二 つ の 知 恵

小田垣雅也 

 

 「コリントの信徒への手紙 一」一章一八〜二五節には、人間の知恵には二種類あると書いてある。第一は「世の知恵」つまり「学者、論客の知恵」であり、第二は「十字架の言葉」による知恵である。そして「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」とパウロは言う。パウロの世の知恵に対する敵意は相当なもので、それは「学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものとされたではないか」と、世の知恵を舌鋒するどく糾弾していることからも伺える。わたしは、いわゆる学者や論客の「世の知恵」、つまり現代的用語で言い直せば啓蒙主義的・科学的知も大事だが、それだけが知恵の全体であると考えると、世の知恵は歪み、パウロの糾弾の通りになると思う。世の知恵は、いつも十字架の知恵と拮抗していなければならぬ。むしろ知恵の基本は十字架の知恵ではないか、と思う。

 世の知恵、科学的知は、正・誤、善・悪などの区別を原理とした知恵であり、したがってその知恵はすぐに白黒の決着がつくようでありながら、実際はそうではないのである。以前、ファジー理論の本を何冊か読んだことがある。ファジーつまり「曖昧な、はっきりしない」は、クリスプつまり「境界の明確な」の対義語である。そしてこのファジー論はコンピュータの制御理論の研究者であるザデーという人が唱えだした理論だそうで、クリスプな論理の典型であるようなコンピュータでさえ、一つの結果の原因をどこまでも辿っていくと、それはきりがなくなり、制御不能になる。だから現実には、正確だと思われる値を適当に仮定してこそ、制御は可能になるというのである。その意味で、コンピュータの制御理論は、ファジーな、曖昧な知恵の上に乗っているのだという。これはその例になるかどうかしらないが、わたしはコンピュータにも個性があるということが少し分かった。娘のコンピュータとわたしのコンピュータは個性が違うようだ。電子機械だから、応えは一瞬の内にでるのかと思っていたら、どうもそうではないのである。わたしたちの日常生活でも、ある事柄の原因をどこまでも辿っていくと、始末がつかなくなり、原因そのものの意味が拡散してしまうようなことはよくある。たとえばわたしが何かの会合に遅れたという場合、その遅刻の原因は電車が遅れたからで、電車が遅れたのはその電車が車と衝突したからで、それは車の運転者の飲酒運転が原因で、その理由は前夜宴会があったから。そしてその宴会はある人の送別会があったからで、その送別会はその会社が不況になったからで・・・という具合である。しかしその会社の不況が、わたしの遅刻の原因になるのか。これは「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話になろう。会合への遅刻というような単純な事態も、その原因を辿っていくと曖昧な事態になってしまうのである。

 しかしより原理的には、客観的知は、実は主観的であるということがある。わたしたちが人から評価を受ける場合、その評価に満足することはまずないが、それは客観的評価というものが、実は主観的なものだからだ。自分に対する客観的な評価でも、前から見られた場合と、後ろから見られた場合、また横から見られた場合では、それが客観的評価でありながら、その内容はそれぞれ違う。客観性とは、実は主観に対応したものなのである。主観のない客観というものはない。客観性とは中空に浮かんでいるわけではない。わたしたちが友人の子供の写真などを見せられて困惑することがしばしばあるのも、その写真はまさにその子供の――大概の場合可愛い――客観的映像でありながら、親とわたしでは、その子供に対する主観的関わりが違っているからである。「可愛いだろう」とその子供に対する親の感動を押し付けられると、他人であるわたしは迷惑する。客観性は、それが主観に対応したものだということを離れて一人歩きをはじめると、独断になるのである。その場合、主観―客観という、主観を中心にした仮構の構図は、仮構ではなくて虚構になる。客観的事実も、主観性という曖昧な事態によって客観性であるのだ。科学的知はクリスプに白黒が分けられるような、すぐに決着のつくものではないのである。

 

 それに対して「十字架の言葉」とは何か。二章には「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」とある(二章七節)。神の言葉は神秘であり、世界の始まる前からある、その意味で人間による認識を超えた、認識にとっては曖昧なものだと言うのである。そしてそれが「信仰に成熟した人たちの知恵だ」という。その神秘の知恵とはどのような知恵か。

これは認識を超えた神秘だから、論理的に説明することは難しいだろう。しかし少なくともそれは、学者・論客の知恵を一度否定したところに実現する知恵ではなかろうか。教会に集まっている以上、わたしたちはみな信仰を持ちたい。しかし不信仰とクリスプに境界を分けた信仰は、わたしたちは持てない。というよりも、それはむしろ本当の信仰とはいえないのではないかとわたしは思う。以前、椎名麟三氏が、信仰には信じられないということが含まれているのだ、ということを言ったことがある。それを聞いたとき、わたしはわが意を得たような、安堵した気分がした。それというのは、そもそも信仰という事態がありうるためには、光は影を伴わなければ光ではないように、不信仰という事態が裏側になければありえないのである。しかしこのことを別様に言えば、信仰という事態は、光が影を伴って光でありうるように、常に不信仰を伴い、不信仰を必要としているということでもある。椎名氏はそれを、「信じられないということの復権」と言った。信仰と不信仰はいわば二重性の現実であり、決して信仰は不信仰とクリスプに分けられた事態ではないのである。むしろ、それこそが信仰である。ルターが「罪人にして同時に義人」と言ったのも、不信仰という最大の罪は、同時に義、つまり信仰である、と言ったのではないか。しかし信仰でも不信仰でもないものはないから、この二重性とは、曖昧な、神秘としか言いようのないものではないか。そしてこの二重性は、禅的な即非の事情と通じ合っていると言ってもよいだろう。

 パウロがここで言う「十字架の言葉」に関して、ケノーシスということが言われることがある(フィリピの信徒への手紙、二章七節)。イエスは神の子でありながら僕の姿をとり、神の子としての自己を空しくし(ケノーシスし)、十字架の上で神に見捨てられて死んだ。しかしそのことによって、逆に自分が神の子であることを証明したという。「十字架の言葉」とはこのように、神の子としての自己を空しくすることと、それによって神の子としての自己を啓示することとの、二重性の言葉だとわたしは思う。それが神秘の言葉ではないか。それは本性ファジーな言葉で、少なくともクリスプな言葉ではない。そのひそみにならって言えば、学者・論客の「この世の知恵」は、それが一度否定されることによって、逆に本当の真実が到来するようなものではないか。むしろそのような、否定を通過した肯定という二重性の神秘に立つときに、学者・論客の言葉は、人間の言葉としての自分の分限を弁え、虚構に転落することなく、科学的真理を表わすのではないか。写真はたしかにその人の面影を写しとっているように、である。

 真実は、言葉とくに学問的・客観的言葉になってしまっては、その言葉そのものによって隠蔽されてしまうことがある。禅で言う「不立文字・教外別伝」であり、また聖書で言う「文字は殺し、霊は生かす」(コリント二、三章六節)である。これはハイデッガーを初めとする現代の言語論の基本的了解でもある。だから「十字架の言葉の神秘」も、人間のクリスプな言葉には盛りきれない。しかしそれがそもそも人間の言葉、人間の現実ではなかろうか。人間はその深層で、いわば「前言葉的」(preverbal)知恵によって生きている。それに対して学者・論客の言葉は「後言葉的」(postverbal)知恵であると言えようか。

このことの意味は、この十字架の神秘は、論じ合い、認識しあう問題ではなく、生きる問題だ、ということだ。言い換えれば、それは互いに関わり合いながら生きていく愛の問題、愛し合う問題であるということだ。人間は縁起の世界に生きている、と言い換えてもよい。「世界の始まる前から定められている知恵」とは、「後言葉」による学問的知恵の生まれる前から、人間の現実そのものとしてある知恵ということであろう。それが「十字架の知恵」だとパウロは言っているのだと思う。(04303)

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