老 い と 憧 憬

小田垣雅也

 

 老いとは、自分がこれまでに経験したことのない生活領域だという意味で、まったく新しい、自分にとって初めての経験であると言うことができるでしょう。その際、新しいものがまったく新しいもので、その意味で初めてのものある以上、これまでの既成の老人論は役に立ちません。それが「初めての生活領域」、ということの意味でもあります。わたしは近頃、駅の階段はやっとの思いで上り、膝にはサポーターをし、家の中では座布団に躓きそうになり、よく祖父が就寝する前に言っていた「寝るより楽はなかりけり」という言葉を思い出したりしています。むかし祖父のその言葉を聞いたとき、少年のわたしは「他に楽しみはいろいろあるだろうに・・・」と思ったものでした。先日来、散歩のとき、ステッキ(杖とは呼ばないのダ)を持ってみました。これらのことは、わたしにとって初めての経験で、ほんの一年前にはそんなことはありませんでした。そしてこれらのことが、自分の新しい現実であることに、わたしは戸惑っているところがやはりあるのです。つまりこれまで経験したことのない新しい生活を、わたしは初めて経験しているのだ、と言えます。

 新しい生活ということは、本来は、好奇心を満足させる、楽しいものであるべきはずのものでしょう。初めて、とはそういう本性のものです。よく、老人の中には、毎日が楽しくて仕方がないというような雰囲気を漂わせている人々がいます。わたしも、老いの日々の、新しい生活条件を楽しめればよいのですが、なかなかうまくゆきません。しかし、これまで経験したことのない生活領域に初めて入ったということは、日々これ新た、見方によっては面白いことでもあるべきはずのものでしょう。年をとって初めて見えてくるものはやはりあります。わたしの祖父が寝る前に「寝るより楽はなかりけり」と言っていたことを思い出して、その心根を忖度することができるのも、その一つだろうと思いますし、部屋の中の座布団に躓いたというある老人の話をむかし聞いて、「何でそんなばかばかしいものに・・・」と言った記憶がわたしにはありますが、座布団に躓くなどということも、見方によってはユーモラスです。座布団は本来、敷くもので、躓くものではありません。老人というのは、元来、存在様態としてユーモラスなものです。老婆はそれに加えて、きまって可愛い。

 人によって年のとり方は違うと思います。NHKの第二放送に「宗教の時間」というのがあり、以前その放送記者という人と会ったことがありますが、その人は七八歳だそうで(わたしは当時七六歳)、なお現役のぱりぱりでした。一二月の説教にも書きましたが、新聞の三面記事の下の方に載っている有名人の訃報には、高齢まで生きた人が多いようです。たぶんその人々は、生きる気力が充溢していた人々だったのでしょう。しかしそれを羨んでいても仕方がないのです。「それを羨んでいても仕方がない」「自分の現実は自分の現実なのだ」ということを理解することも、近頃少しずつ、分かりかけてきました。これも年の功の一つでしょう。

 

 老いを自覚した生活とは、残された時間が少なくなったという自覚です。その先には死があります。死はまったくの未知の世界なので、それは不安で、不気味です。たしか、一一月の説教「考えてみると」の中で書いたように、吉本隆明氏は、老いたら数年先の計画などは立てないで、もっと短い時間の計画を立てて生きればよいのだ、というようなことを言っていることを紹介しましたが、それは吉本が言外に示唆しているように、それが老いの超え方だという積極的な意味のものではなくて、自分の人生の未来がなくなったということの、間接的な表現であると思われます。また随筆家の串田孫一氏も、「老いに何かよいところが一つぐらいないかと思って、いろいろ考えてみましたが、見つかりませんでした」という意味のことを言っていたことも話しましたが、わたしはこれらの人生の達人たちの言葉を読むと一寸ほっとするのです。これら人生の達人にしてそうなのか!「自分ひとりだけではないのだな」と思い、老いに直面している自分の存在の孤独さが、いくらか救われたような気がするのです。

 老いが話題になり始めたのは、第二次大戦後、この数十年のことです。戦後人間の寿命は大幅に伸びて、平均寿命が世界一である日本で、有吉佐和子の『恍惚の人』が出版されたのが一九七二年です。その後「恍惚の人」という言葉はこの国で流行語になりました。それ以前の人は、老いる前に、戦死や病気で死んでしまったのです。最近、嵐山光三郎という人の『追悼の達人』という、作家の死という特殊な視点から見た現代日本文学史を読みましたが、明治、大正時代の作家たちは、みな早死にしています。わたしの年齢まで(当年七七歳)生きた人は少ないようです。

 

 聖書でも、老いは積極的話題としてはとりあげられていません。念のため聖書事典で調べてみたのですが、旧約聖書には「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を恐れなさい」(レビ記一二の三二)とか、「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言一六の三一)など、わずかに書いてあるだけのようです。新約聖書ではもっと少ない。「老人を叱ってはなりません。むしろ自分の父親と思って諭しなさい」(テモテ五の一)とか、「年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で、健全であるように勧めなさい」(テトス二の二)のように、老人の生活の勧めが書いてあるだけです。老人が人間として積極的役割を果たす者としては、言及されていません。これはやはり、ユダヤ教が遊牧民を中心にした砂漠の民の宗教であり、強力な男性的資質とその指導力が重んぜられたという理由によるでしょう。新約聖書に限って言えば、イエスが十字架刑に処せられたのは三十二、三歳の時であると言われています。聖書には老いを話題にする暇も必要もなかったのです。だから現代人が老いを迎えて孤独を感ずるとしても、それは社会的にも、宗教的にも、人生論的にも、自分にとっては「初めて」のことなのでして、仕方のないことだとも言えます。老いとは、一人ひとりの人間にとって、まったく新しい、初めての経験なのです。

 

 老いのマイナス面だけを強調してきましたが、しかしだからこそ、老いにはその人の生の、いわば真贋がかかっているようなところがあるのではないでしょうか。依り頼むべき教訓や哲学、宗教的教えもなく、また人生に対する希望や社会的抱負もなくなり、その人の「生きる勇気」そのものが試されるようになることが老いだと思われます。もともと「初めて」の経験とは、その人を実存的にします。実存哲学的にする、というのではありません。いつかも書いたことがありますが――近頃は物書き生活が長くなって、何を書いても「いつかも書いたことがある」と思うようになりましたが――、実存とは、現実存在の略語であり、現実に、いまそしてここで、生きている事態そのもののことです。実存には先例はありません。実存哲学とは、ある人の実存を、哲学化した哲学体系のことです。もちろん実存哲学に体系などはありませんが、少なくとも実存哲学は、実存そのものを文字に定着させたものだとは言えます。だから文字に定着される以前の実存そのものは(実存哲学ではなくて)、常に非公共的です。公共の実存というものはありません。「新しい」「初めて」ということの本当の意味は、そういう実存的なことだと思われます。そして老いとはそういう意味で、実存的意味で「新しい」、「初めての」ものです。老いに直面していると、わたしは自分が待ったなしの、実存に直面しているように感ずるのです。実存の栄光は、老いにこそあるのではないでしょうか。キルケゴールが「単独者」とか、「例外者」と言ったのはそのことではあるまいかと思います。それは単に青春時代の孤独といったものではありません。そして老いの次には、それと隣接して、死があります。それが人間というものでしょう。

 

 しかし人間は単独者であり、孤独なものですが、それだけでしょうか。昨夜、わたしは眠りながら、憧憬とか、途上性ということを考えていました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ人への手紙一一の一三)。この「よそ者」と訳してある語は、ギリシア語では「客の身分」というような意味、「仮住まいの者」とは「他の国に仮に住んでいる人」というような意味らしいです。人間はこの地上では「客の身分」であり、「他の国に住んでいる人だ」というのです。そのような途上の生は空しいです。それは間違いありません。老いはその空しさを、わたしたちに突きつけています。

 しかし、途上が途上でありうるのは、途上という形で、実にその空しさによって、約束された憧憬の地、自分の「家郷の地」を、はるかに垣間見させているからでしょう。そうでなければ、そもそも途上ということも、途上であるという自覚を失います。わたしたちの生は、結局は途上性です。それは老いが象徴しています。しかしそういう形で、わたしたちは人生の憧憬をも知っているのではないでしょうか。老いとはそういう現実です。老いの空しさと憧憬は二重性的です。これは理屈の問題ではなくて、足下の、わたし自身の問題だと思います。老いの現実には、人生の真贋が掛かっていると言ったのは、この実存的現実を言いたかったのです。

 

 わたしはよく、ある意味では騒々しい環境の中にいることの方が、一人でいるより気分が安定することがあります。わたしは耳が遠くて、人々の会話についていけません。人々の会話は騒音である場合の方が多いのです。だからわたしは、すぐ一人になりたがります。それはわたしの孤独癖ではなくて、耳が遠いことがその大きな原因であると言ってよいのです。しかし一人になって自分のことばかり見つめていたりしていると、自分はますます孤独になり、ますます老いの孤独さに打ちひしがれるように感じてくるのです。そいう場合は、たとえそれが意味が分からない騒音であっても、人々の会話の中にいる方がよいようです。話しかけられたら、それこそ嬉しいことです。そして人間はやはり、関係存在、自他不二なのかもしれないなと思います。関係存在、自他不二とは、自己がそれ独自の、近代自我的な、独立した意味を持っていないということでもあります。無自性の自己です。しかし申し上げたいことは、それはそういう形で、自己独自の存在性を自覚することでもある、ということです。二重性です。むしろそのような自己と他者の二重性に思いを潜めることを、抜き差しならない形で迫ってくるのが、老いというものではないか、と考えたりします。老いの孤独さや、実存哲学流の「単独者」などと言っている間は、老いを考えるに当って、人間としてまだ甘いと言うべきかもしれません。単独者は、仲間の間でこそ単独者なのでしょうから。

 わたしは「信仰さえあれば、ほかに何がなくとも・・・」と、老いの現実を信仰の名によって蹴飛ばしてしまう元気老人のようには、物事を考えられません。人間はこの地上では「よそ者」であり「仮住まいの者」であるには違いありませんが、しかしそういう形で、わが「産土の地」を知っているのだと気持ちを、捨て切れないでいるからです。

 

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