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自 然 と 個 人 小田垣雅也
「自然と個人」と言っても、聖書にはこの二つの概念、自然も個人もない。聖書事典の中でも有意な解説はないようだ。これはたぶん、パレスティナ地方が砂漠地帯であり、その中をベドヴィンの人々を率いていくのには、男性的・族長的資質が必要だったからであろう。自然や個人の問題ではないのである。キリスト教史上でもっとも自然に近い位置に立っていたとされる、アッシジの聖フランチェスコも、その詩の中で「わが兄弟なる太陽」「姉妹なる死」と歌っていても、これは自然そのものの讃歌ではないのである。それで、もっとも自然讃美に近いものとして、マタイ伝六章二六節をえらぶことにする。(「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」) 先日、NHKのスペシャル番組で「桂離宮」というのを見た。印象に残っているのは、よく言われていることだが、桂離宮に代表されるような日本の宮廷文化が、自然とマッチしていること、というよりも、自然の中にあって、自然を取り込んでいるということである。 わたしはヨーロッパ文明が大好きだ。エジプト文明、ギリシア文明、アジア文明ではなく、ヨーロッパ文明である。それを紹介するテレビ番組が時々あるが、それを新聞で探して、飽かず見ている。アメリカ文明も、あれはジュラルミンの箱のようで、あまり好きになれない。そしてヨーロッパ文明が好きである理由は何かと、ときどき考えることがある。たとえば街並みを形づくっている家々の窓などを見ていると、そこに住んでいる人々のたつきが感じられて、飽きることがない。そしてそれらが懐かしいのは、結局、人間の自我が懐かしいのであろうと思った。 自然と自我の、どちらも必要なのだと思う。そしてわたしは思うのだが、わたしはこれまで、そのことを、強調してきたと思う。自然と自我との止揚、その関係性が大事であると言ってきた。「自然の必然と歴史の尊厳」と、自著のどこかに書いたことがある。しかしそう言いながら――わたしは反省するのだが――、その関係性の中にあって、あらゆるものの相関性を主張しながら、その実、自分の個人性ばかり主張していた気がするのである。関係性といいながら、死はやはり、個人の消滅として怖いのだ。とてもフランチェスコのように、「わが姉妹なる死」とは言えない。死は、近代自我の終焉である。それは自我にとって、絶対的な孤独である。そのことがヨーロッパ文明に対するわたしの心情的共感の理由ではないのか。毎日の夕方になると感ずるこの寂しさは何だろう、と思う。もちろん七十九才という自分の年齢のこともあるだろうが、その根本的理由は、関係性ということを言いながら、自分が自分の個人性の消滅にのみ捉われているからではないのだろうか。自我の痕跡である西洋美術にわたしが共感するのも、この自我としての寂しさが、その理由ではないかと思えてくる。すくなくともその寂しさの、消極的理由ではないかと思っている。 佛教の悟りとか、キリスト教の信とは、非常に個人主義的なもの、むしろ個人主義または主体性が、信や悟りの本質であるようなところがある。集団的回心とか悟りというものはない。むしろ集団的論理、つまりイデオロギーになることを拒否するところが、信や悟りにはある。 もともと人間とは、自己を離れて見ると、大概おかしい風情を漂わしいてくる。それをユーモアというのではないか。友人の掛井五郎という彫刻家(非常に有名)から、個展の案内状が来た。そこにこうある。「何故、人間は問題を抱えながら生きているのか。答えは無い。『彫刻』とは何か。長年仕事を続けてきた理由を自分に問うたが、答えは無い。だが、今日もアトリエに入って制作をする。2008年、冬」。これはこの著名な彫刻家の、存在としてのユーモアではないのか。 振返ってみると、わたしの毎日は安定している。夢も無く、希望も無く、毎日不安で睡眠剤を飲まないと眠れないが、ふと人生のこの時期、「わたしの毎日は安定しているな」と思うことがあるのだ。今朝も朝七時すぎに起きて、ヨーグルトと果物、お茶とパンを主体にした朝食をとり、それから新聞を細かく読む。昼ごろ昼食。午後は一時間から一時間半の散歩、帰って夕刊を見ながらテレビ(今は一時間ぐらい相撲を見る)を見る。夜は大概テレビを見ていている。その後入浴、間もなく布団に入り、読書をしながら、睡眠剤を飲んで眠る。そしてこれはこれで、安定しているかもしれないな、と時々思う。人生の末期に、自分の一生を振返ってみて、この時期は、棲家も手に入れたし、収入も食うだけならあるし、案外安定しているかもしれないなと思う。そして、この時期、高齢の男が、こんな生活をしていたと思うことで、気分が落ち着くのである。 わたしは論理的には、関係性の中に個人を位置づけているが、しかし関係性そのものは、個の存在を前提しているものだ。自然と自我は同格なのである。この自我の確認が、ヨーロッパが懐かしい理由だと思われる。しかしそのことは、日本文化の肯定にも連なっている。人の生はユーモアが本義であるのかもしれない。
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