論の問題としては、言えないことではなかろうか。
 地球発生以来四六億年、そこから最初の生命の発生までがおよそ、一〇億年、生命が発生してから一〇億年というと、これは少なくとも人間にとって、概念に窮するということではないのか。歴史は、トレルチが言うように、批判・類推・相関性が前提である。歴史が届かない概念は、伝説、さらに神話になる。それは歴史ではない。天地創造神話のようにである(”Ueber historische und dogmatische Methode in der Theologie” Gesammelte Schriften II, Tuebingen: J.C.B. Mohr, 1913, S.729ff.)。人間が一〇〇年生きるとして、一億年はその百万倍である。そんなものは人間に誰も想像がつかなかった。少なくともその現実が分かりうる地点に、人間は立ったことがない。
 これは考古学上の発見をとってみてもそうだろう。何億年前の地層から発見されたという場合、わたしたちはそもそも何を考えているのか。たとえば二億年から一億年前の白亜紀に恐竜がいたという場合、人間はそもそも何を考えているのであろうか。億年というのは、歴史を超えているということであり、有限な生命にとって、無限ということに均しい。少なくとも人類にとって、これは意味がない数字である。
 地球には北極と南極があるし、陰・陽、男・女、プラスとマイナスの二極があるということは、わたしたちの思考の前提である。生物には必ず性別がある(アリマキのような例外はあるにしても)。わたしはこれまで、繰り返し、人間の関係存在性とか、信と不信の「間」性、悟りと迷いの二重性ということを言ってきた。それはそもそも区別される両者を超えた、その意味で絶対無なる、言い換えれば宗教の「宗」なるものであることを言ってきた。それは区別を超え、区別される両者を含むという意味で、根源的な意味でロマンティシズムのもの、女性的なるものであると表現できるかもしれない。しかしそれは、男性と区別された意味での女性ではなく、すべてを包み込むような、有―無を超えた意味での女性性であり、アリマキの例は、そのことの一例なのかもしれぬ。

 アリマキの例は別として、そういう無性性、超越的女性性を「人格」と表現することは、理解できよう。なぜなら、わたしたちは人格なのだから、ほかに表現の仕様がない。その超越的女性性を「対象・物質」と理解するよりも、人格のほうが、はるかに実情に即している。物質は必ず対象認識に的なる。もともと人格は流動的なもので、とらえどころがない。それは対象・物質になることを否む。「絶対無」が、道元にしても、親鸞にしても、また西田幾多郎にしても、人間と結びつくのは、このせいではあるまいか。

 戦時中のドイツ教会闘争で獄死したディートリッヒ・ボンヘッファーが獄中で書いた約一〇〇通の手紙が友人のベートゲによって編集され、それが書簡集『抵抗と服従』(平石善司抄訳、白水社、一九九三年)として出版されているが、その中で彼は一九四四年七月一六日にこう書いている。「ぼくたちはこの世に生きねばならぬ――『たとえ神がいなくとも』ということを認めることなしに、正直であることはできない。そしてまさにそのことを認めるのは――神の前においてである。・・・・神という作業仮定なしにぼくたちをこの世に生かしてくれる神は、ぼくたちがたえずその前にたっている神である。ぼくたちは神なくして、神の前に、神とともに生きている」(同書、三四八頁)。神の存在とは、こういうものであろう。それは敢えて言えば、人格的なのである。

 本当の信仰とは、イエスまで、ないし釈迦までであって、それを超えて、絶対なる神、ないし絶対無が、男か女かということになると、話は一挙にお伽話めいてくる。それは狭い意味での、対象としての、「人格神」になる。それは神話での復活であろう。人格とは、対象にならないものを人格と呼ぶのである。生命が一つの対象になったら、それは必ず、男か女かに分類される。よく言われていることだが、観世音菩薩は、男か女かの水準を超えている。薬師寺展が〇八年の春にあったとき、月光菩薩、日光菩薩が四囲から見られるようになり、それを観に行ったが、あの背中は女性以外の何者でもなかった。
 仏陀は男か女か?その問いを仏陀そのものに向けることはできない。釈迦は男である。しかし釈迦はたまたま、男であったにすぎないだろう。その男が、絶対無なる仏陀を具現しているのではなかろうか。ユダヤ教・キリスト教の伝統でも、「父なる神」とは、ベドウィンの遊牧民が、砂漠地帯にあって、男性なる指導者を必要としたから男性神なのであって、だからその神は「父なる(男性)神」なのである。
 「父なる神」という概念に、いわばブロックされて、キリスト教の神は伝統的に男性であった。カトリックのマリア崇拝は、この欠を補うものであるかもしれない。大体私たちが「神よ、仏よ」と言う場合、本当に「父なる神」「男性なる仏陀仏」を思っているのだろうか。そうではないだろう。男性・女性を超えた、ということは男・女という対称性を超えた、ある「大きなもの」「全体なるもの」「自然なるもの」を信じているのではないか。それが復活ということではあるまいか。
 そしてそれは、すべてを包括するという意味で、根源的な意味でロマンティシズムのもの、女性的なるものである。少なくとも区別を事とする男性的なものではない。ましてそれは男性と対向した意味で、その対極概念にある女性ではない。宗教、そしてまた自然が、ロマンティシズムのものであるのは、この超女性性にあるのではなかろうか。

 「原始、女性は太陽であった」と宣言したのは平塚らいてうであり、これが二〇世紀の女権論のよりどころになったが、これは素朴な形で、右に説明したような、根源的原始性が女性的なものであることを言っているのかもしれない。それは概念や区別が現れる以前の、超女性性のこと、「全体なるもの」「大自然なるもの」を、本当は、意味していたのではないか。それは単に、封建主義的家父長性に対する反対に留まるものではないだろう。しかしそれが、男性に対抗しての女性の権利の主張であったことが、当時の女権運動の限界であり、気になるが。 
 読み直してみると、ひと頃アメリカで流行った女性神学者たちは、この超女性性を言っているように読める。シイラ・コリンズによれば、神は「全体性」だという(Sheila Collins, A Different Heaven and Earth, 1974, p.173)。そもそもわたしたちが認識できるものは、区別を前提しており、したがってそれは全体性ではない。区別とはもともと、男性のものである。男性と「区別」された女性は、その意味でそれはすでに「全体性」や超越的女性性ではない。全体性とは「概念に窮した」(億年の単位のように)もの、その意味でそれは人格的なもの、超女性性のものではないのか。またローズメアリ・リューサーは、神は「対立の新しい一致を見出すような、より深い必然的視野から生まれねばならない」という(Rosemary Reuther, Liberation Theology, p.22)が、ここでも率直に、男・女という二元論的「対立の一致」を超えた「全体性」が、「対立を超えた」ものとして、女性神学の神だと主張されている。もう一つ例をあげると、メアリー・デイリーはある著書の中で、男・女という二元論を超えた全体なるものは、認識の水準では存在しないから、わたしたちは「無の経験に直面する実存的勇気を必要とする」と言う(Mary Daly, Beyond God the Father,1973, p.23)。ここでは率直に、男・女という区別は、近代の「二元化―具象化―対象化症候群であり」、それは父権制的意識の特徴であるといっているのである(ibid. p.33)。区別(男性の論理)を超えたものは、無であると言われているのである。これらは、男性と区別された意味での女性の主張ではない。少なくともそのような言葉は使われていない。

 全体性、無なるもの、大自然なるもの、根源的に女性なるものは、三位一体論的あり方をしている。それはまず、男・女という対立する両性と、そもそもその男・女という区別がありうるための場としての、男・女・その超越的女性性の場、の三位である。それをあえて表現するとしたら、それは人格性であろう。このことを、伝統的キリスト教の、神の人格としての三位一体論は意味しているのかもしれぬ。それは無性的超人格である。そしてそれは、「すべてを含むもの」としての女性性であろう。最前から、わたしはこの無性的超人格が超女性性であるといっているのである。そういう意味でなら、生命のすべての根源は女性的なものである。そういう根源的現実を表現しているのが、イエスの復活ということではあるまいか。

 

 

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