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老 い に つ い て 小田垣雅也
円空という禅僧がいる(1632-1695)。あの本質は省略だろう。もともと円空仏は、すべてを捨て去ることから始める。わたしは、円空仏は「もっともよく分かる者の一人」だと思うが、あるとき小金井の家の修理をしていて、大工の一人が、「家には円空仏がある」と言った。持ってきてもらって見てみると、それは円空仏であった。あれは省略の美だ。捨てて々々、それ以上捨てられない、というところに円空仏の現実はある。それはまた、禅の無に通じていよう。 これはいつかも書いたことがあるが、西洋の彫刻の特徴は、その「微に入り、細に渉った」彫刻が、円空の省略の美学とは別の次元にあるということである。その事実に打たれた経験が、わたしにはある。西洋彫刻には、真理に対する人間の「反抗」がある。そこには反抗の気配が確かにある。それは「すべて」に対して、たとえば、自分の老いの醜さに対して、「すべてに恭順する」という円空のような気配がない。ただ西洋彫刻には、目前の美に形を与えようとしている。円空仏には、自分の「老いの醜さ」をも受容するといった、省略の美学がある。それが円空仏を円空仏であらしめている。 「反抗」がなければ相手はよく分からない。円空仏についても、それを後に残したという事実は、一つの「妥協」である。尤も、円空自身は、そういう人気のもちようを脱しているのかもしれないが。それもわたしが、円空が気に入っている理由だ。西洋の彫刻はその「反抗」によって、と同時にその恭順によって、つまりそのバランスによって、分かるのではないか。むしろ西洋美術のその「恭順」によって、わたしはその反抗の美学に打たれたのだ。どうせ人間には、どんなに微細にわたってそれを表現しようとしたところで、人間が「敗北」すること以上はできない。その「微に入り細に渉った」反抗の熾烈さによって、人間はその空しさに打ちすえられるのが西洋彫刻ではないのか。ミケラジェロを見ても、ラファエロを見ても、その人間の敗北にわたしは打たれる。または中世の教会の内部装蝕の、それこそ微に入り細に渉った飾りを見てもそうだ。なぜなら、そこに人間の「敗北」を見るからである。その「敗北」の熾烈さを通して、人間の強力さを見るからだ。西洋の寺院を回りながら、わたしはそのことに打たれていた。円空仏とは逆である。 円空仏はサッパリしている。一彫の目もとに、仏の悟りがある。大昔、『美酒について』という本を読んだ。吉行淳之介と開高健の、三回にわたる座談会の手記であったが、その中で開高が、「イロの道と言うのは、そのイロの道ができなくなったら、どうするのですか」と問うたのに対して、吉行が一言のもとに、「それもイロの道」と答えたのを読んで、わたしは感服したことがある(これはむかし書いた。むかし考えたことは、そのまま覚えている)。老いが醜いのは、老いの風姿のうちだ。 一番最初にあげた女の人も、彼女にとっての美を諦めることが大切である。それは「すべて」を諦めることに繋がっている。しかしそうしてのみ、美が救えるのではないか。彼女の美学を諦めること、しかしその潔さによって、彼女自身の美的生活を、彼女自身の生きている感動を、表出することができるのではないか。たぶん、それのみが許されている。 わたしも今年八十一歳になる。そして思う。「美的生活を諦めることが、残された、真に美的な生活だ」と。それが「永遠」の、同時にまた「反抗」の意味だと。恭順と滅亡、それがたぶん、美のあり方なのである。
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