一日の苦労は・・・・

小田垣雅也

 

 商売柄、いろいろな福祉団体のようなところから印刷物が来る。先日来たものは、アルコール依存症、いわゆるアル中から解放されるべく運動している団体からのもので、その中に「治される者から治す者へ」という文章があった。その文章を書いた人は、言うところのアル中であったが、その団体でいろいろ指導をうけることによってアル中が治り、アル中を治される方から、治す方に回ったというのである。いかに刻苦勉励してアル中の自己を克服したかという美談物語かと思って読んでいたら、それがそうではなかった。

 そのパンフレットをなくしてしまったので、細かい表現などは思い出せないが、要旨はよく憶えている。その人は要するに、ある日時を画して、敢然として、酒を飲むことを止めたということではないらしいのである。その人自身も、「明日また、酒を飲みだすかもしれないし、飲みだしたらきりがなくなるかもしれない」と書いている。だからその人がアル中から治ったというのは、克己心を発揮して、酒に手を出さないでいる、ということではなくて、明日のことはわからないが、今は「酒のことが気にならなくなりました」という状況であるらしいのである。すなわちアルコールへの「とらわれ」から解放された、ということである。わたしはそれを読んで、この人がアル中が治ったというのは本物だな、と思った。その人の現実は、酒を飲むとか、飲まないで頑張るとかという、対抗的・二元論的水準での問題ではなくなっているらしいからである。

 克己心は必ず敗れるのである。または敗れる可能性を含んでいる。たとえば酒は飲まぬと克己心を発揮する場合、その克己心が克己心として意味をもちうるのは、一方に酒を飲みたいという現実が生きているからだ。その生きている欲望を抑えているからこそ、禁酒するという克己心は、克己心として意味を持っている。そういう禁酒は、遠からず敗れるだろう。またはヒステリックな禁酒主義者になるだろう。これはアル中の裏側の事情である。だから本当にアル中が治るということは、禁酒についての克己心の問題ではなくて、アルコールに対する「とらわれ」から解放されるということなのだ。その上でなら、酒は飲んでもよし、飲まないでもよし。その人が「明日飲むかもしれないし、飲めば際限がなくなるかもしれないが・・・今は酒のことが気にならなくなりました」と言っているように、である。

 酒とタバコは深刻さの度合いが違うかもしれないが、わたしはむかしタバコを吸っていた。そして子供も生まれたし、健康にもよくないので、禁煙しようと思い、それこそ克己心を発揮して禁煙を試みた。しかし禁煙する度に、数日で何かの理屈をつけてその禁を破り、禁煙できないでいた。まさに「禁煙ほどやさしいことはない。オレはこれまで、何回禁煙を繰り返したかわからない」という状況であったのである。わたしは自分の克己心の弱さを嘆いた。それがある時、ふとした転機で、禁煙した。以来二十四年になる。

 しかしよく考えてみると、わたしがその頃禁煙するという克己心を何回も破っていた本当の理由は、タバコを吸うことが我慢できないというニコチン依存症によることではなくて、実はタバコへのとらわれなのである。または少なくとも、習慣の問題だ。禁煙するということへの克己心にとらわれている場合、喫煙への欲求ないし習慣は、克己心が克己心である以上、常にその克己心の背後で生きている。その場合「一、二本なら吸ってもいいだろう」とか「子供の前で吸わなければいいだろう」という、――たぶん正当な――理屈はいつでも考えだされる。わたしが禁煙した契機は、ふとしたもので、それは理屈ではない。わたしの弟は今もタバコを吸っているが、その喫煙へのとらわれのなさ、理屈を超えた態度に、わたしは逆の意味で、むしろ尊敬の念をもっている。タバコを吸うか吸わないかなどということが、問題の本質なのではないのである。

 

 聖書のマタイによる福音書六章三四節には、イエスの有名な次の言葉がある。「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」これは普通、神は空の鳥や、野の草花まで養っているのだから、まして人間を養ってくれないはずはないということ、つまり先走って明日の生活を心配することは不信仰だという、神への全面的な信頼を説いているのだと解釈されている。それは信仰への薦めだ、と言うのである。しかしはたしてそれだけだろうか。わたしは以前から、そのような解釈に、ある釈然としない感じをもっていた。とくにわたしが聖書を読み始めたのは日本の敗戦直後で、敗戦前後は明日の食料もなく、親たちが明日の生活への心配で苦労していることを知っていたからである。若い頃以来、わたしは将来の生活設計には常に苦労してきたという思いがある。神にたいする信頼だけでは、つまり信仰だけで、「明日のことを思い悩む」ことなしでは、世の中をわたっていくことは無理だろうとわたしは思う。むしろ明日のことを思い悩む方が、人間にとって健全ではないかと思う。

 しかしそれにしても、この「その日の苦労は、その日一日だけで十分である」という言葉には何か深い意味が隠されており、それは何かと絶えず気にかかっていた。いまにして思うのだが、これは「明日のことを思い悩んでも、仕方がない。そのような思い悩みは神にたいする不信仰だ」という単純な事態ではなしに、また、「明日に対する計画はしばしば実現しないから」、ということでもなしに、そもそも計画の達成ということは、それが達成できないという事態があるからこそ、達成という事態もあるということに関することではなかろうか。本当に「明日への思い悩み」から解放されるためには、明日への思い悩みを否定するのではなしに、明日への「とらわれ」そのものから自由になることではないかとわたしは思う。それが「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」というイエスの言葉の意味ではないかと思うのだ。それでこそ、明日への悩みも正当な悩みとして意味をもつ。つまり明日への準備が達成されるか、されないかという自分の心の「とらわれ」から解放された生活が、この言葉には隠されているのではないかと思う。それは明日のことを神に任せてしまうおうという、神への、ある意味では無責任な信頼の問題ではないのである。かのアル中の患者が「明日飲むかもしれないが、今はお酒というものにとらわれなくなった」と言うような事情である。それが「その日の苦労は、その日一日だけで十分である」ということの意味ではあるまいか、と思う。またそれが「明日は明日自らが思い悩む」ということでもあろう。自分の現実を自然(じねん)に受け入れるということだ。そのとき明日への過度の思い悩みもまた、なくなるだろう。

 「明日を神に全面的に任せる」という、神にたいする信頼がここでは説かれているのだ、と言ってみても、信頼するというその自分は、自力で立っているのである。信頼は自分が信頼するのである。そして自力で立っている以上、その自分は、神への信頼の中にはいない。だから神に任せるという自分が自分でする信頼は、神にたいする全幅の信頼とはいえないのである。このような事実を知ることは、知的な(良い意味で)信仰にとっては大事だと思う。明日に対する準備は思いどおりには行かないからだめだというのではなくて、準備は常にその無駄であるかもしれぬ結果と表裏一体としてのみ、準備としての意味をもつということだ。準備の成・否は表裏一体なのだ。だから、その準備への「とらわれ」から解放されることが自由な生というものだろう。そのときは本当に、準備も準備として、とらわれることなく、準備でありうる。そのような自由な生こそが、ここで説かれているのではないか。かのアル中であった人が「明日飲むかどうか分からないが、今はお酒のことが気にならなくなりました」と言ったのも、そういう境地ではなからうか。それが「一日の苦労はその日一日で十分である」ということの意味だろうと思う。

 同様の事情は、イエスの「誓いをしてはならぬ」という戒めに関しても言えるだろうと思う(マタイによる福音書五章三三〜三七節)。イエスは天にかけても、地にかけても、エルサレムにかけても、また自分の頭にかけても誓ってはならないとし「髪の毛一本すらあなたは白くも黒くもできないからである」として、「あなた方は『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」と言う。誓いとは天地やエルサレムのような何か価値あるものにかけて、終局的には神にかけて、神を保証人にしての、人間同士の約束である。しかしここでも問題は、しばしばそう解釈されているように、神を人間の約束の保証人として利用するのはけしからぬ、それは神に対する信頼に悖る、ということではなくて、人間の誓いや約束は成就することもあるし、成就しないこともある。だからその成就・不成就の束縛から自由になること、その上で約束を果たそうとすることが大事であるということだろう。。人間に語りうる本当の態度は、「然り、然り」「否、否」ということだけだということだイエスは言う。「それ以上のことは、悪い者から出るのである」とすらイエスは言っている(三七節)。誓いとは、それが本心からの誓いであっても(と自分が思っていても)、それは「悪い者から出る」言葉なのである。それは仏教で言う悪智である。

 

 本当の理解とは、論理的な納得や説得の問題ではないのではなかろうか。論理や説得には、必ずそれに対立する立場がある。だからこそそれは論理や説得でありうるのである。クリア・カットな、明瞭な一つの立場というものには、存在論的に言って、かならず無理が含まれている。それは、自分の立場がありうるためには、カットされる相手が必要だが、その相手を、つまり自分が自分でありうるための与件を、否定しているからである。禁酒がありうるためには、飲酒という習慣が必要であるように、である。または禁煙が意味をもつのは、喫煙というという事態が前提されて意味があるように、である。はじめから飲酒や喫煙の習慣のない人に、禁酒や禁煙を説いても意味をなさないだろう。

 わたしが今日の説教で言いたかったことは、たとえば禁酒―アル中、禁煙―ニコチン中毒というような、そもそも二元論的論理や価値判断は、それとして有効でありながら、それはとくに近世ヨーロッパの、近々三〇〇年たらずの思考だ、ということである。わたしたち現代人は、この二元論的思考になれすぎ、クリア・カットな論理を求めすぎている。そういう事態に対して、治らないままでアル中が治っている、というような、かのアル中患者の言葉は衝撃的ではなかろうか。それが「宝を天に積む」ということではないか、と思う。論理や説得を積み上げるのではないのである。しかしクリア・カットな二元論的知と、このアル中患者の治癒と、どちらが本当の知か、ということだ。しかしこのことは、右に挙げたイエスの言葉の中に、すでに含まれているのである。(06303)

 

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