無  言  館

小田垣雅也

 

 先日、東京駅のステーション・ギャラリーでやっていた『無言館―遺された絵画展』という展覧会を観てきた。無言館というのは、知っている人が多いだろうが、窪島誠一郎という人と野見山暁治という画家が、信州・上田に建てた、戦没学生たちの遺作を集めた美術館である。カタログには窪島氏の言葉として、次のようにある。「かれらの描く絵はことごとく深い静寂に包まれている。この静寂を無言と解釈することは簡単です。しかし無言ということからいえば、無言のまま立ちすくむしかないのは、今を生きている我々のほうなのではないでしょうか―――。」わたしは展覧会へ行ったあとは、いつもきまって饒舌になっている。しかしこの無言館の展覧会を観たあとは、わたしも深い無言のままであった。ルソン島のバギオで、二七才で戦死した日高安典という青年は、「あと五分、あと十分この絵を描かせてくれ・・・小生は生きて帰らねばなりません。絵をかくために・・・」と言って入営して行ったそうだ。

 これらの絵は、そのどれもが幼く素直であった。ギラギラした、それなりに完成した才能の絵は見当たらなかった。幼いことは素直さに通じるのであるかもしれぬ。むしろ素朴な絵が多く、完成からは遠い。考えてみると、わたしは普通の展覧会では、いつも完成した個性と才能を探していたように思う。梅原にしても安井にしても、ビュッフェにしてもゴッホにしてもそうだ。彼らの絵は、それ独自に完成している。それに較べれば、この無言館の青年たちの絵は、痛々しいくらい素朴で未完成だ。しかし無言館の青年たちの絵を見ていると、その素直で未完成の絵が、ある種の完成をも表現しているように思えてくるのであった。これは彼らの未完成が、その裏に完成した姿を、見え隠れに暗示しているというのではない。未完成はまことに未完成のままでありながら、だから彼らの中断は悲劇でありながら、一種の完成、それは哀しいが、その哀しさを超えたある必然を暗示しているように思えたのである。

 

 無言館の青年たちは、たしかに彼らの画業を中断され、戦場で戦死した。そのことは万斛の涙に値するが、しかしまさに彼らの遺作の中に、永遠の完成が暗示されてはいないだろうかと考えたのである。未完性即完成である。そのことを観たようにわたしは思ったのだ。わたしは合理主義とロマンティシズムのことを考える。合理主義的見解によれば、昨日よりは今日のほうが進歩を示し、歴史も、過去よりも現在の方が発展しているという。啓蒙主義的合理主義はなやかなりし一八世紀は、一八世紀こそが歴史の最高段階だと考えられていた。過去は蒙昧な未完の時代であった。そのような合理主義的な眼でみれば、無言館の青年たちの画業の中断は、ただひたすら、言葉もなく無念であろう。

 しかしロマンティシズムの見解によれば、歴史の各時代は、単に次の時代によって克服されるべき蒙昧な時代ではなくて、それぞれの時代がギリシアはギリシアとして、中世は中世として、それ独自の仕方で永遠を暗示し、永遠に直結しているのだという。たしかに無言館の青年たちの遺作も、単に未完性の、中断された画業というだけではなくて、実にその未完性、中断によって、ある種の完成を示しているように思えてくるのである。未完性即完成である。そうしてのみ、彼らのこの素朴な絵も、掛け替えのない、貴重なものになる。

 わたしたちが彼らの遺作を見て無言になるのは、たぶん、彼らの運命に単に同情するのではない。そうではなくて、実に彼らの未完の人生、彼らの中断した画業の中に、わたしたちが永遠を感じ取っているからではなかろうか。彼らの画業はたしかに稚拙と欠陥にみちているが、それはそれとして、全体性を指示しているのだ。それが功成り名遂げた人生によってではなく、未完の画業によるところがいかにも哀しい。ロマンティシズムはいつも切ないのである。それは未完の、中断された姿で、かえって掛け替えもなく、永遠を暗示しているからだ。元来人間には、完成し、安定した生というのはないのではないか。そのことを無言館の遺作は物語っているように思える。

 

 今日は復活節である。先日もこの場所で話したように、新約学者のブルトマンはイエスの復活は神話であり、それは神話の形式で、イエスの十字架上での死という史実の意味を表現しているのだ、と言った。イエスが十字架上で刑死したのは、人々を後期ユダヤ教の非人間化から救い出そうとし、そのことが多くの虐げられた人々を周囲に集める結果になり、一種の社会勢力になって、それが当時のユダヤ教指導者たちにとって危険思想になり、遂に政治犯として刑死したのだという。そのことに対する弟子たちの感動が、復活神話になったのだと。現今、合理主義者であるか否かは別として、イエスの復活を文字通り信じている人は少ないだろう。しかしブルトマンに代表されるようなこの人々の復活理解は少し違うのではないか。

 ロマンティシズムの見解によれば、たとえば無言館の青年たちの絵が、それとしての欠如と中断をもちながら、ある種の完成に直結しているように、イエスという一人の人間の刑死、すなわち欠如と中断の中に、人々がある種の永遠性を見たということ、それが復活ということの現実ではなかろうかと思う。人間イエスの実際の行動の中に、普通の人間の欠如や中断があることは明らかだ。それがなければイエスは単に架空の神の子になる。しかしそれにもかかわらず、イエスは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ、二の七)のである。その普通の人間の中に臨在している神の子性を、イエスの復活という神話で聖書は表現したのではないかと思われる。昔、シュライエルマッハーというドイツの神学者 (1768-1834) は、イエスは単に人間の模範( Vorbild )ではなくて原型 (Urbild) であると言った。シュライエルマッハーはロマンティシズムの代表的神学者だが、模範、つまり人間としてのイエスの中に、原型としての、つまり永遠の人間性を見たこと、そのことが、復活節の真意ではあるまいかと思われる。

 

 現在、毎日のテレビで花の便りが放映されている。開花まで、あと何日か。わたしたち日本人は桜の花吹雪を愛する。花吹雪の中に立つと、人々はいつもロマンティカーになる。わたしたちが花吹雪を愛でるのは、花吹雪という一瞬の中に永遠を感じ取っているからであろう。桜が花吹雪になり、その他の花も散るのは、花にとっては一種の中断である。美しいものは長続きしたほうがよい。しかし散らない花は美しくないのである。それは散るという美学によって、その花が永遠の美しさを象徴しているからだ。手にもつことができ、枯れない花、たとえば造花は永遠を象徴してはいない。花は一期一会が美しい。無言館の絵の前でわたしたちが無言になるのは、それが一期一会の絵だからであろう。「本当はこれが絵って言うものじゃないか」と、野見山氏もカタログの中の解説で言っている。それがなければ、かれらに対する同情は単なるセンチメンタリズムなる。完結してしまった絵は、絵葉書のように味も素っ気もないものになるだろう。

 

 言葉を慎まなければならないが、わたしは無言館の絵の前にたちながら、心の深い水準で、ある種のユーモアと微笑を感じていた。完成を求めながら、人間が人間である限り、完成を手にすることはできない。それにもかかわらず、一途に絵を描いている彼らの姿は、人間の分限への挑戦であり、それは人間の分限を弁えなかったドン・キホーテのようにユーモラスだ。そしてこのユーモアは、人間の哀しさの裏側の事情であるかもしれぬとも思う。ユーモアが、深い悲しみを湛えた人間への肯定に、そして微笑になるのである。 (05329)

 

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