一 匹 の 羊

小田垣雅也

 

 今年の正月は、年賀状を一枚も出さなかった。それはわたしの「怠け」のせいでもあるが、同時に「美意識」にもよっている。

 わたしは今年(一二月三〇日がわたしの誕生日)満八〇才になった。アメリカの古い諺に「老兵は死なず。ただ消え行くのみ」というのがあるそうで、マッカーサーが議会で証言するように言われたとかどうとかして、この古い諺を持ち出し、(あるいはアメリカの軍隊の諺だったかも知れないが)有名になった。しかしわたしには最初、その意味がよく分らなかった。「死なず」と、「消え行く」との違いは何かと思ったのである。しかしいまは以下のように考えている。
 この諺にある「死なず」は、戦死のことではないのか。戦死すれば、名を竹ハクに垂れることができる。このことは、そのことを憶えている人があるかどうかに関わりはない。しかし「死なず」はもともと戦死しないのだから、名を竹ハクに垂れようがない。ましてこの場合は老兵である。
 しかし「消え行くのみ」の場合はどうか。いつかも書いたことがあるが、ここで「消える」と言っているのは、アメリカもキリスト教国の一つとして、終末論(エスカトロジー)に関係したことではないか。終末論はキリスト教・ユダヤ教にのみある概念である。東洋思想では、世界の「終末」(エスカトン)という概念はない。東洋思想にあるものは、ただ「終わる」というもので、その「終わり」は、それに隣接し、それが終わったものとして「初め」があるのだから、「終わり」と「始まり」の二重性として超論理性、または一種の神秘性として無が到来する。創造に対応しての終末とは、一本の線に終わりがあるように、「その先は何もない」ということではないのである。「ヨハネ黙示録」には、累々とした終末後の描写がある。
 つまり「終末」(エスカトン)は、東洋的な「無」としての、そこで「なにもかも終わる」ということではない。いつだったかMさんが、自分の終末、つまり死にあたって、従容として自分の存在を恐れず、「終わりのときは受け入れなければなりません」と言って、自分の死を受け入れたことに、わたしは感動したことを書いた。「死なず」つまり戦死の場合も、その「死」は、その裏にあるものは終末信仰ではなかろうか。
 「創世記」の冒頭には「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(一章一〜二節)とあり、この「混沌」以降が神による世界の創造である。それ以上を、ユダヤ思想では問わない。仏教ではその「混沌と水」は何から生まれたのか、と問うだろう。そしてその場合の、創造に対応した終末が「ヨハネ黙示録」である。「ヨハネ黙示録」には累々とした終末後の神の裁きが書いてある。

 東洋思想にはまだ余裕があるのである。たとえば老子は(老子その人は前五世紀前半を生きたが、東洋思想一般の問題として)無為の生活を主張する。宇宙の奥の絶対的本体を道、無、一、大と名づけ、有の世界はこの無限定な無より生ずるという。つまり創造以前の世界を問うているのである。創造は何に隣接して生じたか、を問わない。だから無為の生活とは、幼児のような自然な生であり、東洋思想は無為自然な生活態度を説いている。
 このことは、東洋思想では、主観―客観構図がありうる前にある生は、無ないし無為自然に基づいた生であることを暗示していよう。主観(それを考えている人間)でも客観(混沌と水のような)でもないものは、道、無、一、大なのであり、無為自然な生こそが東洋的生では求められているのである。西洋思想と東洋思想の違いの根本はこの点にあるだろう。西洋思想は有の世界であり、東洋思想は無の世界だということだ。
 無は主観―客観構図を超え、つまり有の世界をこえた、「信即不信」の境地である。だから、主観―客観構図に捉えられる以前の生は無である。わたしは、よくそう言ってきた。美はもともと儚い。それは無の世界を含んでいる。八〇歳にもなったら、「消え去るのみ。いつまでも老醜を晒して恋々とする」ものではない。
 しかし信とは、信と不信の引っ張り合いではない。それはまだ信―不信の世界だ。信が不信の陣地を征服し、信が不信に対して凱歌をあげるのが信ではない。それはまだ二重性ではない。信とか美は常に自分の消滅を含んだものであり、身を掛けたものではないのか。花はいつ見ても美しいが、それは、滅びの予感に裏打ちされているからだ。つまり枯れるからだ。花の裏側には常に「枯れ」があるように、信の裏側には常に不信がある。そのことに感づかない信、絶対、普遍は必ずイデオロギーになる。その理由は、信、絶対、普遍を考えている自分は、不信、相対的、個的なものだからだ。相対なる自己によって主張された絶対は、それ自体として相対であろう。あのヨーロッパ寺院にある荘厳さ、微に入り細に渉った美は、滅びに裏打ちされているからこその美であろう。このように、信を強調する裏側には、常に不信の世界がある。その意味では、不信は信の与件であるとも言える。

 「神の独り子がキリストであり、それがイエスだ」とキリスト教では主張されている。

 そのように古典的キリスト論は教えるが、そのような主張をすることの中に、ヨーロッパの人々は、永遠を感じとっているのではなかろうか。永遠や普遍は具体性・個別性の中にしか存在しない。「独り子」とはそういう意味ではないか。永遠や普遍は、人間がそれを主張する以上、それは必ず相対的人間によって主張された永遠や普遍になり、それは観念の中だけでの永遠や普遍になって、イデオロギーになる。聖書には実際、こう書いてある。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷いでた一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたら、まよわずいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(その他。マタイ伝一八章一二〜一四節)。
 ここでは一人でも滅びること、言い換えれば、個が滅びることは、天の父の御心ではない、と書いてあるのである。一人の命を救うためにイエスは来た。これは個別性こそが大事ということであろう。人の命は倫理や計算の問題ではないという主張である。人の命は個的・具体的なだけだと言っているのである。ヨーロッパの大伽藍に見られるキリストの強調は、信仰は引っ張り合いとか、足し算、引き算の問題ではないということであろう。それは具体的事柄なのである。
 してみると西洋の大伽藍の中にあるキリストは、個、具体性、そして相対性の強調ではないのか。もともとイエス伝学によれば、イエスに確定した像はない。その根本的理由は、「神の独り子」という場合、その「独り子」の中に、人々が普遍を感じ取っているからではないのか。そうでないと、イエスの個を強調し、イエスの中に「本当」の普遍を見て取ることはできまい。そのことをこそ、あのイエスの画像ないし、彫像は表わしているのではないか。イエスの彫像を中心にしたヨーロッパ文化の中に、普遍が息づいていないとは、どうしても思えない。

 いつかも書いたことがあるが、遠藤周作氏の言葉によれば、「信仰とは九〇%の疑いと十%の希望」とのことである。そしてどちらの場合も、つまり疑いの場合も希望の場合も、信仰そのものは現実にはなっていない。しかし、「信即不信」を主張することも、観念的な普遍性の一種であろう。この場合、「信即不信」が一つの理念になっている。この場合の無の「主張」は、まだ平均化した恒常的主張であるということだ。それは個別性・具体性を裏切っている。そしてキリスト中心主義は、このこと、つまり信仰は個的・具体的でなければならぬことの、例証ではないか。「疑い九〇%、希望一〇%」が「疑い九〇%、信一〇%」の閉鎖性を破っているのである。それがここで使われている「希望」の意味だ。そうでなければ、西洋の何処へ行っても大伽藍があり、その中心は「神の独り子イエス」である、という事実は説明できない。信仰が「疑い九〇%、希望一〇%」であるならば、信仰の別名は焦りということになろう。焦りや緊張のない信仰は、よくあるが。
 キリスト像はキリスト教という普遍性を、それが宗教的「理念」になることを妨げ、一つの神学になることを防いでいるのである。このようにキリストの像をわが身に徹して考えるときに、東洋思想との共通項も見出され、ヨーロッパがわたしのような東洋人にも懐かしいことが理解される。それは「宗」を表現しているのである。「宗」の教えが「宗教」である。しかし「宗教」は「宗」ではない。そして具体的・個的にならなければ、それは伝わることはない。それは個的「宗教」は滅亡することを予想している。それはキリスト教とヨーロッパの、文化的説明なのである。

 聖公会神学院の校長の広谷和文君から聞いた話だが、聖公会の小林史明司祭が、一休さんの遺言について語っているよし。一休が死ぬ前に遺言をして、それを紙に書き、「困ったときにのみ、これを明けること」と云い置いたそうだ。そして困ったことができたとき、弟子たちがそれを明けたところ、そこには「大丈夫だ。心配するな。何とかなる」と書いてあったそうだ。それを見て弟子たちは笑い出し、ついでに広谷君も大笑いしたのだそうだ。わたしもそれを読んで笑った。これは一休一流のユーモアだ。しかし本当のユーモアは、イエスが人の子となったという、そのことではないか。その具体性が、可笑しかったのではないか。具体性とはそういうものだ。それは常に普遍性を暗示している。個的「宗教」の破壊である。それが十字架の意味だと言ってもいいかもしれない。具体性は大概、本性可笑しいのである。イエスの彫像や絵画は、本当は、可笑しくはないか。普遍性は具体性のなかにあるということが、である。

 

 

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