国 母 選 手
小田垣雅也

 

 いまカナダのバンクーバーで開かれている冬季五輪は昼間からテレビで中継されていて、わたしのような暇人にはいい具合だ。力のかぎり戦っている選手たちは美しい。わたしはお昼のニュースは毎日見ているが、開会後数日はニュースの時間も、その時間を潰して中継をやっていた。

 それはいいとして、スノーボードのハーフパイプに出場する国母(こくぼ)和弘選手が、オリンピックにむけて出国するとき、その服装問題でバッシングを受けている。わたしもチラッとそれを見たが、いわゆるズボンからY・シャツの裾を出し、ネクタイはだらしなく伸び、ズボンはずり下げて履き、髪の毛は何本にも分かれて編んでいた。
 それに対して日本オリンピック委員会に全国から抗議がよせられ、JOCは同選手の入村式を取りやめさせたという。橋本聖子団長の判断で、開会式の出席は禁止されたものの、競技への参加は許されたという話だ。ちなみに言えば、フランス選手団は全員が先の跳ね上がったひげを口の上に書いて開会式に臨み、同種目で優勝したアメリカのショーン・ホワイトは、肩よりも長いウエーブのかかった髪をしていたという。ずり落ちたズボンは数知れず。あれは一種の流行になっているのかもれない。しかしそれぞれの国で、それが問題になったことはない。

 このことは、わたしにいろいろなことを考えさせた。早速(というべきか)ジャーナリズムはそれをとりあげ、少なくとも朝日新聞の二月一八日の夕刊では次のように書いている。「シャッター音にかき消され、現場の記者にも聞こえなかったつぶやきが、遠く離れた母国で批判の嵐を起こした。服装の乱れの問題で選手村の入村式出席を自粛した直後の記者会見。監督と選手七人が並ぶ中で、服装に関する質問が重ねられた。・・・『ちつ、うっせーな』。思わず発したつぶやきをマイクは拾った」。
 川端達夫文部科学相は、「国を代表して参加しているという自覚が著しく欠けていた」と述べた。なかには、貴重な税金を使っているのだ、などという見当違いの文章まで、衆議院議員の感想としてあった。

 その後、朝日新聞に関するかぎり、別の視点からの記事、つまり肯定的な記事が多くなった。わたしは国母選手の態度に同意的である。というのは、スノーボードはヒップホップ・カルチャーから生まれたスポーツで、本性そういうものだ。そういう本性のものをオリンピックの競技種目に入れるかどうかは別の話で、スキーの優雅さにくらべれば、そのスポーツとしての本性は明らかだろう。スキーはジャンプもクロスカントリーもアルペンも、男らしくて優雅である。
 ハーフパイプというのは朝日新聞の解説によるとつぎのようである。「コースは円筒を半分に切ったような形に、雪面を掘り下げてある。選手はその斜面を振り子のように左右に滑走して、空中に飛び出すことを繰り返し、技を競う。五人の審判が技の多様さ、難易度、全体の完成度などを採点。・・・縦横の複数の回転を組み合わせた大技など、技術の進歩は著しい。一九九八年の長野五輪から正式種目となった。」

 わたしは旧著『知られざる神に』を書いた当時を思い出す(一九八〇年)。この本は衆目の反応こそなかったが、要するに当時の「反文明文化」(これはcounter-cultureに対する私製訳語。反文化などという訳語がはやったが、カウンター・カルチャーも一つの文化だと思い、この訳語を使った)についての同意である。反文明文化の中に含まれている、既成文明に対する嘘を告発することなしに、信仰という、このもっとも嘘を毛嫌いする文化を主張することはできない。しかしこれまでの信仰論は根本的に嘘の上に成り立っているので、衆目から無視されたのであった。実際、マタイ伝六章五節以下には、会堂や大通りの角に立って祈るのは、偽善者のやることだ、と言ってイエスは禁止している。
 ヒップホップ・カルチャーというのは、カウンター・カルチャーの何代目かの子孫である。これは競技の中だけではなく、生き方そのものとして、「ヒップ」であることが求められている。文化が文化であり、それは時代を風靡するものだという限り、これは当然のことであろう。それは『知られざる神に』に対する反応を思い出すとよく見える。それは時代を先取しているのである。そのかぎり、その責にあるものに責任をおわす。国母は本性、そうしたカルチャーの申し子である。服装その他、生活の万般いたるまでそうであったはずだ。
 メダル候補というスターである以上、いわゆるフレッピー(坊ちゃん、嬢ちゃん)的な、いい子ちゃん的な、ブレザーを普通に着ることは本性できなかったのであろう。これは国母の自覚の問題として言っているのではない。そのようなカルチャーを熟知しているはずのスキー連盟やスポーツ記者が、その程度のことを分らないでいるのかとは、信じられないからである。

 最も惜しかったのは、国母の決勝一回目。バンクーバー五輪用にマスターした大技、「ダブルコーク」に失敗したときだ。朝日新聞の記事によると「回転は十分。しかし着地で転倒し、前のめりにつぶれた」という。二回目も同じ。口元から出血し、その写真も大きく出ていた。この勇敢さ、進取の精神以上に、スポーツにとって何が要るのか。旧蝋を墨守することからは、何も生まれまい。

 両親は、約四千人の観客の最後方にいたという。病院で働く母親の由香理さんは、緊張して息子の滑りをあまり見られなかったという。そして滑走後、記者に「国民の皆様に迷惑をかけて申し訳ない」と謝ったそうだ。素顔を尋ねられると、言葉が揺れたよし。そして「どこでもいる、ただ犬好きな子です」「親の思いは、子どもがいくつになっても変らないと思います」といったそうだ。
 自衛官の父親芳計(よしかず)さんは言葉少なだったそうだ。そしてこう言ったという。「あの服装は日本人として恥ずかしい。反省するよう、二度も三度も言うしかない」。
 国母の中学時代から、けがの治療にあたってきたNTT東日本札幌病院整形外科の井上雅之医師は、胸や足首を折っても、国母選手は決してパイプを離れなかったという。そして井上医師はこう言ったそうだ。「普段は無口な、表現の下手な男。やつにはスノーボードが唯一、自分を表現できる手段だと思う。」
 国母選手が所属する東海大学の准教授相原博之氏の言葉はこうである。同准教授が急遽カナダに来て、「何で大学の大会じゃないのに先生が来たか分かるか」と聞いたとき、国母は「わかっています」と答え、「全力で頑張る」と誓ったという。そして分かれるとき国母は「今日は来てくれてありがとうございました」と言い、おじぎをしたという。
 全日本スキー連盟の出場辞退の申し出を撤回させた橋本聖子団長は、演技後の国母選手に歩み寄り、「お疲れさま」と声を掛けた。国母選手は「ありがとうございました」とペコリと頭を下げたそうだ。(以上、朝日新聞の二月一九日朝刊より)。

 信仰にとって嘘はだめなのだ。嘘の信仰は全然駄目だ。わたしは神学や学問の中に、嘘が巧妙に入り込んでいると思う。そうでなければ、イエスがあんなことを言うはずはない(マタイ伝の引用箇所)。「わたしは本当に、イエスの復活を信じている」という神学者や牧師の方々にそう感ずる。そしてそういうカウンター・カルチャーやヒップホップ・カルチャーは、嘘を毛嫌いし、信仰の真実と、はるかに繋がっていると思う。

 イエスはどうだったか。たぶんフレッピー族ではなかったろうと思う。

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 なお、数日前のニュースによると(またニュースか)、成田に帰国時、国母選手はまともにブレザーを着ていたという。

 

 
 

 

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