は じ ま り


小田垣雅也

 

 「はじまり」とは二重性の生き方だということを、考えてみたい。創世記一章一〜五節は、「天と地」「光と闇」という二重性が、ものごとの「はじまり」であることを暗示している。

 先日テレビを見ていたら、何とかという探検家と女優が、南米のアマゾン河流域の人跡未踏の地域を探検するという話をやっていた。人跡未踏の地域だから、地球が始まる頃の遺跡や地形が数多くあり、それを紹介する番組だった。わたしが見たのは途中からだったが、目が離せなくなり、つくづく地球の「はじまり」というものについて考え込んだ。
 もともと「はじまり」とは何か。いつかも書いたことがあるが、「はじまり」があるためには、それが、時間的にも空間的にも、始まらない前があるはずで、この事態は、時間としても空間としても、わたしたちの存在は無限に連なっているということに通じていよう。よく夜空を眺めていて、「宇宙の涯なんてないな」と思うことがある。そして、そもそも涯があるとしたら、それは始まりと終わりの二重性のものかもしれないな、と思ったりする。「はじまり」はその裏に常に、前の場合の「おわり」があって初めて「はじまり」であり、その「はじまり」と「おわり」の表裏一体は「無限」を暗示しているからである。

 若い友人のUさんがメールをくれた。それによると、「クリア・カットなことなどないということをモットーにして生きています」とあった。UさんはR大学のキリスト教学科の助教授だが、わたしに似て神経症的なところがあり、いつも離人症になやんでいる。「神経症にはクリア・カットな、直りきった状態などはない」とわたしは常々いっていたが、そして彼女がこういう言葉を使っているのは、わたしのその言葉遣いを意図的に真似たものものだと思うが、わたしの注意をそのとき惹いたのは、彼女が「それも、そういう状態に、もう馴れました」とある点である。神経症の治癒には、宇宙の涯の話と同じで、クリア・カットな、常態としての境目などはないのである。それは馴れるものなのだ。だからこそ、それに「馴れること」が、本当の意味での境目なのである。それが治癒の始まりなのである。
 対象論理上では、右に述べた意味での「本当のはじまり」はない。すでに述べたように、過去はかならず、それ以前の、過去を過去としてあらしめているものにつながっていて、はじめて過去でありうるからだ。もともと神経症の治癒の「はじまり」とは、クリア・カットなものではない。それは「馴れる」という状態と、少なくとも心理的には、重複している。
 むかし少年のころ、夏に臨海学校に行っていたことがある。沖の白帆は動いているようには見えない。しかしそれは、たえず動いているのであり、しばらくすると、岬のかげにかくれていったりする。ものごとの実態とは、そういうものであるかもしれないな、と子供心に思った。つまり、動きながら動いているようには自覚されないのである。動きと停止の二重性である。ものごとの「はじまり」も、また「おわり」も、劃然として、そこにあるものではなく、それは対象論理をこえたもの、それに「馴れるもの」ではあるまいか、とそのとき思った(こういう言葉を子供のとき使ったわけではないが)。
 これは信仰もそうだろう。信仰は信―不信の水準を超出し、その状態に「馴れる」ものであって、劃然とした「はじまり」も、またその「おわり」も、ないものではないか。そのことを受け入れることが大事と思われる。

今日は一年の「はじまり」だが、わたしにパウロの、眼から「鱗のようなものが落ちた」回心の体験はあるか(使徒言行録九章一八節)、と聞かれれば、「ある」と答えるほかはない。それがわたしにとって信仰の「はじまり」である。それはパウロのように、「眼から鱗のようなものが落ちた」体験であった。四囲の世界が、一度にパッと明るくなったようにその時感じた。しかしその体験は、一見、明瞭なものでありながら、それは常に、いわば過去のものでもあったのである。つまり論理的には、二重性的な曖昧なものであったのだ。それはクリア・カットなものでありながら、「これが信仰のはじまりだ」と考えうるような、劃然としたものではなかった。回心とはよく考えてみると、そういうものではないのだろうか。
 反―主観・客観的思考とは、それが決して「対象物件」にはならないという意味で、あえて言えば、それは信仰と同じで、「時間を超越したという意味での過去」、という事態ではないか。過去・現在・未来というのは、時間の対象化であり、いま言おうとしているこの「過去」は、線的時間としての過去ではない。それは論理的には、劃然と捉えることはできないという意味での「過去」である。この「過去」は、線的時間での過去のように、確定した意味で存在しないという意味で過去であるのではない。対象化された時間以前の、一本の線としての、過去の時点としてはとらえられないという意味での「過去」なのである。
 というより、わたしの回心体験は、線的意味での過去を超えたものだということができよう。わたしはいつも、自分の回心体験、信仰の「はじまり」を思うとき、それを、線的時間を超えた、理論的つまり対象論理的な、線的意味での自分の過去の回心体験として考えて、常にあるもどかしさを感じている。それは質的「はじまり」を、「量的・時間的」始まりと混同しているのである。むかしの人はそれを、前者をカイロス、後者をクローノスと言って区別した。
 こうも言えるかもしれない。わたしの回心は、線的時間のある時点ということであって、線的時間はすぐに古くなる(クローノス)。問題は、その時点で、わたしが主体的転換をしたということである。それは古くはならない。主体性は古くはならない(カイロス)。つまり、回心の体験には二種類ある。一つは線的意味での過去の出来事であり、もう一つは、主体的出来事としての「過去」である。

 質的に相違した生き方に目覚めるということは、そのような意味で、線的時間の枠にとらわれない、生き方ではないか。それが主体性ということではないかとわたしは思う。わたしが自分の回心の体験を思い出すとき、「それでもいいのだ」という、ある本質的な大肯定、信仰の「はじまり」を感ずる。具体的に言えば、それがわたしの場合、イエスをキリストと信ずるという信仰告白だった。理論的・客観的、線的時間として言えば、この信仰告白に対しては、疑問は湯水のごとく湧き起こる。しかし「それでもいい」のである。

 人間の信仰の「はじまり」とは、そういうものではないのか。疑問と肯定の二重性である。それはいわば肯・否を含めた大肯定だ。これは、信仰は知性の犠牲とか、やみくもに信ずるということとは、別のことである。わたしがひそかに恐れているのは、世のキリスト教徒が、信仰のこの質的出来事を、量的・時間的出来事と勘違いして、知性の犠牲を自分に強いたり、やみくもに信じたりしていることである。
 だからわたしの日常生活には、倫理的生活上には変化は無い。わたしは依然として、いい加減な、だらしのない男である。身の処しかたとしても、身綺麗にも、偉くもなっていないし、牧師らしくもない。この傾向は高齢になって(七九才)、ますます顕著になっている。史上数あまたある聖僧のように、クリア・カットに「枯れて確実な」宗教家ではわたしはない。いつかも何かで読んだが、ある親子が「うつ」になって、ある指導をうけ、子供のほうはメキメキよくなったが、親のほうは一向によくならない。しかしある時、その親は「気がついたら、昔の自分はこういう反応ではなかった、むかしの状態は過ぎさった」と思ったそうである。わたしもときどき、そう思うことがある。それが「はじまり」ではないのだろうか。

 H君に借りた本で読んだのだが、五木寛之に只管人生という言葉がある。只管とは、「ただひたすら」ということだ。もともとこれは道元の言い方で、只管打坐ということ、ただひたすら座禅を組むということである。つまり、悟りを得るためにその座禅を組むというのではない。そのような意図は雑念である。そのような「雑念」を捨てて、「ただひたすら」座禅するということらしい。それを「心身脱落」という。「心身脱落」の境地は、わたしには分からないが。
 しかし悟りをえようとして座禅を組むということが、座禅にとって「雑念」であることはよく分かる。それでは焦るばかりだ。しかし一方、もともと悟りをえようとしないで座禅を組むということもありえないだろう。それにもかかわらず、その「雑念」も捨て去る。つまりここにあるものも、よく考えてみると、悟りを得ようとするこころと、それを捨てようとするこころの、二重性である。
 只管打座があるのなら只管作務という言葉もあるはずだと思い、自分の本のどこかにそう書いた。(只管打座はあるが、只管作務は禅の事典に載っていない。)作務という言葉は禅にある言葉で、要するに作業のことである。これはわたしが森田療法から学んだことで、森田療法では、始めに重労働、次に軽労働を患者に課するそうだ。しかしその労働によって神経症を治そうとしているうちは駄目で、患者は目前の作業に没頭する。元来、この没頭するということが、作業というものの本性である。それを続けているうちに、患者は自分の神経症に気付かなくなる、つまり直る、というのである。
 作務は禅僧の重要な課程であろう。ここでも言われていることは、作務によって悟りを得るのではなく、それは悟りを得る道ではなくて、目前の作業に没頭すること、しかしそれが、悟りをうる方法だという二重性なのである。
 言い換えれば、ここには只管打座と同じ動機がかくされている。ここでも、作業によって悟りをうることは雑念として否定され、しかも作業そのものは、根本的には、悟りを得るためだということ、言い換えれば、作務に関しての二重性が意図されている。つまり二重性が、悟りの「はじまり」なのである。
 それに対して五木寛之氏はすでに述べたように、只管人生ということを言っている。(〇八年一二月の広谷和文氏のクリスマス説教参照)只管人生とは「それは、生きること、である。<ただ生きる>こと、それがいま、私が考えているいちばん大切なことだ」(五木寛之『21世紀佛教への旅・朝鮮半島編』講談社、二〇〇七年、一九七頁)ということだが、そこに見えるものも二重性である。地獄をひたすら生きる。楽しいこと、生甲斐がなくとも生きる。しかも、五木氏は端的にこう書いている。「極楽は地獄のなかにたしかにあったのである。」「現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」(同書、一八三頁)。ここにあるものも、佛教信仰に関する、明瞭な二重性であろう。

 信仰の「はじまり」とは、信と不信の二重性だと思われる。ことがらの本質は、対象論理的には二重性である。終・始、昼・夜、男・女のようにである。その意味で、対象論理的には曖昧なものだ。クリア・カットなものではない。それは常に線的意味では過去になる。しかしそれが、そもそも「はじまり」の意味ではないかと思う。

 

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