新 し い も の

小田垣雅也

 

 敗戦のときは、わたしは中学(旧制)四年生、たしか一五歳であった。そのころ、親が新しい野球のボールを買ってくれて、弟と二人でキャッチボールをして遊んでいたことがある。当時は物資欠乏の時代で、親がどうして新しいゴムのボールを手に入れてくれたのか分からないが、真っ白のゴムの新しいボールが、土で汚れるのが気がかりであった。そして、新しいものは必ず古くなるという、ある意味では哲学的命題を、わたしはそのとき考えたりした。

 その後、大学へ進み(その前にわたしは肺結核になって、実際に大学へ入ったのは七年遅れであったが)、大学のある講義で、新しさには二つの種類があることを学んだ。一つは新・旧の場合の「古さ」に対向した意味での「新しさ」、もう一つは、決して古くはならない新しさである。 英語で言うと、 前者はニュー、後者はノーヴェルであるという。ニューにはオールドの場合のように対義語があり、このニューとしての新しさは、新しいボールのように、使っていると古くなるが、ノーヴェルは決して古くはならず、したがって対義語がない。その教師は、ノーヴェルを「新奇さ」と訳していたと思う。ちなみに、英和大事典を繰ってみると、novel には「新奇さ」という訳にくわえて、「新しい種類の」「見たことのない」「今までにない」などの訳語がならんでいる。要するにノーヴェルは、今までになかったような新しいもの、遠からず古くなるような、新しさではない「新しさ」らしいのである。これはわたしが神学科でキリスト教学を学んでいたせいかもしれないが、たぶんその教師は、「神の国」は決して古くはならない新しいものであり、今までに見たことのないものだ、という信仰論的事情を説明するために、この区別を解説したのだと思う。もっとも、そう解明してしまっては、議論はそこでおしまい、みたいなところがあるが。しかし「新しさ」には、遠からず古くなる新しさと、常に新しいもの、それこそが本当に新しいもの、の二種類があることは覚えておいたほうがよいだろう。

 今日テキストにえらんだ、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエスガ言ったのに対して、ユダヤ人の議員であるニコデモが「年をとったものがどうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょう」と言っている(ヨハネ伝三章三〜四節)。この「新たに」の原語はアノセンだが、新約聖書用の『ギリシャ語―英語辞典』では、アノセンには「新しく」「再度」、また「初めから」の意もあるにはあるが、第一に挙げられている意は「上から」である。「上から」、つまり線的時間の「前方から」「後方へ」ではない。そして「アノセンから」は、「天国から」の意だと、解説がしてある。すると今日のテキストは「人は、上から、つまり天国から、生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということになる。このように訳してしまっては、あまりにステレオタイプすぎるようなところがあるが、「新しく生まれる」には、このような、ある意味では線的時間の範疇を超えた意味があるようだ。

 「ニュー」の新しさが、線的・時間的かつ対象的で、それは必ず古くなるのに対して、「ノーヴェル」の新しさは現実的・カイロス的かつ主体的であるといえようか。時間にも、クローノスと、カイロスの二種類があることは知られていよう。クローノスが線的時間であるのに対して、カイロスはいわば主体的時間である。今日のテキストは、このカイロス的意味で、つまり「この瞬間に、上から、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」といっているのではないかと思う。ニコデモはカイロス的新しさを、クローノス的な意味での新しさと取り違えているのだと思われる。しかし、カイロス的意味で「新しく生まれる」とはどういうことか。

 

 たしか去年の一一月の末に、NHKのテレビで『喜びは創りだすもの、ターシャ・テューダーの四季の庭』という、世界中のガーデナーたちが憧れているという、ターシャの庭の一年を追った番組があった。ターシャ・テューダーとは兎やその他の動物の絵(童画の一種)で有名な画家で、当年九〇才になるという。その動物や草花の絵は、子供向けの絵本などで見たことがある人が多いだろう。アメリカのヴァーモント州にあるというその庭は、庭と言っても三〇万坪だそうで、とてもターシャ一人では手入れはできないだろうと思う。それはともかく、ターシャは毎日、何十種類もの草花の手入れをし、春にも、夏にも、秋にも、粗末なヴェランダで午後の紅茶を飲み、時に絵を描き、庭の花々に囲まれて一人で暮らしているという。冬が来て庭が雪に覆われると、「この雪は春に咲く草花の毛布なの」と言う。そして、「毎年々々花が咲くのは、奇跡だ」という意味のことを言っていた。

 「年々歳々、人おなじからず、年々歳々、花みなおなじ」という人生の無常を表現した諺があるが、それに対してターシャは、花が毎年咲くのは奇跡だと言うのである。この番組が感動的であるのは、ターシャの中では、花が年々歳々咲くのは奇跡であり、それは「新しい」ことだからだろう。それが「上からの」、アノセンとしての、カイロス的な新しさなのだと思われた。新しいとは、この場合、今年も新しい花が咲いたというだけの問題ではなくて、ターシャが奇跡だといって感動する、ターシャの心の問題だということだ。本当に新しいもの、決して古くはならない新しさとは、結局心の中の新しさ、心の積極性なのだと思う。古いヴェランダで、たぶん同じ茶碗で、同じ姿勢で、午後の紅茶を飲みながら、ターシャは決して退屈していない。ターシャにとって、毎日が新しい喜びなのだ。

 まことに番組の副題にあるように、「喜びは創りだすもの」なのだ。わたしたちが春に芽をだし、夏に花を開き、秋に枯れて冬は雪に覆われる草花を、単に対象として観察しているだけだったら、それは当たり前で、その場合の花は遠からず古くなり、枯れる。通常の花のように、だ。決して古くはならない「新しさ」、「上からの」新しさとは、ターシャのように、花を奇跡だと、本当に感動する心の中にある。しかしそれが決して古くはならない、本当の「新しさ」ということではなかろうか。ターシャの心が新しいのである。それが生き方の積極性ということだろう。これは「気の持ちようで、当たり前の花も新しいのだ」などということではない。主体性の問題、カイロスの問題なのだ。

 花が何の花でも美しいのは、わたしたちが、花のいわばカイロスとしての存在の新しさを、心のどこかで知っているからではなかろうか。線的・科学的意味での新しさは、本当に新しくはないのである。それは必ず古くなる。新しい野球のボールも、いずれは古くなるように、である。造花が新しくても、生花のような美しさ特有のある緊張感がないのは、それは単に新しい造花というだけで、遠からず古くなるからだ。わたしたちはそのような時、古くなり埃をかぶった造花を、無意識のうちに考えている。ターシャの庭が有名であるのは、「地面を覆っている雪は春の草花の毛布なの」というような、または「花が毎年咲くのは奇跡だ」というような、ターシャの心の新しさと積極性が、染みとおっているからだろうと思う。それがガーデニングというものだと思う。春に花が咲くのは当たり前だ、と言ってしまっては、新しさも美しさもない。「あら、綺麗ね」と言うだけだ。雪も、ただ鬱陶しいだけである。もともと奇跡を信ずるとは、毎年花が咲くという当たり前のことに驚くことのはずだ。当たり前のことのなかにこそ、カイロス的新しさ、美しさはある。新約聖書の「ヨハネの黙示録」に描かれているような回天動地の、唯一回的天変地異としての奇跡などは、もしあったとしても、すぐに古くなる。イエスの復活のそうだろう。それは奇跡ではない。奇跡はいつも新しいのである。天国もそうだ。

 

 今日は新年礼拝だが、わたしはつくづく、本当の新しさとはどういうことか、と考える。わが身を振り返ってみると、わたしは古いものにばかりとらわれているように思える。たとえばわたしの身体的悩みの一つに、この半年ぐらいとくにひどい不整脈がある。不整脈というのは、わたしの場合、規則正しく打っている脈拍が一つ跳んで、次の脈が大きく打つという形のものである。それが断続的につづく。それが続くと夜も眠れない。ただし複数の医者は、それは健康な人にもしばしばあり、ただそれに気づかないだけで、全く問題はない、治療の必要もない、と言う。それならそれで、わたしはそれを気にしなければよく、そこで新しく――大袈裟な言葉だが――生きはじめればよいのだが、わたしはそれを延々と気にしているのである。そこには、それを気にしている古い自己が、いわばとぐろを巻き、新しい自己になっていない、と思うのだ。それを本当に気にしない新しい現実になれば、不整脈そのものもなくなるとは言わないが、少なくとも意識としてはなくなるだろう。

 カイロスとしての新しさと、クローノスのとしての新しさを区別せず、クローノスとしての新しさが古くなることに抵抗し、それにしがみついていたら、生き方は混乱する。それは新しいボールが何時までも新しくあるように望むこととおなじだからだ。わたしたちの悩みの大部分は、クローノス的新しさにしがみついて同じ悩みを繰り返し、後悔ばかりしていることから生まれる。人間が不老長寿を望むのも同じである。昔の王侯貴族たちは、不老長寿の薬を求めていろいろ苦労したという話だが、それは無理というものだ。真の新しさは、普通の物事に感動する心の中、心の積極性の中にある。ターシャ・テューダーのように、である。それはカイロス的生にあるのである。(05Z27)

 

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