グ ラ ミ ー 賞
小田垣雅也

 

 アメリカ音楽界で最高の権威とされる第53回グラミー賞で、ロック・ギタリストの松本孝弘ら日本の演奏家が一挙に4人、授賞した(2011年度)。すなわち、松本、内田光子(ピアニスト)、上原ひろみ(ジャズピアニスト)、松山夕貴子(琴の演奏家)の4人である。彼女たちはもともと、海外を拠点に活動していた。ひとりB‘zを率いる松本のみが日本でだけだそうだ。朝日新聞によると、グラミー賞とは、アメリカのミュージシャンや音響技術者ら音楽産業にかかわる人の団体が、1958年に始めた賞だそうで、会員が部門ごとに、過去1年間の優れた作品を選んで表彰するのだそうだ。過去にフランク・シナトラ、ビートルズ、マイケル・ジャクソン等、その筋のアーティストたちが受賞したそうである。
 もともとはラテンやポルカなど、多人種国家米国ならではの多彩な部門から選ばれているが、音楽評論家の小倉エージさんによると「今回の複数受賞と必ずしも関連しているとは言えないが、オバマ大統領の登場以降、その多様性に関心をもつ動きが強まっているのかもしない」のだそうだ(『朝日新聞』11年2月15日号・朝刊)。

 内田光子氏(62歳) によると、練習はいくらしてもよいが、練習の涯にあるものは、「感覚」だという。彼女は感覚によって、ピアノを弾いているのである。むかし、ニユー・オーリンズで嚠喨として鳴りわたるトランペットの音に出会ったとき、この裏側にあるのは深い沈黙であろうということを悟ったことがある。騒然としたジャズ小屋で(たしか入場料が1ドル)、深い沈黙を聞き分けるとはイジましいが、そのときはそう思った。嚠喨としたトランペットの背後にあるものは、深い沈黙であろう。

 彫刻の専門家から、「彫刻は彫ってある対象を見るのではなくて、それを包む空間を見るのだ」ときいたことがある。つまり、練習によって上手になろうとか、下手になろうとか(下手になる練習というのはないだろうが)、そういった訓練を超えて、論理を超えた「感覚」によって弾くのだという。この境地では、練習は練習であることの意味の大半を失っている。練習といった論理性は、その芸が上達すればするほど、「感覚」に席を譲るのである。沈黙が背後にあるからこそ、トランペットの嚠喨さもある。
 いかにも音楽は時間的芸術である。「絵は対象芸術だが、音楽は時間芸術だ」と言って、若い頃、自分がその分だけ利口になったような気がしたが、絵の根本的感動は、感動するということそのこと、すなわち時間的なものであろう。そのときは、絵も時間的なのである。その彫刻家が「対象の彫刻は、それをつつんでいる空間を見るのだ」と言ったことがある。そして時間芸術の特徴はそれが消滅するということである。花吹雪が感動的であるのは、それが散って無くなるからだ。

 こういう話もある。
「三浦朱門はバチカンの聖ペテロ大聖堂にも行った。そのバロック建築のけばけばにわたしは幻滅した。
帰国してそのことを遠藤(周作)に言うと、次のように答えたという。『おまえな、それだけはっきりとカトリックに批判的態度をとれるということは、つまりもう信者になっているということだぞ。信者たちはいつも信仰をもちいながら、その答えを求め続けているんだ』。
彼はそうは言わなかったが、 『実はオレもそうだ』と告白したかったのかもしれない。わたしはそれを機に、洗礼を受けることにした。」
(井上洋治・『われら何故キリスト教徒となりし乎』「ある入信」光文社、一九九九年)

 

 これは文化(信仰)には、クリア・カットな結論はないということだ。もし客観性があるとしたら、それは精々、自分という主観の中に取り込まれた客観であろう。クリア・カットに言えば、客観とは自分の主観に取り込まれた客観である。不思議に思うのは、「客観性」を標榜した客観家が「客観的には・・・・」ということをしばしば言うことである。一番いけないのは、その人々が、無神論の言うことを前提し、そこで話が途切れてしまうといった趣があることだ。真面目過ぎてはいけないのである。先にあげた三浦朱門の話も、そういえばよく分かるだろう。「実は、オレもそうだ」である。

 世界的に有名な指揮者である佐渡裕氏が、自分の卒業した中学校で部活の管弦楽の指揮をしたことがある。その感想を聞かれると、彼は「一生懸命に弾いていることは分かったけど、もう一寸、一生懸命じゃなく、余裕をもって、弾けたら・・・」という意味のことを言っていた。これは管弦楽としての「感覚」である。そして「感覚」とは自由なものだ。楽曲は、それに縛りつけられてはかなわない。「感覚」は言わば遊び心から出る。真面目過ぎてはいけないのである。自由からは解釈がでる。その解釈が解釈として正当であった場合、そこから正しい解釈が出るだろう。それを人々は「余裕」と言うのである。

 文化もそれに順じたことだ。音楽は東洋音楽も、西洋音楽も、ロック・ミュージックもみなそれぞれに美しい。わたしたちが東洋的絵画・西洋画も、花も、何でもかんでも美しいものは美しいと思うのも、美しさが、「余裕」をもって美しいからだ。人の血には替えられない。そうでなければ、東洋人の美意識と西洋人の美意識はバラバラなものになるだろう。それでは東洋人であるわたしたちが、西洋音楽を聴いたときの感動は、東洋人・西洋人、それぞれバラバラなものになるだろう。
 文化とは洋の東西を問わないものだ。アフリカ芸術でさえ、美しくて必然的なところがある。つまりそのことは、美は洋の東西を問わないということだ。つまりグローバルなのである。そしてグローバルということは、美には東洋・西洋を問わないということだ。そして美の規準が何処にもないということは、美が無に立脚しているということでもある。美の感動は実は無に立脚しているのである。

 わたしが大学に勤めていたとき、同室の研究者と議論したことがある。その研究者はアフリカ専門の男で、毎年アフリカに通っていた。その男が、アフリカの黒人芸術は美しい、と言っていた。わたしはもともと、アフリカ黒人芸術は美しくない、と言った。それはわれわれ西洋芸術に触れてきた者にとっては偏執狂的で、野蛮で、美しくはない、と言ったのである。これは今でもそう思っている。それは西洋流に美しくはない。それと同時に美しい。その美しさは、普遍的である。

 むかし、秀吉だったかに、茶の宗匠が、切腹させられた。ある時、その宗匠が秀吉に庭を掃除しておくように言われたそうだ。その庭へ行ってみると、そこは綺麗に掃除されており、新たに掃除をする余地はなかった。それでその宗匠は、柿の葉っぱを揺らして何枚かをその上に落とし、それで帰ってきたというのである。たぶんその宗匠は、それが本当に美しいのだ、と思ったのである。美はその裏に欠けた次元があるから美なのだ。それが原因で切腹させられたのかどうか分からないが、美はその裏にかけたところが在るからこそ美しいのである。「余裕」の美学である。
 美とはそういうものである。

 

 
 

 

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