主あたえ、主とりたもう

                           ――Hさん追悼――

                       小田垣雅也

 

今日の聖書は「ヨブ記」一章二一節「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」だが、旧約聖書の中で、「ヨブ記」は、「箴言」、「コヘレトの言葉」などとともに知恵文学といわれている。それに対して、「イザヤ書」、「エレミヤ書」などは預言書である。預言書が予言書と表記されないで預言書であるのは、預言書は原理的にいって、神の言葉を預かった者の言葉、その意味では一種の神託であるからである。預言者は単純に未来に起こるであろうことを予言する人のことではない。それに対して知恵文学の基本的なテーマは、人間の苦難の問題、とくに不条理な人生の現実にたいして、わたしたち人間はいかに生きていくかという、根本的な意味での知恵の問題である。わたしたちの人生は、善行を積めば良い報いが与えられ、悪行を重ねれば災いが起こるというように、合理的にはできていない。苦難は人間にとって、未解決な問題である。しかしこれは、倫理の根本的な問題だと言えるだろう。近代倫理を確立したカントもこの問題につきあたり、不条理な人間の苦難の問題に説明をあたえる根拠として、神とか永生を要請せざるをえなかったし、逆にアルベール・カミュは、小説『ペスト』でも明らかなように、人生の不条理と観じ、それに反抗して生きること、そして死ぬことが、人間の真実のありかたであり、また美学であると語ったのであった。不条理や苦難の問題は、合理的に説明できることではないと言うべきだろう。

 

ヨブ記の物語は良く知られていようが、大筋は次のようである。ヨブは深く神を信じ、非の打ち所のない義しい人であった。しかしヨブが義人でありうるのは、ヨブが幸福な家庭、財産、健康をもっているからだ、とサタンが神に言う。そこで神はサタンにヨブを試させる。そしてヨブは財産も、家庭も、健康も失うことになるが、それでも神を讃美することをやめない。しかし友人との論争では、自分が神の前に義であることを主張し(二七章五~六節)、友人の慰めを斥け、自分の苦難と生を、つまり不条理を呪う。それに対して神はつむじ風の中からヨブに厳しく呼びかけて、ヨブの義の主張に対して、悔い改めを迫るのである。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(三八章二節)。そして最後に、自分の義の主張についてのヨブの懺悔と、それに対する神の報いで大団円を迎えて終る。ヨブの不条理な苦しみは最後に大団円を迎えるので、本当の不条理とは言えまいが、それにしてもここには、神の経綸が人知の及ぶ合理的感覚を超えたものであること、信仰は人生の不条理を消してしまうものではないことが語られている。

Hさんが亡くなられたが、Hさんに限らず、死は生あるものにとって根本的な不条理である。人間が死という存在論的恐怖と矛盾を避けられないのなら、もともと生まれてこないほうがよい。わたしも青年時代の長い病気のころ、つくづくそう思い、わが生を呪う気持になったことがある。とくにHさんの死は六五才で、天寿を全うしたとは言えないし、ご家族の手厚い保護があったとはいえ、脳出血のため、晩年は半身が不随であった。それは合理的な説明がつく生ではない。

 

しかし人間の本当の生の意味は、合理性の中にはないのではなかろうか。合理的に加減乗除が割り切れた生は、ただそれだけのことで、たとえそれがどれほど幸福な生であっても、その同じ生を再度生きようとは誰も思うまい。同じことのくり返しは退屈ということである。それは「永劫回帰」のニヒリズムに通ずる。勧善懲悪物語にわたしたちがすぐ飽きるのはそのためだ。もともと合理性は代替可能である。機械のメカニズムは合理性の典型だが、機械の部品は代替可能だからこそ部品でありうる。部品を入れ替えることで、その機械は修繕され、元に戻ることができる。しかし人間の生は代替不可能だ。それは唯一のものであり、そこにこそ人間の掛け替えのなさも、したがって威厳もあるのだと思う。

だから宗教的感動と不条理な生、苦難は不可分であると言えるだろう。それは人間の生そのものが不条理であり、苦難と切り離せないものだからだ。以前、名古屋での学会で聖心女子大学のW先生にお会いしたとき、マザー・テレサのお話を伺ったことがある。そしてわたしはつくづく、マザー・テレサの仕事は合理的・科学的感覚では無意味であったこと、しかし無意味であるからこそ独特の威厳をもっていると思った。わたしがマザー・テレサの仕事に感銘を受けるのは、彼女が伝道者として崇高な生を送ったとか、キリストの愛に献身したとか、まして社会運動家として身を捧げたからというような、いわば宗教的な意味での合理的理由によるのではない。伝道活動や社会運動には、いつも独り善がりの面がつきまとっているとすらわたしは思っている。マザー・テレサは「神の愛の宣教者会」という修道会を設立し、「死を待つ人の家」を建て、路上で死んでいく人々を収容して、ただその体をさすりながら死を看取ったという。そこには、死という人間の不条理の中に、くじけることなくに立っている人の自然さがある。それは死生学や、死についての宗教的思索すらこえた、人間の深い次元での必然性と言ってもよいだろう。自然さこそが必然性なのである。それは合理的で代替可能な、分かりきった生ではないのだ。

マザー・テレサはチョコレートが好きであったそうだ。チョコレートを食べているテレサの写真を見たことがあるが、それははにかんだ、いたずらを見つかってしまった子供のような表情で、わたしには忘れ難い。その表情は、チョコレートなどとは縁のない極貧の死に行くインド人たち対する恥じらいでもあるだろう。しかしわたしはその写真の裏の、それが表現している人間の真実に、何かほっとした記憶がある。これは、人間とはその程度のものさ、というありきたりの感想ではない。人間は合理的生き物ではないという自然な感想である。マザーのもとに寄付されてくるチョコレートを売って、その金をもっと有効に使ったらどうか、という議論はありうるだろう。実際、マザーが極貧の子供たちにアルファベットを教え、字をおぼえた子供に褒美として石鹸を与えているのを見て、ある神父はそれを「無意味で馬鹿げている」と非難したという。本などとは一生無縁な子供たちにアルファベットを教えたり、石鹸などを手にとる機会は一生ないだろう子供たちに、その使い方を教えたりするのは、合理的感覚からすれば無駄であり、無意味である。そんなことをするよりも、そのような人々を生み出す社会の仕組みを直すことに心を砕くことのほうが必要だし宗教的だというその神父の議論は理解できる。その方が合理的だ。実際、イエスはそのような、常に弱者の味方の生涯を送ったのだとするイエス理解が、現今の新約聖書学では流行っている。しかしそれはイエスを単純な社会運動家、せいぜい博愛主義者にすることでもある。それが正しいイエス理解かという神学的議論はいま別にして、そのことよりも、それが人間を本当に理解していることか?

苦難や不条理の中に立っていることが人間的だとわたしは思う。合理主義ではないという意味で、ある種の破れ目を持っている方が人間的である。それが人間の現実だ。だからそれが信仰的でもある。人間の現実を離れた哲学やイデオロギーには、宗教は無用である。人間の尊厳とは、元来、身を賭けたものだ。合理的目的論に縛られることではない。これも以前、触れたことがあるが、旧約聖書詩篇二三篇四節には、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあるが、これも一口で言うと、苦難と不条理の生の中にこそ信仰はあるということであろう。それらが無くなることの中に、ではない。神を信ずれば、死の陰の谷から救い出されるというのが救済という見地からのみれば合理的である。また信じていれば、神の鞭や杖で打たれる罰から免れるというのが合理的信仰論である。死の谷を歩いていても、神が共にいてくださるからよい、というのでは、何のための信仰かということになる。鞭や杖も同じである。信ずればそれらの罰をうけないですむというほうが論理的である。しかしこの箇所が交読文の中にあり、また告別式のときなどにはしばしば読まれるのは、このダビデの詩には、合理的思考を超えた次元、いわば人間の存在そのものにとっての切実さが歌われているからであろう。それが感動を呼ぶのである。合理主義の中にあるものは、知的満足であって、生きている感動ではない。不条理ではないところに、信仰の必然性はないとも言える。

 

Hさんはわたしたちの親しい友人であったが、親しかったからなおさら、わたしたちはその死に関して、人の生の不条理を噛みしめざるをえない。それと同時に、信仰というものの本性も考える。そのことをHさんは、身をもって求めているのかもしれない。(04322)

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