美 的 宗 教

 

小田垣雅也

 

 わたしたちは一口に、イエス・キリストのよって神を信ずると言うが、そのことがどういうことであるか、実際には分かっているとは言えない。ヨハネによる福音書一四章六節では、「イエスの行く道が分からない」というトマスの問いに対して、イエスは自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」という三対句で答えている。一方、西洋近代の人間観として、真・善・美がある。これは、実際はW・ヴィンデルバント(1848-1915)が自覚的に言い出したことらしいが、しかし真・善・美に対応して人間の精神活動には知・意・情があり、それぞれ独立した精神の領域だが、それが統一されて人間を形成しているという理解は、特に近代以降、一般的に受け入れられているといえるだろう。わたしが中学生のころ(今の高校生)習った公民の時間にも、そんなことを話された記憶がある。しかしイエスの三対句とこの西欧近代の三対句を眺めていると、一つの疑問がわいてくる。それは真と真理、善と道が平行しているのはよいとして、美と命は、そもそも平行するという性格のものかという疑問である。もともと美や命は、右のそれぞれの三対句と同一平面にあって真や善に対向する概念ではないのではないか。真は誤と区別され、善は悪と区別される。それらはいわば分別知で理解できるが、しかし命や美は、真や善のような分別知を超えたものではないか、と思う。

 もちろん、美や情に関して言えば、真・善・美、知・意・情と同一平面上にあり、真や善に対向した美、知や意に対向した情もある。これはいろいろでなところ書いたことがあるが、啓蒙主義のロマンティシズムとはそういうものであった。そして真や善にとらわれていると、人間の情の面が閑却され、全体としての人間性は失われる。このように真や善にとらわれた啓蒙主義的合理主義の哲学は「死の哲学だ」と啓蒙主義のロマンティシズムは主張した。コウルリッジやヘルダー、ゲーテなどのロマン主義がその種類のものである。だからこのロマンティシズムは否定原理に立つ面があると言えるだろう。

 しかしマンティシズムにはこのような否定原理の上にたったロマンティシズムではなくて、もう一つのロマンティシズムがあるとわたしは思う。わたしはそれを便宜上、ネオ・ロマンティシズムと呼んでいる。パウル・ティリッヒはこのロマンティシズムを一四世紀のニコラス・クザーヌスにまで遡らせている。クザーヌスは「対立の一致」(coincidentia oppositorum)で有名だろう。「対立の一致」とは、そもそも物事の対立があるためには、その対立する両項をともに含んだ一致の場がなければならないという主張である。たとえば神と人間の対立の場合、その両者をともに持った事態があるからこそ神と人間の対立はありうるのであり、だから、その一致の事態はなければならないという。それはクザーヌスの言い方によれば、いわば「神を超えた神」であり、そもそも、「神を超えた神」があるからこそ、神と人間も対立関係にありうると言う。対立がありうるためには、対立者同士が、お互いを対立の相手として必要としているのだとも言える。その相互性の成立する場が対立の一致である。そしてこれは合理主義的分別知によって説明できることではないという意味で、情的なもの、ロマンティシズム的なものであると言う。ティリッヒがロマンティシズムの淵源をクザーヌスにまで遡らせるのもこの意味であろう。もう一つのロマンティシズム、ネオ・ロマンティシズムというのは、この「神を超えた神」に対するかかわりのことである。それに関わるのは情的作業であり、それをこの説教の標題にしたような「美的宗教」と呼ぶのである。

 

 西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と、このクザーヌスの「対立の一致」の符合はしばしば指摘されている。真や善に対向した情としての、啓蒙主義に反対した意味でのロマンティシズムは、いかにもそれは分別知ではないが、しかし情緒の対象として神を前提しているという意味で、それはなお、対象論理的水準を抜けきっていない。それに対してこのネオ・ロマンティシズムは、真・善・美という平面そのものを超脱し、知的作業にしても情的作業にしても、対象論理が届かないと言う意味で美的なのである。実際、西田は、知・情・意の区別をのりこえた、それらを一にした独立自全の実在は、主観―客観構図で捉えられるような「対象」ではなく、普通に考えられるような知の対象ではなくて情の問題であるという。それは「我々の情意より成り立ったものである。・・・もしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的な事実ではなく、単に抽象的概念になる」と『善の研究』の中で言っている。そしてそれに続けてこうも言う。「この点より見て学者より芸術家のほうが、実在の真実に達している。」わたしがネオ・ロマンティシズムの情緒性というのは、このような、主観―客観構図をこえた、知・情・意を一にしたような次元に対する接近の方法としての情緒性のことである。

 もちろんロマンティシズムとネオ・ロマンティシズムに、同じ情緒性という言葉を使うのは混同されやすい。話が混乱するので思想家の名前を挙げるのはなるべく避けたいが、『宗教論』(岩波文庫)で有名なシュライエルマッハーも基本的に同じことを言っている。シュライエルマッハーは信仰を「絶対依存感情」であるとし、神をその感情の「由来」であるとした。この「絶対」とは言語的には「単純率直な」と言うくらいの意味であり、その単純率直な感情によって、いわば「神を超えた神」(クザーヌスの言葉を使うとして)を感得するのが信仰であると言う。しかしこの感情と言う語が、著名な神学者を含めて、ロマンティシズム(ネオ・ロマンティシズムではない)の単なる情緒と誤解されることがしばしばあった。だからある学者は、シュライエルマッハ―の「感情」は「感情」ではなくて「経験」と訳したほうが適切だと言っているくらいである。その他にもこの趣旨に賛成する学者は多い。しかし要するにわたしたちが美的信仰と言う場合、その美は知・意に対向した単なる情緒ではない。それは、そこでこそ近代主義的科学主義、主観―客観構図による分別知を超えるものであり、このような美的宗教こそが、宗教の本意ではないかということである。

 

 このような美的宗教は抽象的な宗教哲学ではない。それはわたしたちの具体的な生活に関わっている。武藤一雄博士はホモ・ロゴスということを言った。わたしたちは毎日対話しながら暮らしているが、対話(ダイアローグ)とは対話の両当事者が、相互にちがったものとしてあり、それにもかかわらずお互いが対話できるのは、そこに対話の「場」としての、両当事者を含んだ、ホモ・ロゴスがあるから対話が成り立つ。自覚的であると否とを問わず、わたしたちの毎日の対話とは、このホモ・ロゴスがあるからこそ成り立っている。これは右に述べたクザーヌスの「対立の一致」とか西田の絶対矛盾的自己同一の場と実質的には同じ理解である。ホモ・ロゴスはそれぞれのロゴスを止揚した、第三のロゴスではない。そう考えるのが近代的合理主義の科学主義である。それは対話の双方が、互いに違ったそれぞれでありながら、その相違のままでその対話を可能にする「全体性」である。それは「無きが如くに有る」(武藤)ものである。

 クザーヌスの「神を超えた神」は、神でも人間でもないものはないから、実質的には無であるが(クザーヌス自身は、その場を「一致の闇」とか「輝ける闇」と呼んでいるが)、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の場も同じである。そしてその全自的実在に触れる道が、西田によると情意的なものであり、それには「学者よりも芸術家のほうが適応している」のであった。武藤は美的宗教という言葉を使ってはいないが、「無きがごとくに有る」ホモ・ロゴスも、知的概念をこえたものとして美的なものであろう。わたしは二年前、『憧憬の神学』をという本を書いたが、基本的な意図はこのような意味での美的宗教の探求である。「無きがごとくに有る」ホモ・ロゴス、「一致の闇」、絶対矛盾的自己同一の場、を求めるのは情緒的作業であり、人間はるそれに対する「憧憬なしでは生きられない。しかし憧憬以上でもありえない」とわたしはその本に書いたのであった。

 わたしは新しい人と付き合う場合、最初はその人との関わりが億劫で、大概その人が嫌いである。しかしその関わりを重ねていくうちに、今度はその人が好きになるのが通常のプロセスであった。そのことを自覚したのは大分前だが、いま振り返って見ると、それはその人との間に、ホモ・ロゴスが、「一致の闇」として、または絶対矛盾的自己同一の場として、形成されることに関係があるのだと思う。これらは「形成される」といえるような、実体を持ったものではないにしても、しかし少なくとも、それが憧憬として、その人との間を埋めない限り、その人を好きになることはないだろう。そしてそれが形成される前、その人が赤の他人であり、お互いにバラバラな異邦人である間は、その人との関わりは不気味なだけで、億劫なものであるためであろう。

 視野をひろげて文明論的に見ても、分別知による科学文明の矛盾が露わになっている現代、必要なことは、現代人の一人一人が美的宗教に目覚め、憧憬としてのみある「神を超えた神」によって生き始めるときではないかと思われる。(05305)

 

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