正  月  (二〇〇八年)
小田垣雅也

 

 「正月は冥途の旅の一里塚 目出たくもあり 目出たくもなし」という、たしか一休さんの狂歌があったが、わたしもこの年になると、その境地が分かるような気がしてくる。「移り行かざるもの」、対象的・客観的・一意的なものに対する価値観には、ほとんど敵意に近いものを感じている。正月がお目出たいという価値観とはなんなのか。過ぎ行かざるものとしての「めでたさ」とは、一体、あるのか。「ほんとうの」真実とはそもそも何か。

 そもそも「本当」とは何か。学生のころ代々木上原教会に通っていたが、そこには小説家の椎名麟三さんも時々顔をだしていた。そして自宅が近いせいもあって、教会の連絡に一、二度、お宅の玄関先まで行ったことがある。その頃赤岩先生を通して聞いたことだが、椎名さんはある夏、宿屋に籠もって小説を書いていたのだそうだ。滞在費がなくなったので自宅に連絡し、金を為替で送ってもらったよし。土地の郵便局へ行ってその為替を現金化しようとしたところ、その為替が本人のものであるかどうか、証明する必要があると言われた。旅先ではあるし、大体、小説家は自分自身の証明書などはもっていない。自分を証明するものはなにもないのである。そこで椎名さんは自分の顔を指差し、「自分がほんとうの大坪(椎名さんの本名)ですよ」と主張したのだが、その主張は通らなかったのだそうである。それで自宅に連絡して、たしか健康保険証か何かを送ってもらい、為替を現金化できたのだそうである。このことは「本当」ということが、それを証明しようとすると、面倒なもの、第三の客観性にたよる以外ほとんど不可能なものであることを示している。「本当」とは、それ自体として、静止して在るものなのか。それとも、それ自体としては、確定できないものなのか。

 「本当のもの」とは、第三の客観的事実を加えた、三位一体的に成立するものだと思われる。キリスト教の三位一体論(tres personae, una substantia)が教義として定式化されたのは四世紀、ニカイア総会議であったと思うが(三二五年)、三位一体論という、このしばしば誤解されている教義は、事柄のありようの、真相を言い当てているかもしれない。三位一体論はルターによっても主張されたが、ルターは三頭一身体の怪物を信じているなどと悪口を言われた。椎名の場合、郵便局員・椎名本人・健康保険証という客観性が三者一体になって、「これが椎名麟三だ」という真理認識が成立したことになる。郵便局員の主張は、もっともなところがある。「本当の」本人(真理)だけでは間に合わないのである。健康保険証がなかったら、椎名麟三という真理も、「本当」にはならなかったであろう。つまり流動的なままであったであろう。

 現代の三位一体論であるといわれている脱構築論によれば、1プラス1は、少なくとも3を生むという。一つの文章を解釈する場合、その解釈は解釈者の数だけある。先月の説教で、わたしは『霧多布の風』という詩(わたしの)を引用し、その後で解説じみたことを言ったが、実はその解説は無駄なのだ。解説めいたものを書きながら、もともとその詩の唯一の正しい解釈というものはないのだ、とわたしは思っていた。むしろ詩の生命は、唯一の解釈はない、という緊張の中にあるので、唯一の解釈があるとしたら、それは日本語という文法上のことがらになるだろう。しかし文法的分析は、それが正確であっても、詩を理解したことにはならないのである。だから詩人は時々、自分の意図を表現するために、文法を無視することがある。
 だから脱構築的解釈論によれば、詩、その解釈、および解釈は無限にあるという解釈の場、という三つの契機によって詩の解釈は成り立っているのである。それが「1プラス1は少なくとも3を生む」ということである。詩の理解は流動的で緊張したもの、確定したものではない。詩の魅力はそういう緊張の中にあるのではあるまいか。もともと、一つの解釈で安定してしまった詩はない。詩だけではなく、人間の書く文章はそういうものだ。それが脱構築論の反省である。自明的に「本当の」ものなどは、ないのである。法律文書や科学文書が、微に入り細にわたっているのも、それによって誤解の余地をなくしようとしているからである。その理由はこういう意味での、解釈の流動性、文章解釈の三位一体論的構造にあるのではないか、と思う。
 そのことは、人間に関するかぎり、科学的に定形された、唯一絶対の、「本当」の真理はない、ということでもある。宗教的言語が分かりにくく、それは少なくとも一意的言語でないのは、根本的に言えば、そういう理由によっていよう。言い換えれば、「本当」のことそのものを「証明すること」はできないのである。それが三位一体論が必要である理由ではあるまいか。

 聖書のヨハネ伝一四章六~七節によれば、イエスは次のように言っている。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや既に父を見ている。」
 この場合、「道」は(ギリシア語でホドース)であり、わたしたちが人工的「道路」をイメージすると、間違う。道とは高速道路のように、設計者によって構想され、経済効果が計算され、道の始点と終点がはっきりしているようなものではないだろう。あれは近代人によって、または古代ローマ人によって、ある目的のために造られた「道路」である。「道」ではない。台風などによって崩壊するのは、大概の場合「道路」であって「道」ではない。つまり「道路」は、自然の理に反しているのである。
 「道」とはむしろ、自然発生的な、そこを通れば便利であるような、いわば「けものみち」のようなものではないか。藤村が歌っているように、「りんご畑の木下の、おのずからなる細道は、誰が踏みそめし形見ぞと、問いたもうこそ恋しけれ」の「おのずからなる細道」が「道」である。目的地に向けてまっしぐら、というようなものは「道」ではない。イエスがこの聖書の箇所の中で「自分は道だ」と言っているのは、「自分はこのような意味での道だ」といっているのではないかと思われる。もともとイエスの時代のパレスティナ地方には「道路」などはなかったのではないか。砂漠と荒野に「道路」などはない。すべての道(道路)はローマに通ずる道は、意図的に建設されたのかもしれないが。定義可能な、誰が見ても本当の「道路」を「道」とするのではなくて、目的も殊更な視点も終点もなくて、なぜそこのあるのか合理的な概念以前のものが「道」ではないか、ということだ。イエスが「わたしは道である」と言ったときの「道」は、こういう自然なものであったと考えるほうがよいであろう。
 また「わたしは真理である」の「真理」は、聖書ではギリシア語の「アレテイア」という訳語が当ててある。これもその解釈には用心を要するのであって、これはヘブル語のエメスであろう。(イエスはヘブル語の親族であるアラム語を使っていたとされている。なおヘブル語の旧約聖書をギリシア語に訳したのが「七〇人訳」。通称セプトゥアギンタ)。もっともヨハネ伝はギリシア哲学の影響が濃いといわれているが、その場合でも、この「真理」が、ロゴスに対応した一意的・科学的真理、万古不動の客観的真理としてイエスが使ったとは考えにくい。そうでなければ、それにつづく言葉「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがわたしを知っているなら、父も知ることになる。いまからあなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている」という宗教的言い方も分からないことになる。これは合理的・一意的言語つまり「真理認識」として分かることではない。イエスの用いている真理は、現代の言葉で言えば、主体的真理、ということであろう。それはギリシア語のアレテイアではなくて、ヘブル語のエメスに近い。ギリシア語には、アレテイアと訳す以外、適切な訳語がなかったのだろう。
 そして「命」であるが、「道」と「真理」が以上説明したようなものである場合、人間は死によって終結する科学的な生命体とは考えにくい。人間の死は、単に機械としてのポンプの停止と同じではない。啓蒙時代は『人間機械論』(ド・ラ・メトリ)がもてはやされたが、それは啓蒙主義の行き過ぎである。
死には二種類あると思う。生命体としての終結としての死と、関係存在としての人間が、関係する周囲の納得によってもたらされるような死である。従来のように、心臓が停止し、呼吸もなくなる場合、この死と心肺停止の両者の区別は一致していた。しかし脳死論が盛んになることによって、この両者は切り離された。
 わたしは脳死論に反対である(拙著『ネオ・ロマンティシズムとキリスト教』創文社一九九八年、第二章~三章)。人間は単に生命体ではなく、関係存在であり、関係する周囲に「死んだ」と認められて初めてその人は死ぬのである。脳死論者が、自然呼吸をし、脈拍も打ち、体温もある死体を、それでもその人は死んでいるのだ、と周囲に納得させて、周囲もそれを(その人の死を)認めたとき、初めて脳死体は死体になる。周囲が認めないかぎり、その人の死は死体ではないのである。これは人間論に関する事柄であって、人間を関係存在として捉えるかどうか、ということに関わっている。現行の脳死論は関係存在としての人間論を無視しているところがある。哲学者の梅原猛氏も、同様の理解を主張されていた。これは脳死という具体性の中で、「本当」とは何か、を問題としていることだ、と言えるであろう。

 正月はめでたくもあり、めでたくもない。一休さんのような皮肉な意味によってではなく、めでたさも流動的・関係論的だということであろう。しかしそれが「本当」のめでたさではあるまいか。キリスト教の三位一体論も、そのようなことを主張しているのか、とも思う。案外、一休さんも、そのような「本当の」めでたさのことを、この狂歌によって暗示しているのかもしれない。

 

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