国 母 選 手
いまカナダのバンクーバーで開かれている冬季五輪は昼間からテレビで中継されていて、わたしのような暇人にはいい具合だ。力のかぎり戦っている選手たちは美しい。わたしはお昼のニュースは毎日見ているが、開会後数日はニュースの時間も、その時間を潰して中継をやっていた。 それはいいとして、スノーボードのハーフパイプに出場する国母(こくぼ)和弘選手が、オリンピックにむけて出国するとき、その服装問題でバッシングを受けている。わたしもチラッとそれを見たが、いわゆるズボンからY・シャツの裾を出し、ネクタイはだらしなく伸び、ズボンはずり下げて履き、髪の毛は何本にも分かれて編んでいた。 このことは、わたしにいろいろなことを考えさせた。早速(というべきか)ジャーナリズムはそれをとりあげ、少なくとも朝日新聞の二月一八日の夕刊では次のように書いている。「シャッター音にかき消され、現場の記者にも聞こえなかったつぶやきが、遠く離れた母国で批判の嵐を起こした。服装の乱れの問題で選手村の入村式出席を自粛した直後の記者会見。監督と選手七人が並ぶ中で、服装に関する質問が重ねられた。・・・『ちつ、うっせーな』。思わず発したつぶやきをマイクは拾った」。 その後、朝日新聞に関するかぎり、別の視点からの記事、つまり肯定的な記事が多くなった。わたしは国母選手の態度に同意的である。というのは、スノーボードはヒップホップ・カルチャーから生まれたスポーツで、本性そういうものだ。そういう本性のものをオリンピックの競技種目に入れるかどうかは別の話で、スキーの優雅さにくらべれば、そのスポーツとしての本性は明らかだろう。スキーはジャンプもクロスカントリーもアルペンも、男らしくて優雅である。 わたしは旧著『知られざる神に』を書いた当時を思い出す(一九八〇年)。この本は衆目の反応こそなかったが、要するに当時の「反文明文化」(これはcounter-cultureに対する私製訳語。反文化などという訳語がはやったが、カウンター・カルチャーも一つの文化だと思い、この訳語を使った)についての同意である。反文明文化の中に含まれている、既成文明に対する嘘を告発することなしに、信仰という、このもっとも嘘を毛嫌いする文化を主張することはできない。しかしこれまでの信仰論は根本的に嘘の上に成り立っているので、衆目から無視されたのであった。実際、マタイ伝六章五節以下には、会堂や大通りの角に立って祈るのは、偽善者のやることだ、と言ってイエスは禁止している。 最も惜しかったのは、国母の決勝一回目。バンクーバー五輪用にマスターした大技、「ダブルコーク」に失敗したときだ。朝日新聞の記事によると「回転は十分。しかし着地で転倒し、前のめりにつぶれた」という。二回目も同じ。口元から出血し、その写真も大きく出ていた。この勇敢さ、進取の精神以上に、スポーツにとって何が要るのか。旧蝋を墨守することからは、何も生まれまい。 両親は、約四千人の観客の最後方にいたという。病院で働く母親の由香理さんは、緊張して息子の滑りをあまり見られなかったという。そして滑走後、記者に「国民の皆様に迷惑をかけて申し訳ない」と謝ったそうだ。素顔を尋ねられると、言葉が揺れたよし。そして「どこでもいる、ただ犬好きな子です」「親の思いは、子どもがいくつになっても変らないと思います」といったそうだ。 信仰にとって嘘はだめなのだ。嘘の信仰は全然駄目だ。わたしは神学や学問の中に、嘘が巧妙に入り込んでいると思う。そうでなければ、イエスがあんなことを言うはずはない(マタイ伝の引用箇所)。「わたしは本当に、イエスの復活を信じている」という神学者や牧師の方々にそう感ずる。そしてそういうカウンター・カルチャーやヒップホップ・カルチャーは、嘘を毛嫌いし、信仰の真実と、はるかに繋がっていると思う。 イエスはどうだったか。たぶんフレッピー族ではなかったろうと思う。 * * * * なお、数日前のニュースによると(またニュースか)、成田に帰国時、国母選手はまともにブレザーを着ていたという。
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