花 吹 雪 と 復 活


小田垣雅也

 

 桜の季節も過ぎたが、花吹雪の中に立つと、わたしは毎年感動する。この感動は何かと考え、それは花吹雪が、ある「さりげなさ」とか「とらわれのなさ」を持っているからではあるまいか、と思い当たった。花吹雪には、自分の美しさへの自己否定の要素がある。だから散ってしまう。それが「とらわれのなさ」だ。そして自己否定は、時間的に存在しているものの、大切な要素であろう。数日前散歩していたら、梅も花弁が散ることを発見した。地上に、それらしい花びらが散り敷いていた。沈丁花や木蓮、またバラやつつじのような、花が茶色になっても散らないでいるのは、花の本意ではないだろう。それは美しくない。花のあり方として、矛盾しているからであろう。花の美は「さりげない」風情の中にある。

 毎日ヒマなので、いま興行中の相撲(大阪場所)をテレビでよく見る。わたしが小学生だった昔と現在では、相撲のもっている雰囲気が、かなり違っているなと、ときどき思う。わたしの子供時代は、かの六十九連勝を飾った不世出の名横綱双葉山、その好敵手であった玉錦、また男女川や武蔵山の時代で、相撲力士の雰囲気そのものが、ある「さりげなさ」をもっていたと思う。それが相撲独特の魅力でもあった。日本文化の特徴は「さりげなさ」ではあるまいか。わたしは双葉山が安芸の海に負けた勝負をラジオで聞いたが、アナウンサーが「安芸の海が土俵下の一角で泣いております」とアナウンスしていた声をまだ覚えている。翌日の電車の中では、そのことが写真入りで報道されていた。そして力士が泣くことが放送のテーマになるほど(たしか、昭和一五年)、相撲そのものの雰囲気は「さりげない」ものであった。勝っても負けても、それを表には現さない。勝者も敗者も、喜びや得意さ、哀しみや悔しさを表情にだすことはなかったと記憶している。
 そこには「床しさ」というよりも、西洋自我主義に対する反省が、結果として含まれている。「俺が、俺が・・・」という態度は庶民の美意識には合わない。江戸庶民文化に対してわたしたちがもつ、ある好感は、この「さりげなさ」にあると言ってよい。ついでに言えば、西洋文化での握手は、自分が相手に対して何も武器の類は持っていないことへの証明であると何かで読んだことがある。このように、握手という風習の起源の裏には、食うか食われるかの競争原理にたった自我主義がある。それに対して、相撲の土俵に上がるとまづ一礼し、次に蹲踞の姿勢をとって両腕を広げるのは、相手に対して不都合なものはもっていないことの表明であるという。そのことの、「さりげない」証明なのである。
 いまは相撲の雰囲気が違う。闘争心むき出しである。これはたぶん、外国出身の力士が多くなったせいかとも思う。モンゴルをはじめ、ロシア、グルジア、ブルガリア、エストニア・・・。聞くところによると、彼らは少年のころから、金銭的に一旗上げるために日本までやってきた人々が多いそうだ。そして努力研鑽によって、幕内力士になっている。その場合、「さりげなさ」などとは言ってはいられないだろう。相撲界はもともと金銭のことを口にするほうだと思うが(たとえば「給金直し」とか、懸賞金とか)、それにしても、昔の雰囲気には、金銭のこと、さらに言えば勝負そのものについて、ある「とらわれのなさ」があったように思う。とらわれがないから、勝負や金銭のことを、当たり前に口にするという雰囲気が、たしかにあった。その「とらわれのなさ」や「さりげなさ」が、近年、相撲界から少なくなっているように、わたしには思える。

 しかしこの「さりげなさ」とか「とらわれのなさ」ということは、案外、深い根をもっている美意識の、表に出た生活法であるかもしれない。わたしは二重性ということを繰り返し言っているが、イエスの復活は二重性的な、ある種の「さりげなさ」のものであるように思われる。たとえば復活とは、論理的には「さりげない」ものではあるまいか。ナザレのイエスが、神の子キリストであったという逆説を信ずることが、あえて言えば信仰である。しかし本来論理にはなりえない逆説が信仰の「対象」であるかぎり、信仰の「主体」である人間は、その「対象」から分離され続けている。だから対象は対象としてありうるのである。そしてイエス・キリストという逆説的矛盾は、人間のロゴスの中に取り込まれて、その逆説的対象を信ずるか、信じないかということが、信仰の分かれ道ということになろう。しかし人間のロゴスの中に取り込まれた以上、その折角の逆説も、逆説としての本来の意味を失っているのである。わたしが少年時代、信仰ということに躓いたように、である。
 つまり、イエスが十字架の上で死に、復活してキリストになったという逆説が、信仰の「対象」であるかぎり、それは人間のロゴスの中での復活であり(またはその否定であり)、それは人間の分限をこえた、本当の意味での復活ではないということだ。その場合、復活信仰は虚しい神話になる。だから復活は、復活についての人間の対象論理的信仰が無用とされるときにのみ、復活なのである。
 エックハルトについてはこれまでに何回も言及したことがあるが、エックハルトの言い方によれば、イエスがキリストになったという逆説を信ずるという自分の信仰心の高ぶりを捨てて、その意味で心が貧しくなり(そういう題とテーマの説教がエックハルトにある)、イエス・キリストの復活という逆説を、信仰の「対象」として求めなくなったときに、人間は復活という絶対的逆説の意味を悟るのだと、エックハルトはいう。
 これは人間のロゴスの終焉である。そして人間のロゴスが終焉したところから、ロゴスを超えた次元、すなわち宗教の次元がはじまるのである。実際、パウロがアレオパゴスで「知られざる神」について話をし、復活について言及したときも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言ったのであった(使徒言行録一七章三二節)。イエスやパウロの説く神は、その人々の論理や常識に反した、神を否定するものだったのである。その人々が復活を論理的に否定して、言い換えれば論理と格闘しているのに対して、パウロの説く神は、論理的には「さりげない」ものであったと思う。それは論理の末節を「いなした」ものであったであろう。初代教会のキリスト教は、当時の皇帝礼拝にとっては無神論的であった。またルネッサンスやその地動説が、それまでの伝統的天動説的神の否定であり、ルターの「隠れたる神」は、トマス神学の主知主義的神理解からすれば、神の死の要素を含んでいる。「隠れたる神」の「隠れたる」は、論理的自明性、それを求めての格闘から、「隠れる」ということであり、それは論理の世界にとっては「さりげない」ものであることを意味していよう。理神論にはじまる主観―客観構図による近代神学は、同様に、中世的神律的意識にとっては、無神論的であった。神についての論理の格闘は、このようなものになる。

 しかし信仰とは、論理として、「さりげないもの」ではないだろうか。復活などは、この意味での「さりげなさ」を離れて、対象論理的ないし理性的に、まじめに格闘して分かることではないだろう。「さりげなさ」を離れると、信仰は滑稽なものになるか、熱狂的なものになるか、またはニヒリズムになるか、のいずれかになる。それがアレオパゴスでパウロの話を聞いた人々の心であった。それは論理的「さりげなさ」とは無縁であった。

 二月の説教『Kさんから贈られたイースター・エッグ』の末尾でわたしはバッハ学者磯山教授のバッハ理解に感動したことを書いた。磯山さんはそれをバッハの「やわらかな信仰」という言葉で言っている。しかし「やわらかな」信仰とは、この目下の説教の用語に引き寄せて言えば、結局、信仰の論理的「さりげなさ」または「とらわれのなさ」ということではないか、と思う。バッハは普通、ドイツ敬虔主義を音楽で表現した堅固で「敬虔な信仰」の持ち主だと理解されているが、磯山さんによるとバッハは、決して不動の信仰の持ち主だったのではなく、懐疑も揺れ動きも十分にあった人ではないかと思うにいたった、という。バッハは、決して論理と格闘し、敬虔主義に凝り固まったものではなく、たえず信仰を捉えなおし、信仰を新たにしていた男であったのだ、と。それを磯山さんは「魂のドラマ」と呼んでいる。そのことを、磯山さんは哲学的にではなく、バッハの音楽自身の中から聴き取っている。
 しかし自分の信仰を捉えなおし、それを新たにするとは、生易しいことではない。それは自分の宗教的立場に変更を促し、信か不信かという対象論理を超えることだからである。敬虔主義に固まっていたら、人間は(バッハは)どれほど楽であったことか。そしてその裏で、自分の感性を沈黙させる。しかしそこには、感性的暴力のみがあって、本当の音楽、音楽を通しての美意識は生まれなかっただろう。磯山さんはこう書いている。「ここを確認すれば、バッハは宗教的か否かとか、どの宗派に属していたかという問題は、力を失うのではないでしょうか」。
 わたしがこの説教で言う「さりげなさ」ということも、決して一つの立場に立って、他の論理と格闘することなく、一つの宗教的感性を押し通すことでもなくて、その水準では「さりげない」こと、または「とらわれのないこと」、それが美意識の基本ではないかということである。近代自我の価値観は、何かを大きく、間違っているのではないかと愚考する。

 だから復活節が、いまの、花吹雪の季節にあるのも、あえて言えば、偶然とも思われないのである。花吹雪も復活も、「さりげなさ」を表現するものとして、ある種の感性的親近性を持っているように思われる。(08324)

 

 

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